ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

感覚過敏とお薬④-リスパダールの悪戯-

ASD(自閉症スペクトラム)の診断を受けた人が飲んでいる代表的なお薬といえば『リスパダール』でジェネリック医薬品でいうところの『リスペリドン』だと以前からいわれていた。私はASDの診断は受けていなかったがリスパダールを数年飲んでいた。お子さんたちが飲む量と変わらないくらいだったと思う。

緊急入院して間もない頃、初めて保護室で過ごすことになった時、普段は錠剤でしか飲んだことのなかった液状のリスパダールを飲んだことがある。自分自身に絶望をしてしまったことから悲しすぎて少々興奮してしまった私を落ち着かせてくれた。錠剤の時とは違いすぐ効果を感じた。間もなく眠たくなり、シーツに包まれてない丸裸の掛布団にくるまり眠った。どれくらいの時間眠ったのかは覚えていないのだが、目が覚めた時、どこかの窓から光が差し込んだ場所に重なるように、90センチ大のシャボン玉が浮かんでいた。驚いたことよりもシャボン玉の表面の虹色が移ろいでいくのまでハッキリみえた。本当に綺麗でちっとも怖いと思わなかった。

入院したからといって、毎日飲んでいたリスパダールが前以上に増えたことはなかったように思う。興奮した時の為に、液状のリスパダールを飲むように頓服でいただいたことはあったが、あまりにも効きすぎたことが怖くなって依存してしまいそうだったので、処方してもらうことは止めたことは記憶しているが定かでない。そんなリスパダールとの付き合いが長い中、私はずっと誰にも相談できずにいた身体の症状があった。

息子は母乳しか飲まない子だったので、時々ミルクも飲ませたことはあるが、1歳になった時に無理やり卒乳した。卒乳すれば勝手に母乳はでなくなるだろうと思っていたのだが、下着が濡れるまでではなかったのだが、私の場合おっぱいをしぼればちょっと出る状態が続いていた。その当時仲良かった友だちだけには話をし、なんだか隠語があるらしく『魔乳』だと笑われたことがあったのだが、私としては笑われる筋合いもなく、実は心の中でショックを受けていた。とにかく、一度主治医の先生に相談したほうがいいよとは言ってくれたので、恥ずかしかったのだが勇気を振り絞って主治医へ相談することにした。私は勇気を振り絞ってやっと長年の心配を話せたのに、主治医はその時ちょっと笑いをこらえているように感じた。そんな雰囲気を感じたことで(「そりゃーそうだよね。隠語で『魔乳』っていわれるくらだし」)と思い内心ちょっといじけながら主治医の話を聞いていた。

卒乳後6年以上たつのに絞ればでるという状態を調べるために、産婦人科で血液検査を受けることになった。その血液検査で高プロラクチン結晶だということがわかったのだが、その数値もまた中途半端な数値で標準よりも高いが心配するまでの値ではない。ただ、高プロラクチン結晶の場合に疑われるのは脳腫瘍だということで、念のためMRIの造影検査を受けることになった。

1度目の造影検査を受けた時、検査技師の方たちからすると脳下垂体が少々腫れているようにみえるとのことで『脳下垂体腫瘍の疑い』ということとなった。ただ、私の場合には長年向精神薬を飲んでおり、向精神薬を飲んでいることが影響し稀に脳下垂体が腫れてしまうこともあるとのことで、ホルモンの値も影響されてしまうこともあるという説明をうけた。ようは副作用で脳下垂体が腫れることもあることをその時知ることとなり、その副作用の原因となる薬はリスパダールだった。

リスパダールが悪戯をしているのかどうか調べるためには、リスパダールを止めるほかなく、その後は微量のエビリファイに変わった。エビリファイに変わっても心身への影響はあまり感じなかったと思う。薬を変えた後、改めてMRIの造影検査を受けたのだが、脳下垂体の腫れだったか影だったかは大きくはなっておらず、微妙な状態だということで、再度一年後に検査をすることとなったのだが、私はその後めんどくさかったこともあったし、多分大丈夫だと思い検査にいくことはなかった(苦笑)

