ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

ヌケてるのは頭だけじゃなく“愛着”もヌケてた件 【愛着のヌケ編①】

偶然で脳下垂体に穴が空いていたことがわかりまして、とりあえず脳みそに穴が空いていたけれども大丈夫だったことが判明した後は、私の愛着のヌケがあったけれど、もうそれは解決したと思っていたはずなのに、何か事が起こる度に、私の中から湧き上がってくる『大切にされてるようで、全然大切にされてないじゃん!』という言葉と共に、怒りというか悲しみでいっぱいになることが何度かあり、前日のブログにもあるように、実は私の愛着のヌケは片付いていなかったことを思い知ることとなりました。自分自身を大切にすることを更に深め、どんなことがあっても、私が私自身の味方になってあげることを行いながら、過去の自分を見つめ返すことを今尚行っています。まだ始めたばかりの頃は、中々自分自身をコントロールできず、相方や母に辛くあたり散らかしました(苦笑)

私の中で痼りになっていた思いを相方や母に吐き出せたことで、やっと自分の気持ちを誤魔化すことなく、感情的にならずに、相手に伝えられるようになってきました。それでも腹のなかは煮え滾っていることもありますが、そういう時は「はーっ」と息を吐いて呼吸を整えることだけで解消できるようにもなっています。ただ、口は悪いですが…(´・ω・`)

それはさておき、私が幼い頃から感じていたなんだかよくわからない感情が

『満たされない思い=不足感』

だとわかったのが昨年末になりますが、そこに辿りつくまでのことを記事にしたいと思います。黒歴史に関してはまだ此処には書けない私がいるので、ご勘弁ください。それを書くことで巻き込んでしまうことにもなるからです。すみません。それでは、毎度ながら乱文長文になりますが、読んでいただき何か気がついていただけることになりましたら、幸いです。

 

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『誤魔化し偽っていた頃のこと』

 

弟が幼い頃から賢い子だったからというのもあり、弟とよく比較されて育ちました。周囲の人に『お前はバカ』だといわれて育ちました。幼い頃は、そういうふうにいわれてもただ間に受けてしまう体質だったので、悔しかったとは思いますが、笑ってすませていたように思います。この当時、周囲の人がいっていた『お前はバカ』だといい笑われていたことは、ただ単にバカにされていたわけでもなくて、かわいさ余っての『バカ』という人もいたのだという大きな意味での愛がわかったのは、恥ずかしながら40を越えてからでした(苦笑)

自分はバカなんだと間に受けていたその当時、テレビ放送されていたドラえもんをみて、のび太くんに共感していました。近所に住んでいた親戚の姉曰く、私が幼稚園の頃はとにかく何かしら勉強をしていたんだそうです。だから、そんな私をみて姉は

「今そんなに勉強していたらそのうち勉強したくなくなるよ」

と言っていたそうです。私としては、バカっていわれるから勉強すれば頭が良くなると単純に思って勉強していました。でも小学校にあがってテストの点数は満点をとるくらいだったので、自分はそんなにバカじゃないと思ったこともありました。ただ、私は授業を受けるだけでテストの点数がとれる弟と違って、予習や復習をするなど努力をしないといけないと自分で思い込んでいたので、小5の時校長先生が自宅学習に力をいれていたこともあり、その当時から一日2時間は勉強をしていました。

私がずっと満たされなかったことは、自分が頭が悪いからだということと、人と価値観が違うことが原因だとずっと思っていました。それとは別にずっと中高から悩んでいたことがありました。それは、仲良くなった友だちが他の友だちと仲良くしていると、すごくモヤモヤしちゃって、拗ねたりもして友だちを困らせたこともありました。“なんで私、こんなに焼きもちをやいてしまうのだろう。” “なんで拗ねちゃうんだろう。” “なんで、独り占めしたいんだろう。” そんな自分が嫌でたまらなかったけれど、どうすることもできませんでした。それは、大人になっても続き自分自身で病的だけど、これくらいのことを病院へ行くのはなんだか恥ずかしいと思ったり、病気などとは思いもしませんでした。だから、私はそんな自分を誤魔化すようなことで、その場しのぎのようなことを行い、自暴自棄になる度に自分を責め自分の内側に様々な罪悪感として溜め込んでいったのだと思います。

