ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

名前はあると思うが余所ん家の猫

今年、夏目漱石生誕150周年だそうで

県内各地様々なイベントが開催されているようです。

我が県は漱石ゆかりの地なので

県内各地所縁の地があるようですよ。

 

夏目漱石といえば、

発達障害の検査をする際受けた

一般常識の質問に答えるときに

お髭の頭抱えたオジさんの顔は思い出すけど

名前が思い出せなくて

脳内カンニングしようと

心理士の方にちょっと待ってくださいといって

「画像はでてくるんですけど…

 思い出せないです。」

なんていったような気がします。

私の脳内カンニングの画像は

熊本市内でみた道路標識に

夏目漱石旧家』

と記載されている画像をひっぱりだし

カンニングしたけれど

夏目漱石』と質問に答えることができず

帰りの電車の中で悔しい思いをして

それを未だに悔しがることになって

夏目漱石をみるたびに

その日のことまで芋づる式に

フラバすることになっていますが

そんなことはどーでもいいことでした。

はい。。。

 

うちはアパートですが

庭が案外広くて

数か月前から猫を数匹みかけるようになりました。

その中に黒猫もいて

ここ最近になってうちの庭で

くつろいでいる姿もみられるようになりました。

びびりーな黒猫さんみたいで

ちょっとドアを開けただけで

すっと姿をくらまします。

多分、ニボシとかかつお節とか

猫さん用の餌をあげれば

懐いてさわらせてくれるようになるかと思うけど

どうも飼い猫だと思うので

自分のお家でご飯食べなかった

ご主人が心配したらいけないから

声だけかけて眺めています。

私猫アレルギーなので

触るとヤバイですし。

猫も好きだけど身体レベルで片想い。。。トホホ

 

夏目漱石の代表作でもある『吾輩は猫である

にでてくる『名前はまだない猫』のモデルは

漱石の自宅の庭に黒猫があらわれて

それからその黒猫は

夏目家のペットになったようなのです。

そのことを思い出して

文豪はいない我が家の庭にも

黒船ならぬ黒猫到来で

なにかしらの招き猫にでも

なってくれればいいなーと期待せず

福がくることを待ちわびる日々です

でも、見るだけで癒されており

名前はあると思うが余所ん家の猫に

勝手に名前をつけていいかどうか

真面目に悩んでいます。

いいのかしら。

呼びたい名前はあるのです。

クロネコっていったら

ほら、やっぱり『ジジ』(*^。^*)

いつか触らせてくれますように。

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今日の空

立冬を迎え、冬がはじまったばかりの今日は

しとしととした雨が降ったりやんだりして

時々雲の隙間からお日様が顔をのぞかせたりと

お天道様のご機嫌も

忙しい一日だったように思います。

 

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私がインスタを始めたのは去年の12月頃でした。

以前仲良くしていただいた方に

空の写真が綺麗だと褒めてくださったことがあり

インスタを薦めてくださいました。

でも、その時、インスタは興味があっても

やってみようということには至りませんでした。

が、昨年の今頃から怒涛のごとく

様々なことがあって

私は人から離れることにしました。

本当にあれは辛かったですね。

さんざんやられました。

それに加担された方たちは

ご自身たちが勇者のご気分でしょう。

ですが、私にとっては

ただの恨みしか残りませんでした。

ええ、全員土下座してもらい

ボコボコにぶん殴りたい気持ちの自分を

こらえるのに毎日必死でした。

(まだ許せてない私。相当だなぁ。)

どこかであったら、とび蹴りできるように

身体を鍛えようかとも思いましたが

私の場合逆に怪我をしかねないので

それは天におまかせしました。

人を恨んだりした怒りや悲しみを

どう解消していこうかと思った時に

インスタやってれば

生きてることはわかるから

もう、いい加減私のこと

ほっといてもらえるだろうと思って

始めたのが本当の理由です。

それと、支援学校で出会った御嬢さんで

中々お友だちの中と打ち解けることできず

学校の授業なども参加することが

難しかったお子さんと

学校で話す機会があって

その子が写真を撮ったり

絵を描くことも好きだということで

私がIphoneで撮影した写真を

彼女にみせたことがありました。

その後、授業参観の時に

彼女のほうから私に話しかけてきてくれて

携帯の写真をまたみせて欲しいと

お願いされたので見せました。

その日は雪が降った日だったので

学校へ行く途中の雪景色をみせたり

それまでに撮りためていた写真をみせると

彼女の目がキラキラしているので

 