2年前に断薬をしちゃんと治そうと思った年の秋ぐらいから、体調不良とともに痙攣がひどくなってしまったことで、改めて数年ぶりに脳波とMRIの検査をすることにした。脳波の検査は2度目だったのだが、一度目に受けた時とは違い、刺激によっては波がでることがわかった。そして、数年ぶりのMRIでの造影検査で脳下垂体腫瘍ではないということが確定され、脳下垂体に4ミリ程度の空洞があるという見解だった。「生まれつきだと思う。大丈夫。問題ありません」との説明をうけたのだが、『その大丈夫の根拠は何?』と頭の中でしばらくコダマし逆に不安になった(苦笑)そのどこか拭いきれない不安を一色してくださったのが神田橋先生からのアドバイスだったのだがそのことはまた別に記事にしたいと思う。

こういった経験をしたことから、たとえ総合病院へ受診しても1度では済ないし、とりいそぎ命にかかわることでないからなのか、1つの病院では何も解決できないこともあり、専門分野だけのことだけでしか診断はおりないことを経験した。正直心身が弱っている時にいろんな科を回り検査をすること事態体に負担もかかる。だから病院へ行かなければならないことはわかってても、行きたくなくなる。しかも、部分でしか判断されないことのほうが多い。身体は全部繋がっているのに…。それだと不安しか残らないし、飲む薬が増えたり受診しなければいけない科が増えるだけだ。しかも総合病院なのに総括した診断をうけることができないってどういうことなのだろう?そんなことも感じることとなった。別の意味での怒りと悲しみのポイントが増え、そんなに病院は嫌いではなかったのだが、その時から病院嫌いになった。

6年近く前に疑われることになった脳下垂体腫瘍は、生まれつきのもので4ミリの空洞が空いているということだった。その穴から何か漏れたりしないのだろうか? いろんなことが想像されて止まない。しかも脳下垂体の大きさは約10mmなのだそうだ。そのうちの4ミリの空洞ってどういうこと? その時、巷でいわれる『エビデンスベイスト』について改めて疑問を抱いたし、生身の人間だからこそ『エビデンスベイスト』の闇をみた気がした体験となった。

余談:それでも、母乳は絞ればでる状態は実は今でも変わってなかったりする(苦笑)

 

感覚過敏とお薬⑤-過敏と鈍磨が併存することでの失敗談ー

懐う

泣きたい気持ちを閉じ込めて

 

私の中に全部全部閉じ込めて

 

あの頃の思い出も

 

あの人との大切な時間も

 

私がワタシでいられた

 

宵闇に浮かぶ新月の日

 

もう二度と還ることのない

 

色褪せた幸せの瞬間

 


どんな未来を描き

 

私はこの地を選び

 

生まれてきたのだろう…

 

過去だか未来へ

 

置き忘れてきた魔法を

 

また思い出せるかな?

 

いつかまたどこかで

 

ただ一人だけのための

 

愛の言葉を…

 

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感覚過敏とお薬③-ジェネリックの罠-

数年前まではジェネリック薬品も少なかったと思うのだが、最近は私たち患者のことを考えてなのかなんなのか、ジェネリック薬品を薦められることが多くなったように感じる。それが私にはなんともいえない不快な感覚を感じてしまっているのだが、薬価が下がり安くなることを喜んだほうがいいことなのだろうか? イマイチ私にはよくわからない。だったら、わざわざ初めて飲む薬の場合、ジェネリックにしますなんていう必要があるのかな?と些か疑問に感じてもいる。

長年同じ薬を飲んでいると、病院や薬局によってはジェネリックしかない場合もあり、新薬からジェネリックへ変更になる人が多いと思う、私も一度そういったことで、新薬からよかれと思って処方された薬が、私のお守り代わりになっていたセデコパンだった。

