ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

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エアブラシで描いたような雲が

 

青空の中をゆっくり泳いでいて

 

心地よいゆるやかな風が吹き

 

レースのカーテンがゆれるのをみたら

 

窓を開けて九州の歌が

 

頭の中を駆け巡っています(謎)

 

 

 

先日からNHKの人体のシリーズが始まりました。

 

『腎臓』の回でしたがとても感動をしました。

 

現代だからこそわかってきたこともあって

 

今まで常識だと思っていたことが

 

常識ではなくなってきているのだなぁーと

 

改めて、思うことになりました。

 

他の回も楽しみです。

 

息子の障害や自分自身の障害や二次障害を

 

私なりに学び経験をした12年という月日の中で

 

『障害は治らない』と思っていた思い込みは

 

数年前から私の中で覆されました。

 

世の中では、障害は治らないっていう人たちもいますし

 

障害は治るっていう人もいます。

 

発達障害スペクトラムという言葉を

 

使用されているのにもかかわらず

 

治らないっていうお医者様や支援者もいます。

 

ただ、当時に受講していた講座では

 

海外で最前線で行われている

 

脳科学の研究のお話が毎回あって

 

どんな研究がおこなわれているのなどを

 

口早にお話をしてくださっていました。

 

その時にいわれていたのが

 

遺伝子治療自閉症が将来治る日が来るかも』

 

といったような話を聞いたような気もするのです。

 

それが10年くらい前でしたので

 

『障害は治る』といわれる世の中になっても

 

おかしくはないのかなぁと私は思うのです。

 

しかも、脳の機能障害といったことから

 

中枢神経の障害ということに変わったのですから

 

臨床の現場の方で頭でっかちな方は

 

脳内を書き換えるの必死かもしれませんね(ブ)

 

私は自分の治療や息子の治療とはまた別に

 

これまでに出会った人たちをみてきて

 

治るものなら治りたいんだと思ってる人は

 

結構いるのだなぁと思っていました。

 

精神科で出会った人たちの場合には

 

そこから中々抜け出せずにいる人もいたりして

 

相方の幼馴染は残念ながら事故ということで

 

亡くなってしまいました。

 

でも、その人は本当に一生懸命に

 

アルコール依存症を治したくて治療に励んでいた人でした。

 

とても真面目でいい人でした。

 

ただ、そういった人だから抜けきれずにいたのだと

 

今となったらわかります。

 

そして、苦しんでいるのはわかっても

 

私たちにはどうすることもできない現実を

 

味わうことにもなりました。

 

ただ、今だったらなんとかなったんじゃないかって

 

そんなことを考える時もあります。

 

以前、知人のイベントへ参加した時には

 

車椅子に乗ったお子さんががいて

 

イベントのお絵かきコーナーでお絵かきをした絵が

 

とても印象に残っています。

 

桜が満開の公園で行われている会場だったからか

 

桜の木の下に両足でたっている

 

自画像を描いていました。

 

その絵を一緒に来ていたその子のおばあ様が

 

「立ってる絵を描いてる」

 

とびっくりされていました。

 

そのお子さんが、なぜその時

 

そんな絵を描いたのか理由は聞いていませんが

 

その絵をみる限りにはなりますが

 

“自分の両足で立ってみたいんだな”って

 

その絵を見た時に素直にそう思いました。

 

それとはまた別に

 

個人的に開催した音楽のイベントに

 

来てくれたお子さんは

 

たくさんの人の中にいるのが苦手で

 

閉所恐怖症だからトイレにはいることも苦手で

 

学校に行けないこともあるお子さんだったのです。

 

それでも、自らイベントに行きたいといって

 

苦手な場所なのに来てくれた子もいました。

 

会場にはいることはできなかったのですが

 

勇気をだして来てくれたことは本当に嬉しかったです。

 

他にも、難病で大好きなダンスが踊れなくなって

 

学校生活もなかなか思うようにいかなかった

 

お子さんでしたがなんとか高校を無事

 

卒業できた子もいました。

 

その子だって治るものなら治して

 

