ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

心がまぁるくなる瞬間

私じゃない人が

 

苦しそうで

 

辛そうな時

 

みている私も

 

なぜだか、おんなじ気持ちになる

 

それは、今の私ではなく

 

過去か未来に

 

感じたのか感じるだろう

 

そんな、不確かな気持ちが

 

反応したに過ぎない

 

だから、今の私は

 

どう感じてるのかを

 

大切にしてみる

 

こんな簡単なことに

 

気がつけなかったなんて

 

どれだけ私

 

自分を欺いてきたのかなぁ

 

ただ、そんなことさえ

 

笑い飛ばせる私になれた時

 

棘だらけだった私の心が

 

まぁるくて暖かい

 

ハートに変わった…

 

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今日の空

今日のこちらの空模様は

半分は曇っていて

もう半分は雲の切れ間から

青空がのぞいています。

そして、久しぶりにかなり

身体がしんどい日です。

温泉にでも行こうかなぁー。

 

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実は先日

心屋のオープンカウンセリングに初参加しました。

今の自分ではない時に参加していたら

もっと違った意味で感動をしたのかもしれません。

今のワタシは今だに拗ねているからか

包囲網にひっかかった気持ちが半端なく

それでも、それを想定しての参加でしたので

途中、笑けてしょうがなく

主催者の先生には申し訳なかったです。

そんなこと引き受けてくださったって

すみませんって心の中で思ってました。

ウエメセですみません(苦笑)

私は悩みを相談することはしませんでしたが

申し込んだ時に悩んでいたことは

既に解決してしまってたので

そういった席にいくことが

半分ひきこもっている私にとって

リハビリだと思って参加しました。

イヤー、全ての方のご相談内容が

どこかで聞いたことのある話ばかりすぎて

ニックネームやお名前も

どこかで聞いたことあるお名前やニックネームで

個人的に突っ込みどころ満載でした。

で、ご相談されていた方たちのお話を聞いたり

カウンセラーの方のお話を聞いていて

可笑しくて可笑しくて

ぷぷぷっって笑ったりして

とんでもなく後者丸だしな私でした。

どーもすみません。←反省はしてません。

でも、流石だなーと思ったのは

お人柄がやわらかい方だからか

普通ならざわざわするようなアドバイス

全く嫌味に聞こえないのですね。

すごいなーって思いました。

声色とか間合いとか毅然とした態度とか

そういった雰囲気ってとっても大切だなーって

そう思いました。

(私は他者をざわざわとかモヤモヤとかさせるの

とっても得意だと思われます!)

で、皆さんのお話聞きながら

自分に照らし合わせましたが

すでに私の中では

一度越えてしまっていたことばかりで

そのお話とは別のことがひっかかって

お持ち帰りすることになりました。

で、お持ち帰りした内容はすぐに紐とけました。

が、それとは別に

無意識のどこかの蓋が空いたようで

訳の分からない悲しみが溢れました。

訳の分からない悲しみに襲われて

嗚咽を出しながら泣いたのです。

でも、私からは感情が何も溢れなくて

ただ、ただ、悲しくって泣いた感じでした。

(あれ、なんだったんだろう)

久しぶりに自分を閉じ込めそうになったのですが

相方に電話をし、その後に泣きながら

日本酒飲んでたら元に戻りました。

不思議な体験でした。

で、次の日の朝、振り返りのために

オープンカウンセリングで相談された方への

私から相談者の方へのアドバイスを書いていた

用紙を読み返してみました。

すると、あの時はしなかった

ざわざわやモヤモヤがこみあげてきて

『これ、なんだ?』って思い

過去をさかのぼって照らし合わせてみたのです。

で、で、で、結局

私はやっぱり人と

感じ方がズレてる人だと思う

大きな気づきを得ました。

相談者の方の話を聞いて

私からのアドバイスを紙に書くことで

自分の過去の体験が浮き彫りになります。

ただ、その経験は紙面の中では

時系列ではないのですね。

元々私の脳みそはパラレルワールドなので

感情がごちゃまぜになってることが多々あって

多分私だけではなくて

大抵の人がいつのどんな時の感情かなんて

時系列で覚えているわけではないので

紙面にアドバイスが書き出されると

過去の感情の歴史がごちゃまぜになってしまうようで

終ったことなのに終ってないように

感じてしまう摩訶不思議な気持ちになりました。

つまり、アドバイスした内容は

自分のどの時期のどんな時だったかを

書き出す事が私には必要で

それらを紙面上でも並べ替え

年表のようにしたほうが

パニックにならないのかもしれないということ

そして、心屋の『前者・後者』の後者にあたる私は

脳内で組み立てが下手くそなので

紙面上でも年表化することは必要なことなのかも…

なんて思いました。

で、それをやろうとしたのですが、

私はもうすでに、全部卒業している内容がほとんどで

完全に感じ切ったとはいえないかもしれませんが

なんていうか、俯瞰して眺められるくらいまでには

なってはいるのだということを

感じられたので、

それは、とても大きな気づきでした。

もう、改めて穿り返す必要なくて

何か事が起きた時に溢れてくる感情を

これから感じ切っていけばいいだけだと

思うことになりました。

自分のわからない部分の蓋が空くのは

とても負荷がかかるので

元気な時じゃないと

危ないなーとも思いました。

 

 

正直申し上げますと

つまらない仕掛けは

私にとって正直つまらない現実にしか

感じないのです。

それに参戦している人たちは

自分たちの行いをどう捉えているのでしょうか?