頓服以外にもセデコパンは飲んでおり、毎日飲む薬がジェネリック薬品に変わった時から、安定していた体調に不具合が起き始めた。その時まで感じたことがなかった副作用のようなものを感じたのだ。日中に酷く眠くなってしまったり、身体が怠くて重くなることとなり、その状態が毎日続いた。生活の変化もトラブルもなく、変わったことといえば、たった一粒のセデコパンがジェネリック薬品に変わっただけしか思いつかなかった。だから、病院へ相談をし薬がジェネリックに変わってから身体がしんどくてたまらないことを主治医に伝えたところ、成分は同じでも敏感な人は稀に影響を受ける人もいると教えてくださり、ジェネリック薬品のセデコパンは使わないこととなったことがある。そのことを当時お世話になっていた薬局の人に伝えたところ、新薬と成分は同じでもジェネリックの場合とでは、薬の溶け方が違うこともあるらしく、その血中に溶けていく時の速度の違いが体調に影響しているのかもしれない。といったことを教えてもらったことがある(苦笑)そんな話を聞いた時に、敏感すぎる自分を不便だなぁーと思ったことがあった。それ以来、初めて飲む薬に関しては、ジェネリックを利用するが、長年飲んでいた薬をジェネリック医薬品に変えることはしないことにしている。

私がただ敏感すぎるのか、そういった経験をした人にリアルで出会ったことがなく、私以外にもそういったことを感じた人がいるのだとすれば、どんな違いを感じたのだろうと思う。薬の血中濃度や身体への浸透の仕方で効果効能が人によって変わるのだということはなんとなく予想はついていたのだが、薬の溶け方が影響を与えてしまう身体の人たちの場合には、向精神薬以外にも投薬治療は慎重に行う必要があるよなぁとしみじみと感じたし、ASD界隈では以前から向精神薬を使ったとしても微量しか使わないということが一般的だと聞いていたことが腑に落ちることとなった。

 

感覚過敏とお薬④-リスパダールの悪戯ー

感覚過敏とお薬②-薬が浮き輪がわりだった頃-

強制終了をした2009年5月までの数年はただ処方されたお薬を飲み、定期通院しながらその時々の身体の状態を主治医には話していたとは思う。検査のことはよく覚えているが、診察の時のことは、実は都合よくほとんど覚えていない。きっと私にとって都合の悪いことだから忘れているだけなのかもしれない…(苦笑)私は幼い頃から五感全てに感覚過敏があり、大人になってだいぶ薄れてマシになっていた。それでも、一般の人よりは感覚的には敏感なままだった。リスパダールやバブプロ酸ナトリウムをパキシルにあわせて服用をはじめた時、身体の状態は音に対する感覚の違いだけはそれなりに感じていたが、あの当時、身体の状態ときちんと向き合っていなかったので覚えていないに等しい。ただ、向精神薬を飲んだからといって、感覚過敏がほどよく治ったのか?というと正直あまり変わらなかったように思う。私の場合には、覚えてもいないといってもいいと思うし、だからといって副作用が起きていたとも感じていなかった。副作用よりも不安が和らいだり、身体が動かしやすくなり薬を飲んでいない時よりも楽だといった感覚は感じられてはいたように思う。

初診の時から約2年ぐらいまでに一日に飲む薬の種類はずっと同じ内容だったが、強制終了後、閉鎖病棟へ入院したことにより薬の種類や量も必然的に増え、それまでに飲んだことのなかった、眠剤も2種類ほど試したこともある。眠剤の使用については、退院後なるだけ使わないようにしていた。入院治療をしたことで、生活習慣が変わり薬の飲み忘れは多少あっても、以前よりはマシになったことで急性期の頃からすると退院後、大分状態は安定した。ただ、過敏でありながら鈍磨もあることからくるお薬との付き合い方は、向精神薬を飲み始め断薬するまで本当に難しかった。日照時間や季節に応じて薬の量を調整しないとたった一粒又は半粒違うだけで、朝の目覚めが悪かったり身体が動かしずらくなる事態に見舞われていたからだ。それに、心身どちらにもちょっとしたストレスを感じることが続いたり、休むことを怠ったとたんに動けなくなってしまうこともあり、あの頃は本当によく寝込んでいた。