また大好きなダンスをめいいっぱい踊りたいと

 

そんなことを言っていました。

 

お医者様たちは現実を知らしめるために

 

本当のことを言わないといけないというのはわかります。

 

誤魔化しや偽りで人は救えないこともわかります。

 

でも、自分ができないことをできないままなのは

 

嫌な人もいるし、子どもの場合

 

みんなと同じようなことをやってみたいと

 

思うお子さんのほうが多いように思います。

 

障害だから、この病気だから『治らない』っていうことが

 

どれだけその人たちから生きる希望や勇気や行動を

 

奪うことになるのかも知ってもらいたいのです。

 

じゃあ何故、リハビリするのですか?

 

じゃあ何故、治療するのですか?

 

じゃあ何故、お薬や手術があるのですか?

 

それは、障害や病気を膠着させるためですか?

 

その人が望んでいることを止めさせるのが治療なのですか?

 

そして、治らないからってあきらめるように仕向けることが

 

治療者のお仕事なのですか?

 

なんのために支援者や医師になったのですか?

 

命のバトンを繋げても

 

その人たちの行く先の道を閉ざすような治療や支援は

 

どうかやめてもらいたいと思う1人です。

 

 

 

“先延ばしの癖”と“許可”

昨日、ふいに自分の悪い癖を考えていて

 

発達障害があるからなのか

 

もともと私の潜在意識のパターンなのか

 

はたまた、思い込みなのか…

 

そんな入口からはいって

 

ふと、気がついたのです。

 

自分が出来ないことや嫌なことを

 

先延ばししてるだけじゃなくて

 

自分の本当に『やってみたいこと』も

 

先延ばししてたなぁって。

 

3年前あたりから

 

自分の頭の中に浮かんだことは

 

なるだけその日のうちに

 

“やれること”は行動に移してきました。

 

で、自分のやりたい事やってたら

 

“できない事”や“不得意な事”も

 

先延ばしにしないようになるのかなぁーって

 

そう思ってたんですよね。

 

で、私の場合は体調不良による

 

行動に移せないパターンと

 

自分がしなくてもいい事を

 

先延ばしにしてることが多いなって

 

気がついたのです。

 

だからですね、それって本当は

 

無理して行動してるってことにも

 

気がついたワケです。

 

なので、そういう事は

 

お金を払うなどで『外注』すればすむことだし

 

『私じゃなきゃダメな案件なのかどうか』まで

 

私は頑張ってやろうとしてきたワケです。

 

ええ、無駄なエネルギー使ってました。

 

ですのでね、そういうことは

 

人に頼ることにしました。

 

できない自分を認めて

 

私がしなきゃいけないことに集中し

 

人に頼ることを極力してきました。

 

自分ができることでも

 

負担がかかるなら

 

引き受けないことにしました。

 

で、で、そういえば最近

 

お仕事もしていないので

 

昔に比べると家事ができるようになり

 

お家がちらかっても

 

自分1人で片づけられるようになってきました。

 

それと体調不良になると

 

効率が悪くなるので

 

そういう時は身体を休めることを努めてましたら

 

汚いところが気になって

 

気になるとそこだけ片づけて

 

無駄に手を広げずに

 

掃除したり片づけたり

 

そういったゆるーい状態の掃除や片づけが

 

できるようになってきています。

 

過去は毎日洗濯なんてできなかったし

 

夕飯つくるまでに体力なくなって

 

食べずに寝る事なんて普通だったのに

 

ゆるゆるな主婦業生活を自分で許可したら

 

なんだかそういう生活のほうが

 

私は心が豊かな状態で過ごせるのだなーって

 

そんな風に思うようになりました。

 

それで、スピ用語とかで『許す』ってありますが

 

私は、これの意味はわかってきたけど

 

どうもシックリこなかったんですね。

 

やっぱり過去自分がやったことは

 

許せたと思っていたけど

 

許せてないことに気がついて

 

許せないことも気がついて

 

で、そんな自分を許すこともできなくて

 

なんだかジレンマだったんです。

 

で、『許す』ではなくて

 

そんな自分でも『許可』をするだと

 

どうやらしっくりくるのです。

 

言葉の意味は同じことなんでしょうけど

 

『どんな自分も許可をする』だと

 

腑に落ちる不思議に昨日気がつきましたし

 

先延ばしする自分も許可できるようになると

 

偶然じゃなく必然のタイミングで

 

『おまけ』がやってくるのではないのだろうか?