社会人になり、自分を誤魔化しながら、友だちや彼氏という存在ができそれなりに生活ができていました。それでも私の中ではわけのわからない正体不明の感情を抱いたままの時でした。元旦那と知り合う前に付き合っていた彼氏がいましたが、その人とうまくいかなくなっていた20代前半の時に、元旦那と出会いました。私は嫌いになってしまうと、その人がまるでこの世に存在していなかったかのごとく、自分自身の中から消去するような人でなしでした(苦笑)元旦那が歳が離れた人だったこともあり、包容力があると勘違いし、その時付き合っていた彼を捨てるかのごとく別れ、元旦那と付き合うことになりました。元旦那を好きだという気持ちは、今思えば、1度手に入れたお人形を手に入れるような感覚と同じだったのだと思います。そして、いつの間にか情が湧き、それを愛だと勘違いしていたのだと思います。ですから、彼を好きになるのと同時に、見捨てられてしまいそうな不安を抱えていたのだと思いますし、こんなダメな私と付き合ってくれる人はいないという思いこみもありました。今思うと、元旦那との恋愛の期間は、デートDVともいえるようなこともありました。酷く怒られた次の日に、しょんぼりしている私に甘えてきたりするようなこともあって、典型的なDVの構図だと気がついたのは彼と結婚をし子どもが生まれた後でした。

20代前半だったし、自分軸もまだできていない頃の出会いでしたので、多趣味な元旦那の趣味につきあったり、つきあわされたりして、彼色に染まるような教育をされました。それはその当時、私の自己成長できているようにも感じたし、彼の知ってる世界は私がまだ見たことのない世界をみせてくれたり教えてくれたことが好奇心旺盛な私を刺激し、彼に魅かれたのだと思いますが、その当時の私自身がただ主体性がなかったことで、支配されて生きている方が楽だったからだとも思います。スカートなんて履かなくなっていた私に女性らしい恰好や振る舞いをしなさいと言われたり、三つ指たててお出迎えしなさい、体重は50キロ以上になったらダメ、いつも笑顔で…など、いろんなお約束がありました。今はそんなこといわれたら、「はぁー?」と逆切れできるくらいになりましたが(笑)その当時はなんの疑問も持たずに彼のいうことを聞いていたのです。実際には彼色に染まっているだけで、内面だけでなく、外見も自分に付け足すような生き方になっているとは気がつけませんでした。その当時は彼色に染まることが『なりたい自分になる』ということになっていたのだと思います。元旦那は元旦那なりに、優しくしてくれることもあったし、彼なりの愛情をたくさんかけてくれていました。それでも、私はどこか満たされないものを抱え、大人になってできた友だちがいて、仲良くしてもらっても、拭いきれない孤独感に押しつぶされそうな自分をただ誤魔化すことしかできませんでした。元旦那と付き合いはじめて6年後に結婚することになりますが、本当は心のどこかで別れたい気持ちもあったのです。でも、私にはこの人しかいないとか、私のいろんな黒歴史も知っている人だからこの人以上の人は現れない、そんな思いのほうが強くて、自分から別れることができませんでした。今となってはそれも単なる私の思い込みや怖れがもたらしていたことだと思います。