それに、あの当時、心身の状態がよくなっていく過程は、状態がよくなった後には必ず後退するといった治り方だった。階段を上ったり降りたり小康状態の時期もあるといった過程を辿りながらその時々のベストな状態となっていた。そして、心身の状態が少しずつよくなっていくと同時に、気にもとめていなかった身体の感覚を自然に気に止められている生活に変わっていくこととなった。ただまだあの当時は、本当に自分の心身についてよくわかっていなかったことも多く、気にもとめていなかったからこそお薬だけが頼りとはなっていたし、安心グッズかしていた。精神医療の現場でよく向精神薬の例えを『浮き輪』に例えられることがあったが、正にあの当時の私にとって薬は『浮き輪』がわりとなっていた。

入院をしたことから薬は増えることとなり、毎食後+寝る前以外に頓服を処方してもらっていたのだが、不安が強くなったり頭痛時によく使っていた薬がセデコパンだった。私はもともと頭痛が起こることは稀だった。ただ、この頃からPMSの症状なのだろうと感じはじめたことや、それ以外の頭痛にもパターンがあり、単なる偏頭痛なのか精神的なことでの頭痛なのかで、もらった頓服を使うのか、市販の頭痛薬を使うのかといった使い分けをしていた。私の場合には、考えすぎることや解離しそうな感覚になると頭痛にみまわれることもあったので、そういった時はセデコパンだけでない薬もあわせて飲むことで調整していた。

セデコパンは日中、急に不安になるとよく服用していたのだが、服用後確実に落ち着く経験をしたことから、私にとってのお守り代わりとなり常時持っていた。セデコパン以外の向精神薬で効果を感じたことがあるのは、急性期の頃に数回飲んだことのある液状のリスパダール眠剤だ。眠剤は入眠をよくするためのものと、長時間深く眠れるタイプのものと2種類ほどを状態にあわせて飲んだことがあるが、どちらの眠剤も確かにそれぞれの効果を感じたし、グルグルしている脳みそをシャットダウンしてくれるようなことには役立つことはあった。ただ、飲んだ後のなんともいえない怠くて重い状態はあまり心地よいと思ったことはなかった。

その他の向精神薬が私の状態をどのように楽にしてくれていたのか、毎日飲んでいた当時は正直あまりわからなかったのだが、少しずつ断薬をしはじめた時、ちょっとしたことでイライラしてしまう状態になって大変な思いをしたことがあったり、定期通院を忘れたり、めんどくさくて薬をとりにいかず飲まずにいたら、息ができなくなる事態に見舞われたこともあった。そういった経験から断薬する時は、必ずドクターに相談したほうが賢明なことを思い知ることとなった。それでも、あの当時は確かに薬のお陰で、本当はその場に立っているだけでも大変だった時期、救われていたのは確かだ。そして、その薬を使い、なにかトラブルがあり抱えきれなくなると、オーバードーズをおこなってしまったこともある。OD後、身の上に起きた断薬症状の摩訶不思議な経験が2度あるが、薬が完全に抜けるまでの約2週間の間、脳内で起きていた現象はほとんど同じような過程で映像の違いはあれど似ていた(苦笑)あれがスピリチュアル界隈で俗にいわれる霊的体験ということなのだろうか?そんな経験をしたからこそ、薬は『浮き輪』にもなれば『毒』にもなりうるのだということは忘れないでいたいと思っている。

 

感覚過敏とお薬③-ジェネリックの罠-へつづく

感覚過敏とお薬①ーはじめてのパキシル編―

最近ふと、向精神薬を飲み始めた当初のことを思い出したので、記録がわりに記事に残しておくことにする。

 

私が向精神薬を飲み始めたのは10年以上前になる。鬱のような症状を感じ、その当時の主治医に相談すると、少量だが朝晩2回パキシルを服用することになった。(はっきりと覚えてはいないけど…。)その当時は、AD/HDの特性だけでなく、うつ病もあったからか、忘れ物と不注意がとても酷かった。忘れ物と不注意は幼い頃からだったが、大人になって更に酷くなり、不注意も忘れない日々もあたりまえだった。その当時はまだ30代前半だったし、育児をしながら在宅で仕事もしていた。うつ病に関することも全く知らない状態だったし、基本的な生活習慣や食生活も怠っていた時期だったので、渡されたお薬を飲んでおきさえすれば治ると思っていた。そんな状態で薬物治療を行っていたのだから、そりゃぁ少量で良くなっただろう “うつ病” も良くならなかったのは今ならわかる。無知がどれだけ自分自身の心身を蝕むのかということもこの当時はまだ気がついていなかった。