 

と思ったりしています。

 

仕事好きだけど家事との両立は不可能です。

 

出勤は時々フレックスで

 

自宅でできるお仕事あるといいなー

 

 

今日の空

ね、眠いです。。。

何故なら、今朝3時に目が覚めました。

お昼寝しようと思ったけど

やることあってお昼寝できず…

雨も降っているし

息子も落ち着いてるような

落ちてるような。。。

今外はいい雨が降っていて

浄化の雨を思わせます。

 

さてさて、最近は過去に自分が起こした

様々な出来事を思い出しても

眺められるようになってきました。

ただ、まだまだ見張られている感は

半端ないですが、、、

そんなことはさておき…

過去を振り返ってて

昨年の春に企画したイベントで

発起人となった私の想いを

イベントの最後に読んでいただきました。

(今はイベントページはありません)

今日はその時に書いた

私の想いを読みながら

その想いは今もそんなに

変わることない自分がいて

あの時音楽のイベントやれたことは

本当によかったなって

ただ、そう思いました。

青春時代になかなか自分を楽しむことなく

中年のおばさんになって

本当にやってみたかったことを

たくさんの方に手伝っていただきながら

開催して終えることができたことは

私にとって一生の宝物になりました。

協力してくださった皆さま

本当にありがとうございました。

自分の不甲斐なさで

お世話になった方たち全ての方と

縁を切ることになりましたが

なんていいますか

あのイベントの本当の意味を知る人は

数名しか実はいません。

その意味を知る人たちそれぞれに

立場は違っても

何かしら人生のわかれ道にたち

自分自身と真っ向勝負しないと

立ちいかない現実になっているようです。

(もう、終わったかしら???)

でも、多分、道はわかれても

それぞれに幸せになっているだろうと

思っていますし

私は今一番幸せです(*^^*)

自分自身の人生だけではなく

宇宙全体が変化していて

時代が大きく移りかわる

そんな節目の年を

自分を取り戻し迎えられることは

感謝したいと思います。

 

さて、そのイベントで読んでいただいた

私の想いもこちらでご紹介しますね。

それでは! おやすみなさい

 

____________________

 

Dreams Come Ture-夢は叶う-

子どもの頃に夢見ていた事が

叶った人もいるだろうし

大人になった今もどこか心の奥で

燻っている人もいるのかもしれません

私が中学生の頃

音楽の授業で作詞作曲の授業がありました

人生の中で1番楽しかった授業でした

ピアノを習っていたり、歌を歌う事も好きで

そして詞を書く事も好きだったので

シンガーソングライターに

憧れた事もありましたが

自分には才能がないと勝手にあきらめました

40歳を過ぎた今、子どもの頃の自分を思い出し

本当は私が1番喜ぶ事はなんだろう?

と考えた時

歌を歌う事好きだったなぁと思いだし

1人カラオケを始めました

まだはじめて間もない時

会社の社員旅行での宴会の席で

カラオケを歌う事になりました

思いのほか皆さんが盛り上がってくださり

たくさんの人の前で歌う事がとても心地よく

ああ、自分は歌手になれなくても

こうやって多くの人の前で歌う事だけでも

十分嬉しいんだなとわかった時

夢が叶ったようで

自分の魂が喜んでいるのを感じました。

私の密かな野望は

ドリカムの美和ちゃんとステージ の上で

「何度でも」を一緒に歌う事です

そんな無謀な野望?は私の創造力を掻き立て

この熊本の地で

ドリカムソングオンリーライブをやって

これが全国に広がって

ドリカムの2人に気がついてもらって

ドリカムワンダーランドで

歌が上手い下手関係なく抽選で選ばれた人が

ドリカムと一緒に歌える企画があるといいなぁ

そしてそのワンダーランドの歌える権利を

私が掴んで

美和ちゃんと一緒に歌えるなら

絶対に『何度でも』が歌いたい…

そんな壮大な夢が私の中に芽吹いた時

FBでつぶやいてみたら

賛同してくださる方がでてきて

面白い企画だねと言ってくださる方もいて

イベントを開催する運びになりました

 