「この写真は散歩にいった先で

 撮った花とか木なんだよ。

 摂り方を上からとったり

 角度をかえたりして摂ったの

 アイフォンすごく綺麗に撮れるんだよねー。

 写真撮るの好きだったら

 公園とか散歩がてら歩いてみて

 自分の好きな角度で摂って加工して

 インスタとかやってみたら?」

 

こんな感じの言葉を彼女にかけました。

彼女がくいいるように写真をみながら

いろいろ質問してくれましたが

授業中だったので学校の先生は

私のためをとおもって

私と彼女のやり取りを遮られたのです。

そしたら、その彼女はパタリと

話しをやめてしまいました。。。

あと少しで彼女の何かが開ける気がしたのですが

残念ながら途中で終ってしまいました。

 

大人はいろんなことで

子どもの話を遮ったり

やっと子どもたちのほうから

話しをしてくれている大切かもしれないことを

土足で踏みにじるのがとても上手です

若い人たちの話は年寄りにはわからんとか

今は授業中だからとか

いろんなルールやマナーや

自分たちの常識が先になってしまって

ちゃんと子どもの話聞いてないというより

大人のほうが先に

シャッター降ろしちゃうんですよね。

だったら、子どもたちが話さなくなるのは

当たり前だと思います。

話しを聞いていないのは

子どもだけではなくて

聞いていても汲み取れていない

大人が多い事に私はとても悲しくなりました。

それは自分自身も息子の事を

何にもわかってあげられていなかった

そんなこともあったからです。

子どもたちが何に苦しんでいそうか

私はなんとなく感じてしまうけど

その一瞬だけ淀みをすくうことはできても

その後、逆にもっとその子たちが

苦しむことになるだろうことは

自分が一番よくわかっていたし

中途半端な関わりでは

人を救う事はできない

無力な自分がすごく嫌になりました。

こんな能力いらないしむしろ邪魔だと

そう思い体調も悪かったこともあって

酷く落ち込んだことがありました。

あれから約1年がたち

私はマイペースでインスタに

写真を掲載しています。

彼女が私の写真に気がついて

みていてくれたらいいなと思って。

そして、いつか彼女の写真や絵を

インスタでみかける日が来るといいなーと

思う今日この頃です。

 

 

 

ルーツを辿る

私の父方の祖父は、満州事変で朝鮮半島に渡りましたが、戦争中寒さで手の指が凍傷になり指を切断することになったので、戦死を免れたと聞いています。

その後、水俣チッソ工場で褌一枚で働いていて、父が生まれる前かその後に、水俣から現在の天草の実家へ家族で引越したのだそうです。それからは農家で生計を立てていたそうです。祖父は養子で曽祖父になる人も養子だったのだそうです。曽祖父の時代には高利貸しを営んでいたそうで、私の母が嫁入りし家を改築する時には屋根裏にその当時の証文がたくさん出てきたと聞きました。
祖父は水俣から今の実家に帰ってきて、体調が優れない時期があったようで、水俣病の症状が出ていたそうです。医師に水俣病だといわれたようですが、国に申請をすることを快く思っていない漁師をしている親戚に、地元から水俣病患者がでれば、風評被害になり地元で漁れた魚が売れなくなるから国の申請はやめて欲しいといわれ、水俣病の申請はしなかったのだそうです。
私の父の兄弟姉妹の1番上になる伯母は、聴覚障害で振動は感じますが、耳が聞こえず話すこともできませんでした。知的な遅れがあったかどうかはわかりませんが、私の拙い記憶を辿るとおそらくあったのではないか?と私は思っています。その伯母が小学校へ上がる時、自宅を離れ寄宿舎のある聾学校に通学する話が持ち上がったようですが、親戚になる人たちがまだ幼いのに、寄宿舎に入れるのは可哀想だということをいわれ、祖父母も思い留まったのだそうです。
うちの息子が自閉症とわかり、まだ先の話だと思っていた施設入所でしたが私が身体を壊したことで施設入所を利用することになりました。
タラレバになりますが、そういった経験があることで、母とはよく伯母が聾学校に通えていたら、もっと違った人生を歩いていたかもしれないし、自立したり、結婚さえできていたかもしれないよね。手先が器用な人だったしね。といったことを話すことがあります。