パキシルを飲み始め間もなくした頃だっただろうか、息子を園に送り迎えする車のカーステレオから聞こえる音がなんだか今まで聞いていた音との違うように感じた。音が低く少しゆったり聞こえるのだ。すごく不思議だった。だから、飲んでいた薬を一時飲まずにいたか、ただ服用を忘れたかした時、服用がはじまるまでの音の聞こえ方に戻ったことに気がつき、パキシルを服用すると、カーステレオから聞こえる音が少し低くなり速度も少しゆっくり聞こえることに気がついた時、自分自身の気が逸っていたり、あせっているのだろうと思ったし、それだけ日々、時間に余裕もなく脳内と身体との動きの乖離があったのかもしれない。日常に聞こえる音の速度や音階の変化の違いは、今でもたまに感じることはあるが、あの当時からくらべると全然マシだ。あの頃は自分自身でビックリするぐらい音の聞こえ方の違いを感じたくらいだったから…。

その後、音の聞こえ方くらいは違いを感じたが不注意や忘れ物に関してはそんなに変化を感じないまま、少しずつお薬が増えその後はパキシルリスパダール、バブプロ酸ナトリウムを処方され、季節に応じてパキシルで調整を行っていた。それでも薬物治療している人たちからすると服用した量は少なかったし、睡眠薬を使ったことはなかった。私の場合眠れないのではなく、息子の療育のグッズづくりや在宅で行っていた仕事で睡眠時間を削っていたし、その当時は不規則な生活でもなんとか大丈夫だったからだ。今の私からすると、本当に突っ込みどころ満載すぎて、笑うに笑えない(苦笑)感覚過敏があったことでの心身の不調や未病でもあっただろうし、産後うつを引きずってもいただろうと思う。子どもを出産したことで生活習慣をみなおすチャンスでもあったのに、あの頃は全く気がつけなかった。母には、何度も基本的生活習慣が子どもの発達には大切なことだとアドバイスをしてくれていたけれど、私は聞く耳をもてなかった。

なぜかというと、息子は自閉症だから眠れなくてあたりまえ。だから基本的な生活習慣が乱れることはあたりまえなのだからと私は勘違いしていたからだ。本当にあの当時の私はどうしようもないおバカさんだった。あれくらいの状態だったら、薬は必要なかったと思える。その変わり基本的な生活習慣と良質な睡眠そして食養生だけでも治せていたかもしれないし、たとえ、お薬を飲むことになっても、基本的な生活習慣や良質な睡眠、定時に薬を服用し血中濃度のことなどを大切に考えられていたら何か違っていたのかもしれない。

 

→感覚過敏とお薬②-薬が浮き輪がわりだった頃-へつづく

 

 

もうひとりのワタシへ

前略 

この世界のどこかに存在している

もう1人の私へ…

 

あなたはこれまでずっと

自分が欲しいと思ったものは

手にいれることができた

恵まれていた存在だったのかもしれない

欲しいものは口にだせば

願いは叶ってきただろうと思う

だからなのかはわからないけれど

欲しいものが手にはいっても

大切だろう人たちと共に

楽しい時間を過ごしても

大好きな人が隣にいても

なんとなく物足らないって

そう思ってきたんじゃないのかな?

 

私は、そんなあなたとは違って

自分が欲しいものは

ずっとあきらめるしかなかったの

本当に欲しいものは

私には似合わないからとか

お金がないからって

ずっとあきらめなきゃいけなかった

それでも、私は事足りていたんだけど…

着てみたいお洋服も

傍においておきたいお人形も

初恋の人だって

全部あきらめることになった

だから私でも手にいれられるもので

私は満たされてきたし

満たされていると思い込んだりもした…

そしていつか私も

自分が本当に欲しいものを

手にいれる日がくることを

ずっと夢にみてきたんだ…

でも、いざ大人になってみると

その夢が叶って

手にいれることができたけど

束の間の喜びの後に

私の心は虚しさでいっぱいになって

満たされることはなかったんだ…。

なんでなんだろう…。


ねぇ、もうひとりのワタシ?