音楽は時空を超えて

私たちの現在・過去・未来への扉

開放させてくれる

見えない力を持っていると

私は感じています

生身の自分は

過去にも未来にも行けないけれど

心は過去にも未来へも一瞬で

戻れたり進む事ができます

過去の私に未来(現在)の私からのメッセージを

音楽を通して伝えてみた時

今の私も、過去の私も、未来の私も…

そして、私に出逢ってくださった

たくさん人への想いも同時に

音の世界で調和され

「新しい何かに変わっていくといいなぁ」

と思います

 

_____________

 

このイベントの5日後

熊本地震がありました。

被災し、車中泊した時には

『さぁ鐘を鳴らせ』を聴き

真っ暗な凸凹の道を

車で走りながら

一緒に歌って泣きました。

 

_____

 

なんて、キツイんだろう

これが〝生きる〟ということなの?

 

______

 

この歌詞を聴きながら

その日までの様々なことが

思いだされて

とめどなく涙が流れて

止まりませんでした。

そんなことも

今となっては大切な思い出です。

 

 

 

心のバリアフリー

昨日、山鹿へ行く時にラジオを聞いていると、福山雅治さんの番組が始まりましたら、9月29日から公開されている「パーフェクトレボリューション」に出演されているリリー・フランキー氏と映画の原案・企画を手掛けられた熊篠慶彦氏が出演されるということで、運転しながらも真面目にラジオを聞いていました。

FacebookのTLで流れて知っていたのもありましたし、その映画は実話で、脳性まひの男性と人格障害の女性との障害者同士の恋のお話ということで、興味があって聞きいってしまいました。

身体障害の場合って、物理的な事での不便が日常茶飯事になるわけですから、デートするのも場所を選ぶことになりますよね。必然的に。多目的トイレの有無、段差、階段、エスカレーター。どこにいくのにも段差はつきものですし、お店にはいれても、車椅子が通れるくらい通路に広さがないとお店の中移動もできませんし…。身体のどこに不具合があるのかでも人それぞれに行きたくても行けない場所もあるよなーと想像したらぞっとします。先日片手が使いづらくなっただけでも、髪を洗うのでさえ不便だったのに。。。なんだか引きこもっている自分は何様なんだと心痛いです。

ラジオでは、リリーさんのお人柄もあるからか、フランクな感じで映画のお話や障害者の恋や性のお話をされてたので、すごく自然な啓発になってていいなーと思いました。

「障害者でも同じ人間だから恋もしたけりゃセックスもしたい」

っていうのは、本当に極当たり前な話だなーって思いました。仮に知的な遅れが重度だとしても、性的欲求はあるのですね。恋をする人もいるのですよね。それに、性的欲求って肉体的な感情になると思うので、どんな人にもあってあたりまえなことだと思うのですよね。それをどう扱えばいいのか、どう処理していけばいいのかを考えている人は少なかったと思います。それを問題提議して活動してこられている中での人格障害のある女性との恋だということですから、お二人の心の動きを映画を通して感じてみたいなーとは思っています。←まだ観てない。すみません。

障害者でも身体や知的や内部障害など、様々な障害がある中で、病気を併発していたりする場合には、スキンシップやセックスも一筋縄ではいかないのだろうなぁーといった想像はできます。実際はどれだけ大変かは私にはわかりかねますが、どちらかが欲求があるのに、どうしてもそれに応えてあげることができなかったり、満たしてあげられないといったもどかしい思いは、互いに互いを傷つけることになったり、溝になってしまうこともあると思うのです。“本当はもっとこうしてもらいたい。” “本当はもっとこうしてあげたい。” でも、恥ずかしくて本当のことをいえない。そうやってすれ違っていったりすると思うのです。後、相手を思いやりすぎてことで断ることができない弊害もありますよね。それって、多分、健常者の人たちでも同じだと思うのですけど、そういう悩みをあまり人に話すことも恥ずかしくてできない。そうやって、少しずつ溝ができていっちゃうんだよなーって思ったりもします。