私からしたら、誰かの役にたちたい

そして、誰かを必死で守っている

そんな姿が垣間見えました。

本当に守りたい人は一体誰なのでしょうか?

そして、何を守りたいのでしょうか?

人の無意識の感情の壁は

熊本城の武者返しより高くて頑丈なのだと

思い知ることにもなりました。

(↑ わーいやなやつだわー私(=_=))

ということで、今日もグダグダしまーす。

けものみち

小学生当時の遠足では

山に登ることが多かった

毎年同じ山に登る時は

行きは学年ごとに並び

道路を歩いて登った。

送別遠足では

全校生徒がごちゃまぜになり

チームになってゲームをしながら

山を登るという事もあった。

楽しかったな…

その山に登る時は

山を切り開かれ車が通れる

アスファルトの道路とは別に

大昔から人ひとりが通れる

けものみち』があった。

遠足から帰る時の

学校までの帰り道は

好きなように帰ってよかったから

男の子女の子関係なく

その道を通り学校まで

皆で駆け足で帰った。

道は人ひとり通れるくらいで

草や木は茫々だし

道は土や石で凸凹だったけど

その道を通れば

短時間であっという間に

山を下りることができた。

とにかくあの頃は

短縮できる道を通って

ズルをするのではなく

楽に山を下りれる

その道を歩いて帰ることが

私には楽しくて仕方なかった。

子どもの頃を振り返ると

あの頃は楽に何かを手に入れることを

躊躇せず試みて

試行錯誤していたような気もする

でも、いつの間にか

そういったことがズルいとか

努力しなければならないとか

みんなと同じでなければならないとか

たくさんの様々な『べき』や

『なければならない』といった

世間一般の常識の御呪いで

どんどん楽しくなくなって

楽しんでやっていたことも

いつの間にか楽しくなくなったり

子どもっぽいと大人ぶったり

頑張った先にあるものが

賞賛されるべきだといった

思い込みの渦に

私は呑み込まれたのだと思う。

私にとって

絵を描くことも

音楽を奏でること

文字や書をたしなむことも

あの『けものみち』を通ることと

同じだった。

そんなに努力もせず

ただ、ちょちょいのチョイと

自分の閃いたものを表現しただけで

それらは自分の思いとは違った

別のカタチで賞賛を得た

それでも、私よりもっと上手い人は

たくさんいるのだということは

テレビや雑誌など

メディアをみればわかることだった。

絵を描くことが面白くて仕方なくて

夜も眠らずに描いていた時は

ただ、上手く描けるようになりたかったし

書を書くときは考えて書くより

頭の中にある線を

ただ紙になぞっていくといった

そんな感覚だった

練習もせずいきなり清書をした

書が特選をとった時

練習しなくても

賞をとる時はとるものなのだと

子どもながらに思ったこともある

生意気だけど…。

ただ、絵や書だけでなく

なんでもいえることだけれど

一度浮かんだものを練りあげたものより

一旦閃いたものを

ただ描いたときのほうが

なんとなく勢いとか

その作品がずっと生きている感覚を

閉じ込められるような気がする

息をひそめて

写真を撮る時に似た

『生』を『静』の中に

閉じ込めるような感覚に似ている

私にとってとても大切だった

そんな感覚を隠すようにして

大人になるにつれ

私の中に閉じ込め封印した。

他者からの賞賛や妬み、そして

私自身に植え付けられた

謙虚や謙遜といった言葉の羽衣と

常識といったシガラミを

ワタシを取り戻し

それらを脱ぎ捨てながら

私を楽しんでいくことに決めた

 

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今日の空

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こちらは今日から雨だそうです。

一雨ごとに寒くなっていくのでしょうね。

晴れているとまだまだ日中は汗ばみますが

朝晩はかなり肌寒くなってきましたので

体調管理に気をつけたいと思います。

少々動きすぎなようなので

自宅でゆったり過ごしながら

年末に大掃除しなくてもいいように

ぼちぼちやりはじめようかしら…

 