田舎だけではないと思いますが、他所の家の状況を外側からみたり、その場しのぎの優しさやエゴで他所の家の事情に口を出し、本来受けられたであろう治療や支援や教育を受けられなかった人たちもいます。
祖父や祖母がもし、伯母の未来を見据えて今は可哀想だけれども、伯母の人生の選択肢を広げたいと思い、手放せていたら伯母にとってまた違った人生になったと思うこともあります。親次第で子どもの人生が変わることは頭のどこかにいれておきつつ、子どもたちが大人になり私たち親なき後を引き継ぎ、より良くどんな立場の人も生きていける社会になるといいなぁと思います。

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私にとっての「生きる」

私にとって

 

「生きる」ということは

 

ほぼほぼ自分を探し

 

普通という基準に

 

達することだった。

 

みんなと同じように考えたり

 

スルーできる体質になりたかった。

 

自分が選びたいことは

 

常識から外れてしまうけど

 

正直言って

 

警察に捕まるほどでもない

 

ほんの些細なことも

 

私にとってのタブーだった

 

だけれど、大人になると

 

私が良かれと思い

 

身につけた正しさは

 

自分自身を首絞める

 

単なる御呪いみたいなものだった

 

お札を貼ろうが貼るまいが

 

本人が目覚めれば

 

その効力はなくなるのに

 

お札を貼れば『大丈夫』だという

 

思い込みに囚われ

 

しがみついてたのも

 

私自身他ならないのだけれど…

 

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ダメダシ…それも愛

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本日の今日の空を綴っていて思い出したので、今日はそのことを…。

高校卒業後の希望の就職先を決める際、私の希望する企業に対して就職のアドバイスする商業科の先生に反対されたことがありました。

なぜなら、私は成績が悪かったので『絶対落ちるに決まってるから無難なところに変えなさい』というようなことをいわれたか、母が呼び出されて『本人に希望先を変えるように言ってください』だったかどちらかは忘れましたが、そんなことがありました。

その先生に母は

 「試験を受けて受かるかどうかもわからないのに、なんで、希望先を変えないといけないのですか? 落ちたら落ちた時に本人が考えればいいことです」

だったかなー? そういうこと言ってくれて母は私を守ってくれました。

先生の予想をはずし、私は無事その希望先に落ちることなく受かりました。なぜなら、就職試験の面接時、就職先の応募内容にはないことを尋ねられ、私はその尋ねられたことにYESと答えました。何がよかったのかはわかりませんが、おそらく、その面接時企業の求める人材の内容には記載されていなかった、質問があり、それに対し応じられると手を挙げたことが多分よかったのだと自分では思っています。

私だけじゃなくて、うちの弟も高校や大学の志望校に対して、学校の先生たちはワンランク下の学校に志望校を変えるようにと言われたらしいです。が、母は本人の人生だから本人の希望のままでたとえ失敗してもいい、今のうちに挫折も経験しといたがいいというようなことを先生方に言って、先生をビックリさせたようです。さすが私の母だなーと思います。で、無事弟も先生たちの想定をはずして高校も大学も一発合格しちゃったりしたのですね。えへへ。

本日の『今日の空』にも綴っていますが、無難な答えを選ばせることは、先生自身の問題であって、生徒のことちゃんと考えてくれてるようで、実際には自分のことしか考えていないよなーって思うんですね。学校って、そんな場所ならなんのために学校で教育を受けるのだろうか?って思うにいたっています。