あなたの世界からみえる私は

どんな風にみえるのかな?

私の世界からみえるあなたは

とても魅力的だし

私と似ている部分もあるなって思うし

全く似ていないなっても思う

似てるようで全く似ていない私たちに

もし1つだけ共通点があるとするなら

心の底から求めているモノが

互いが唯一持っていなくて

それがどんな色なのか形なのか

どんな物事なのかは

今はまだわからないけれど

その本当に求めていたモノを

受け取った感覚が同じだった時

勝手に扉が開いて

私たちは同じ世界で

共に生きていける

チャンスが与えられるのかもしれない

それは私やあなたにとって

2人で1つということかもしれないし

平行次元の世界で

“心だけは共に傍にある”

ということなのかもしれない

どちらにしても

今の私やあなたのままでは

これから進むだろう世界の中で

生き延びられないのかもしれないから

共にその術を模索することが

おそらく私たちにとって

これから同じ世界で共に生きる

指針になるのかもしれない

だから私、今の場所で

“自分を生きる”ことにするよ…

 

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2016年の今日のこの日

発達援助と自助努力のマリアージュ①~⑧

という題名でブログに綴っていて

昨日で一旦終わりにしましたが

Facebookの『過去のこの日』が

ちょうど2年前の今日の記事で

断薬後しながら行っていた

断酒と養生中の記事がありましたので

こちらもあわせてご覧ください。

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2年前のFacebookより…

 

2016年3月15日 8:59

断酒1週間が過ぎ早いもので
会社を辞めて2週間が経った
朝4時台に起きていたのを
朝5時代にして
寝る時間も10時台にした
私の場合睡眠時間は7時間半ぐらいがベスト
それ以上眠るとなんだか逆に調子が悪く感じる
お薬を飲まなくなって
寝起きのダルさは解消された
お酒を飲まなくなったら
睡眠の質が少し良いような気がする
朝からお腹が空くようになった
りんごジュースを飲むようになって
2ヶ月経つもういらないって思うまで
飲んでみようと思っている
ツムラの●番を飲むと
すこぶる調子が良くなる
それに美味しい。
本来粉薬は苦手なのに。不思議。
飲んだ翌日の朝はスカッとした気持ちがする

1人行動が多いと
やっぱり大勢の人の中で働いてた事に
ストレスを感じていたのだと改めて思う
頭と目を使う仕事だったし
気を張ってお仕事しないといけない仕事だったし
人間関係も気を使ってたからだ

会社にはクローズドで働いていたから
自分が気がきかなかったりすることもあって
同僚に理不尽な注意をされたりした時
遠回しの怒られ方とかは私は酷く傷ついた
そういう時は気がつけない自分が歯がゆいのと
何故気がつけないのかを言い訳している自分
でも気がつけないのは自分の特性が
そうさせている事もあり
でも、そういう障害の特性を
言い訳にしたくないジレンマに落ち込む事もあった
仕事をする上で心掛けている事も多い中で

〝 言って貰えば出来る
  いわれなくても出来る 〟

は障害の有無は関係ないと思っているが
過集中してしまう体質の私は
伝票発行しながら周囲の人に気を使うって事は
結構大変だったりする
だから毎日気を張り詰めて仕事していた
気を使うって事にエネルギーを使っていた
でも、そういう気遣いは当たり前な事
ただ、その気遣いができない事を
理不尽な怒られ方や理不尽な態度をとられた時は
なんか腹が立っていた
でも、それに対して文句はいわず
受け入れるようにした
記憶力が仕事に役立った事もあったり
妄想力が仕事に役立った事もあるし
他の人にはできない心遣いが
できるように頑張ったけど
その心遣いが仇となった事もあった
それでも仕事をさせていただけていた事は
ありがたい事だった
何故なら1番二次障害が酷かった時に
もう一般社会には戻れないと思ったからだ
それだけ人が恐かったというのもある
でも2年働かせていただいた中で
人にきらわれてても仕事はできる
気にしないというスキルを身につけられたし
自分自身の心の守り方もなんとなく掴めた
身体が元気であれば「何クソ根性」が発動できる
この2年を振り返り改めて
身体のケアが大切なのだと思っている