昨日は熊本県立美術館で開催されている

『若冲と京の美術 細見コレクションの精華』

を見に行きました。

屏風絵や書、蒔絵の調度品や茶道具などもあり

調度品の素晴らしさと

伊藤若冲の作品に至極感動をしました。

伊藤若冲展が熊本でも開催されて欲しいです。

以前、習ったことのあるデザイン書道の先生が

『線』が大事とよくおっしゃられていたのですが

線の勢いだけでなく

しなやかさや筆先一本一本を使って

描かれていたのですごいなーって

感動するばかりでした。

きめ細やかに描かれた鶏の羽根の模様とか

滲みを利用した技法とか

繊細なのかぶっきらぼうなのか

ユニークな人柄を思わせる作品ばかりで

他にもいろいろな作品をみてみたいと思いました。

調度品の重箱が素晴らしすぎて

口をあけてみいってしまいました。

屏風絵はあまり興味がなかったのですが

桃山時代とか江戸時代の京の都の様子が描かれていて

歌舞伎、相撲、遊郭等は当時

隣接した場所にあったようですし

競馬もその頃から行われていた様子も描かれており

当時の様子を知ることとなりました。

秀吉本人直筆の書状や

千利休直筆の書などもありましたよ。

本人の直筆が残こってることにも

感動を覚えました。

今回の展覧会では屏風絵よりも

当時の調度品のほうに心を惹かれました。

日本の伝統工芸の素晴らしさに感動したので

どうかこのまま引き継がれていくといいなと

そう思います。

日本の古き良き歴史に

目を向けることも

大切なことだなと思うことになりました。

 

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無意識な癒し

言葉にならない想いを

 

自分以外の誰かに

 

伝えようとする時は

 

頭や肩へ軽く手をあて

 

優しく撫でたり

 

ぎゅっと胸元へ引き寄せ

 

抱きしめたり

 

おでことおでこを

 

ごっつんこしたり

 

普段は中々しない行動で

 

自分の気持ちを

 

相手に伝えようとする

 

そんな時は

 

互いにどうしようもない

 

なんともいえない空気感を

 

1秒でも早くなんとかしたくて

 

戸惑いや不安な気持ちを

 

互いに感じさせないように

 

言葉にしない働きが

 

本来の無意識な

 

癒しなのかもしれない…

 

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今日の空

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赤い彼岸花が緑の中から

顔をのぞかせている姿をみると

TCカラーセラピーで学んだ

レッド&グリーンの講座後に

それまで学んでいたことが

スルすると芋づる式に連想が起き

一つの大きな気づきを得た日のことが

なぜか思い出されます。

私にとってのこの時期の“レッド”は

秋の始まりと終わりを告げる

そんな色のように感じています。

“グリーン”もまた春や夏の時と

印象が変わるので

そういった自分の気持ちを大切にしながら

秋の色を楽しもうと思います。

 

さて、すっかり肌寒くなってきました。

お鍋の季節到来ですね!

来春のために汁物が欠かせない季節です。

といいましても、我が家は夏でも鍋を食べますが…(笑)

今年は外が激熱だったので

エアコンの中にいる日が多くなってしまったり

つめたいものを食べることが多かったし

野菜をたくさん食べたい時は

ツィッターのTLに流れてくる

常夜鍋』を食べています。

それか、今年はモツを鶏肉にして

もつ鍋風の鍋も2回ほどしました。

モツ鍋屋さんにいったことは

一度だけしかありませんが

私はもつ鍋のキャベツとニラと

最後のちゃんぽん麺がすきなので、

モツじゃなくても全くかまいません。

鶏肉で十分お美味しゅうございました。

はてさて、うちの実家では

魚で水炊きをすることがありました。

今思うととっても贅沢ですが

『皮ハギ』で水炊きをすることもありました。

てっちりに負けないくらい美味しいんですよ。

フグの身に比べると弾力は負けますが

味は負けてないと思います。

昔は鍋の最後の〆は『おじや』が定番でしたが

うちの母の料理はよそのお宅とは

一味違うことが多いので

『おじや』もちょっと変わった

お餅とおろした山芋入りの『おじや』でした。

(どこかの地域では当たり前?なのかしら?)

最後にとき卵でとじ、ネギを散らしたものを

ポン酢を少々かけて食べていました。

水炊きをしなくてもお餅と山芋入りの

『おじや』だけの日もありました。

今は最後の〆を食べれるまでの量は

人数が多くないとなかなか食べられませんし

ましてや、お酒を飲むようになったので

『おじや』を食べる機会が少なくなりました。

自分ではなかなか作ろうと思わないので

実家に帰った時にでも

久しぶりにつくってもらおうかなーと

思ったりしています。

ああ、お母さんに

「山芋買ってこい」といわれるだろーなー(笑)

あの頃のわたしへ

 

一人で拗ねて

 

一人で闘って

 

一人で笑って

 

一人で泣いて

 

そんな “ひとり芝居”を

 

ずっとしていたなんて

 

笑っちゃうよね…

 

私の目線の先の人たちに

 

みてもらってたはずなのに

 

私の宇宙には

 

誰もいなかったなんて

 

本当に笑っちゃう…

 

あの頃の

 

情けなさや悔しさ

 

悲しみや苦しみを

 

全部丸ごと“怒り”にかえて

 

誰かにぶつけてみても

 

結局自分を責めるしかなかった

 

あの頃のわたしへ

 

「私今とっても幸せだよ」って

 

「頑張ったね」って

 

「えらかったね」って

 

心の中でハグをする

 

あの頃のワタシも

 

今のワタシも丸ごと全部

 

泡のように消えゆく

 

小さなワタシの幻たちに

 

“ありがとう”と“サヨナラ”をした

 

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