身内の子どもや知人のお子さんたちが高校を選ぶ時、子どもたちと話す機会がありました。その当時は、まだ私も主体性のない頃だったし、うっすら主体性に対して気がつきはじめていた頃でした。子どもたちの親との関係性を垣間見て、気がつかされたことがきっかけになり、『愛着の土台と主体性』について、私自身も問われたように思い、それらに向き合うことになりました。母は最終的に私の選ぶことに口出しはしませんでしたが、そんな母でも、ダメだしはされてきたこともありました。その当時は、自己否定の材料にしましたが、いろんなことを越えることができた今の私には、それも愛だったのだと思えるようになりましたが、その真っ只中の時には、ダメダシもまた親の愛だなんて思えませんし、どんな人もそうだと思いますが、他者へ与える愛がど真ん中であることは果たして幸せといえるのだろうか?と思うこともあります。チグハグだからこそ、互いを知るために試行錯誤するんじゃないのかな? 互いの距離を縮めたり、離れたり、深めたり、スル―したり…折り合うって互いの心地いい距離感を模索しあうためだったりするのかもなんて思いますが、いやはや、頭で想像するのは得意だったりしますが、実際にはできていない私です。トホホ。

今日の空

このころしばらく秋晴れが続いていましたが

今日から少しお天気崩れるみたいです。

これから雨が降る度に

少しずつ寒くなっていくのでしょうね。

ああ、今日は土用の最終日で立冬ですね。

冬の始まりの日であって

日本では別の意味で

『かぼちゃ祭り』な日だわ(笑)

 

写真は昨日の空です。

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さて、数日前のブログで本田真凛選手の

妹さんの一言にとても関心し

『はっ』とさせられたりしましたが

今回の件だけでなく、そういえば子どもたちの一言で

『はっ』とさせられてきたことは

案外あったなーということも思い出しました。

以前仲良くしてくださっていた方の御嬢さんが

体調が思わしくなくて不登校気味になって

学校を辞めたいといい始めたけれども

なんとか学校を辞めずに済んだ時の一言が

「高校に行かなきゃJKとはいえんしね!」

という一言を聞いた時に、大爆笑し

ああ、もうこの子は大丈夫だと思いました。

うちの息子もタイミングよく

大好きなCMの中で得た言葉を選んで

伝えてくれることもあります。

その中の1つはサッポロ一番のCMの台詞で

『やっぱりこの味』という台詞を使って

手作りの料理や外食先などで

久しぶりに食べた料理の時に

自分が食べたかった味なのか

美味しいときなのか定かではありませんが

「やっぱりこの味!」

といって、ニコニコで食べてくれます。

相方の姪っ子が自分のことで悩んでいた時

私は余計なおせっかいをして

口を出したことがありました。

とりあえず、自分も伝えたいこともあったので。

その時に彼女は、私や祖父母の前で

 

「だってじいちゃんもお母さんも

 いっつもダメだししかしない。

 やってみなきゃわからんとに!」

 

だったかな。そんなことをいったのです。

私はその時にものすごく反省したし

私も彼女と同じくらいから

そういった思いを抱えていたことを

振り返ることになりました。

私だって彼女と同じ時期に

そういった思いを感じていたことを

ずっと感じていたはずなのに

姪っ子の大事な時期に

味方になってあげられなかったことを

すごく後悔しました。

でも、あの場でちゃんと自分の気持ちを

私たちに伝えてくれた姪っ子は

凄いなーって思いました。

 

大人って自分が失敗したから

子どもたちには失敗しないような

アドバイスをついしてしまいますよね。

それも1つの思いやりなのかもしれませんが

その一方で自分で考えて選ぶことが

なかなかできずらくなってしまうと思うのです。

最近すごく感じているのは

子どもの失敗を自分の失敗だと思って

子どもたちが失敗したり

危険な目にあわないように

子どもが自分自身で生き延びる力を

妨げることになっているよなって

そう感じる場面が多々あります。

失敗するのは人間なのだからあたりまえなのに

失敗もさせてもらえない生き方って

人を育てているのかな?

それともお人形として育てているのかな?

生身の赤い血の流れた人なのに…と思う

冬のはじまりです。