それに加えて、身体に障害がある方たちの場合には、相手に触れることも抱きしめることもできない場合もあるし、触れても相手に感覚的に伝わらづらい事もるような気もします。言葉じゃなくて、相手と触れ合うというだけで、互いの気持ちを確かめ合うこともできたりするし、安心もするわけでが、それがままならないのですから…。それに、どうしても性的欲求はタブーとされがちですし、どこか恥ずかしさとか、障害があるのだから性的な欲求はないのでしょ?とか、どこか別な生き物扱いされてきたように思います。自慰行為なんかもですね、発達の過程ですからその欲求を抑制することがどれだけエネルギーを使うかって話なんだと思うのですが、そこらへんないがしろにされているよなーとは思います。だから思春期はアレアレだったりイライラすることになっているとも私は思っていたりもします。そこを理解なく、タブー視したり、サポートもされてないので、そういったことは世の中全体的に変わっていけばいいのになぁーと思います。うちの息子も思春期まっただ中です。自慰行為がないわけではありませんし、障害者の自慰行為で何が大変かというのは、完全に最後までイケないことが、イライラを増幅させるとも聞いたことがあります。ですから、マナーやルールを私からではなく、同性の立場から教えてもらったりすることも大切なことだなーと思ってもいます。寝た子を起こすな的なことをいわれる方もいらっしゃいますが、本人が自慰行為などを行っているだろう様子がみられる時は、止めさせるのではなく、どうすれば皆に迷惑をかけず自分で処理をできるようになるのか、又は気軽に相談できる場所や話せる環境があるといいのにと思います。エッチなことに捉われたりする自分はオカシイんじゃないかと悩むお子さんもいると思うのですね。そういったことも話ができる環境があるかないかってとても大切なことだなーと思ったりします。

世の中にはまだまだ段差がたくさんあるし、多目的トイレだって足りないのかもしれません。ただ、私は思うのです。物質的なバリアフリーが進まないのって、私たちの心がバリアフリーではないからだって。心のバリアフリーがみんなにあれば、物質的なバリアフリーは自然に進むように思うし、物質的な段差も気にならなくなるように思ったりもしています。それでも、日本は足らない気がするけど。。。

今日の空

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今日の空は“秋!”って感じの空ですね。

自宅すぐそばの畑から

虫の声が聞こえてくるので

さらに“秋”満喫しています。

こんな秋晴れの日は

秋刀魚を七輪で焼きながら

ギンギンに冷えたビールを飲みたい

そんな日曜日の朝です。

やっとお腹空いてきたなぁ。

何食べよう…

 

昨日は午前中微妙に体調悪くて

とにかく眠くて寝てみたら復活したので

山鹿にあるチブサン古墳の見学に行きました。

レプリカを熊本県立美術館でみたことがあり

以前『装飾古墳館』にも行ったことがあり

本物がみたくてみたくて仕方なくなってって

そんな心の声に従うべく行ってみました。

時間が足らなかった…(汗)

思ったよりも時間がかかってしまったり

よくわからないけど

みえないところからブレーキかけられてる

そんな感じがしたので

途中で行くのを止めようと思ったりもしましたが

とにかく車を走らせました。

帰る時も道を間違ったり

渋滞回避のための道を選んで走ったつもりが

結局予定の時間大幅にこえてしまったり…

なんだか、ひさしぶりに視えないとこからの

ブロックなのか、なんなのか

思い通りにならないもどかしい時間でした。

久しぶりにラジオを聞きながらの運転になり

1人ドライブしながらラジオを聞くのって

案外好きなことに気がつきました。

そんなこんなでチブサン古墳に着きましたら

他に先客がいらっしゃってて

なんだかガイドのおじ様もいらっしゃってて

「古墳の見学ですか?」

と聞かれたので

「はい」

と答えました。

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どうやら、チブサン古墳をみるには

前もって装飾古墳館に連絡する必要があったようです。

チブサン古墳の中にある本物の壁画を見学に

行ったわけですが、常に見れるものなのか?