結婚後、子どもに障害がわかり、その後の療育先で唯一信頼できるママ友ができました。その友だちも発達障害の当事者でしたので、子どもの療育のことや、互いの身の上をいろいろ話すことで、私は少しずつ自分自身を取り戻すきっかけとなっていきました。その友だちに、私と元旦那の関係を話したことで、私たちの関係性が一般的な恋愛や結婚生活とは違うということを気がつかせてもらうことになりました。もしかしたら、他の人たちも感じていたのかもしれませんが、元旦那の悪口になるようなことはあまり話したことがなかったこともあったので、それを指摘してくれたのは彼女がはじめてでした。精神的なDVのようだといわれ、そして、別件でもDVの話を聞いて、シンクロしたことで、ネットで調べその内容を読んだ時に、ぞっとしたのです。暴力は振るわれたことはありませんでしたが、暴言をはいて叱責されたり、理不尽なことで、怒号をあびせられることもありました。その後はそんな自分をカバーするかのように私に優しくふるまってくれることもあったし、私がドジで人に騙されたりしやすいから、守ってくれているんだと思っていました。彼自身が私を虐げたり、意地悪するようなことは許されても、彼以外の人が私を虐げたり、意地悪したりするのは許さないということもありました。そういった彼の行為はまるで、昔のガキ大将が自分が意地悪する子を他の人が意地悪することを許さないといったことと同じことだったのだと思います。ただ、あの当時はそれは私のことを大切にしてもらえていると勘違いしていました。けれど、DVを知った時に、私の中で初めて、拭いきれない寂しさや計り知れない恐怖感や訳のわからないみえない鳥籠にはいっているように感じたのは、このことだったのかとその時初めて気がつくことになり、その時愕然としたのを覚えています。

それに、実は、息子のお産をした次の日、緊急帝王切開での出産になったことでベットの上で病室の穴の空いた白い天井をみながら術後の痛みを堪えながら、ふと、魔法がとけたように我に返って

「ああ、〇さん(元旦那)のこといらない」

と頭の中によぎったのです。私って酷い人間だなと思いました(苦笑)この時はおそらく産後鬱だったからだとも思うのですが、本当に夢から目が覚めたような感覚だったので、自分でもビックリしたくらいです。それから、無意識に私は彼に対する不信感を感じはじめてはいたのだろうと思います。それからは、元旦那のことが嫌で嫌で仕方がないけれども、別れられない自分や嫌になってしまった自分と向き合う日々が続きました。息子がいたし、倦怠期なのだと思ったので、時が解決してくれて、昔のように嫌いではなくなるかもしれないと思い、自分をたしなめていました。それからは、喧嘩をするたびに別れたいけれど別れられない自分がいて、離婚することを躊躇していました。それを誰にも相談できずにいたし、生活に困ることはなかったので、贅沢な悩みだとも思っていました。

自分に嘘がつけない性分なので、元旦那の前で好きなふりをするのがとても苦しくてしかたがなく、すると元旦那は元旦那で更に厳しく私を縛りつけることになっていたように思います。というか、縛られていることが不自由でたまらなかったのだとも思います。それを愛だと勘違いもしていましたし…。私の気持ちが離れたことで、私たちの関係はどんどん悪くなっていきました。そんな状態の時に、息子に障害があるとわかり、息子に障害があったことは、元旦那とは別れず、二人の関係を元に戻すためという意味づけをしました。ですから、彼への不信感や離れた気持ちを取り戻そうと思って、自分自身から元旦那に歩みよることも行いました。ただ、やればやるほど、事態は悪化する一方で、彼は彼なりに取り戻そうと思っていたのは汲み取れましたが、私は表面的に受け取っても、内心はすごく辛く苦痛で仕方がない毎日が続いていた時に、療育先で友だちになったママとの出会いで、私は元旦那に対する不信感がなんだったのか確信を得て、彼の支配下の元で生きていた自分は、まるで鳥籠の中に飼われた一羽の鳥のようだと自分を比喩するようになりました。

それと同じ時期に、私自身にも発達障害がわかり、成人支援を受け、個別の相談をうけました。その方はとても有名な方だったので、ネームバリューもあったことで、とても信頼をしていました。セッション前に人になかなか話したことのない黒歴史をメールで送ったこともありました。発達障害の子どもたちに私と同じような黒歴史をつくって欲しくないというエゴもあって、メールをしました。タラレバになりますが、私はただ、この人なら、自分では訳のわからない不足感を説明してくださったり、その不足感の正体を解決してくださると思ったから藁にをもすがる気持ちで相談しました。自分の一番醜いと感じている性格を治してくれる人はこの人しかいないと思ったからです。ですから、一度目の相談の時「社会性が小学生」といったことを言われたことだけが記憶に残っているので、その当時はなんだか嬉しかったことを覚えています。いわゆる支援者萌えをしていたから嬉しかったと思うのです。まるで神からのご神託を受け取るようなラベル貼りだったのに、その時はただただ嬉しかったのを覚えています。ですが、最終的には、本当の私の問題を解決してくださることには繋がりませんでした。

数回、直接その支援者の方とお話させていただく機会に恵まれましたが、普段お話される時は優しいお顔や物腰で接してくださるのです。でも、私と二人きりになるセッションの時だけ無表情になられるので、それに違和感を感じてしまったことから、本心をいわなくなりました。『この人でも無理なのか…』そう思ってガッカリしたことを覚えています。今思うと私がただ自分の中にあることを包み隠さず相談すればよかっただけですが、どうしてもお利口さんキャラになってしまったし、支援者に気に入られたいという思いも少なからずあったからだと思います。そして、

「あなたの不足感は発達障害によるものなのよ」

と、ただ、その支援者の方にラべリングしてほしかっただけだったとも思います(恥)。それからは、心理面の相談よりも、生活支援で一か月のスケジュールや一日のスケジュールなどで自助努力していることを報告し、うまくいかないところはどうしたらいいのかアドバイスをいただいたりしました。でも、実は、その生活支援でスケジュールをたててもそのスケジュール通りに一日を過ごすことができない自分に苦しんでいました。なぜかというと、その当時の友だちも成人支援をうけていて、その子はスケジュール管理が徹底していたり、ルールがあるほうが生活しやすいようで、生活支援のアドバイスで上手くいっていたことを彼女を通して聞いていたからです。だから、そんな出来ている彼女と出来ない私を比べてしまうことで、自己否定をしていました。彼女は選ばれた人なんだと勝手に感じ、できない自分を責め更に私は自己否定しかしなくなりました。自分のスケジュール管理もできないばかりか、息子へのスケジュール管理も難しい私。ですから、ただただ出来ない自分を認めるしかなく、構造化された支援をしても、なかなか息子に響かないのは息子が重度だからなのだ、私のアセスメントが下手だからなんだ、息子の担当の先生がド素人だからだ。という負の感情を自分の中に溜め込んでいくだけになっていきました。その当時の支援がなぜ息子に響いていなかったのかは、身体を壊したことでわかることになりましたが、あの頃の自分に声をかけるとするなら『頑張ってるけど、もうやめていいよ。もう十分だよ。お疲れ様』そんな風に声をかけてギュッとハグをしてあげたいです。

その当時の私はただ漠然とする大きな何かに動かされていたように感じていた時期でした。ただ、そういう落ちている時は『魔がさす』という言葉があるように、無意味なズレた意味づけをし衝動的に行動してしまうことで、底なし沼のようにどんどんどんどん落ちていく自分に気がつかないまま、白夜の中を彷徨うような生き方を選んでいたように思います。それでも、本人は一生懸命だからこそ、自分の本当に行きたい世界への扉を開くことだけに捉われてしまっていたのかもしれません。そして、自分の人生の中で迷子になっていたのだと思います。導かれるように開く扉を他人軸で決めたり、自分の心の声よりも他者からのアドバイスを神の声だと勘違いしていたことで、私はさらに深い深い底なし沼をゆっくり沈んでいきました。昔テレビでみた“パンを踏んだ娘”のように…

 

あっ。長くなっちゃったので、【愛着のヌケ編②】に続きます。