と思いながらもスッカリそんなことは忘れており

古墳に着き、ガイドのおじ様の方の説明で

状況を把握いたしました。

なんと、午前10時と午後2時の2回だけ

ガイドの方がご案内してくださるシステムなようです。

(私は午後2時すぎに現地に到着しましたのです(^_^;))

ですので、なんの連絡もせずチブサン古墳へ行っても

本物の壁画はみることができませんので

見学に行かれる際は熊本県立装飾古墳館

電話などで連絡されてくださいませ。

ということで私は連絡することなく

本当に偶然にチブサン古墳の壁画をみることができる

プライスレスなアハ体験をしました。

私はこういうのは本当にツイテル人なので

心の中で神様に手を合わせることとなるわけです。

ええっ。(←自慢です)

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で、本命のチブサン古墳より

なぜだかオブサン古墳のほうに

私はすごく感動いたしました。

上からみると馬の蹄の形になっているそうですよ。

(なんだか、風水を思わせますね)

戦争中官軍の基地になっていたり

弾薬庫になっていたりもしたそうです。

古墳入口の石に弾の後が数か所残っていました。

オブサン古墳の周囲は石棺が当時のまま

いくか残っていました。

先日行った佐賀の吉野ヶ里遺跡弥生時代

チブサン古墳やオブサン古墳は縄文時代になりますが

時代が変わっても何を後世に残していくのかで

現代人の私たちにとっては後世になり

未来人にもなるわけですから

時代ごとに積み重ねられたその流れの先っぽで

私たちは生きているのだと思うと

遠い昔や遠い未来をどこか胸の中に留めて

生きていることも大切なことだなぁと

そう思ったのでした。

庶民のワタシには革命を起こすような

そんな大したことはできないけれども

自分に『できること』や『できるしこ』で

これからも自分の“好き”を追求して

楽しみながらやってみようと思ったりしました。

それと、なんていいますか

縄文時代弥生時代に心惹かれるのは

うちのご先祖様に

豪族出身な方もいらしゃったようなので

DNA受け継がれているのかもなぁと

そう思ったりもしました。

祖父が鏡を持っていたらしいのですが

祖父が亡くなった時に義理の姉が調べるといって

持っていったままになったそうです…

身内なのに欲しがる人は欲しがるものなのですね。。。

引き継がれる人に引き継がれただろうことを

横取りする人がいるのもまた

この世なのかもしれないなぁなんて

思ったりもしました。

 

追伸(°_°)

あっマサカ、これ偶然じゃないん?

えーーー。゚(゚´Д`゚)゚。

つまんなーい。゚(゚´Д`゚)゚。

怪文書~2016年6月2日Facebookより

『ある日の怪文書』


だいのうひしつのみへの

カナシミ

クルシミ

サミシサ

イカリ

へのアプローチって

ほんのつかのまの

きゅうじつのように

すこしじかんがたてば

きえていく

のうみそのざるのめに

ひっかかってるだけだったり

むねまでおちたものの

むねがモヤモヤで

はらまでおちてしみわたらないと

ヒト類はちゃんと

ワカッテイナイこと

おおいんだよぉ

ねぇしっとった?

ネガティブだけじゃなくて

きもちいいをカラダレベルで

しってるか

しらないかが

ポイントなようです

あたまだけでいきてるわけじゃないの

あたまとカラダがひとつでワタシ。

ちきゅうのヒト類にうまれて

いれものにはいってるんだから

ヒト類をたのしみましょう

 

______________

 

怪文書おしまい

今日もよか天気ぃーーー

 

2016年6月2日 16:30 UTC+09