ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

予定はないが『はじめに』もあった件

『予定はないが『あとがき』はある件』

という記事を一度書きましたが、なんだか『はじめに』も書きかけの文章が残っていたのを発見してしまったので、付け足して掲載しておきます。なんだ、だから“ひな祭り”だったのか。。。乙

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『治す覚悟を決めた日』

 

はじめに


 自分にも発達障害+二次障害があるとわかって約10年がたった。当時はまだ大人の発達障害の認知度も低く当事者の著書も少なかった。『発達障害を知ってください、理解してください』の啓発が10年以上続いた今、何がどう変わっただろうか? 制度や支援の体制は整いつつあるが、実際その制度を利用する人たちや支援者そして福祉や医療の現場は一体何をしてきたのだろう…と感じてしまうことが多すぎるように思う。業界といわれる世界は、案外広いようで狭くそして、沼のようだ。それに3月3日のひな祭りに飾られるひな人形のような雰囲気を漂わせているようにも思う。ひな壇に並んでいるお人形をうっとり眺めているだけで幸せな気持ちを堪能し、ひな祭りが終ると防虫剤をいれ、また来春の出番のために大事に押し入れにしまわれ、ひな壇に上がる日を待っている。発達障害の当事者であろうが保護者であろうが、私たち庶民にとって業界のメジャー先生方の存在は、講演会やセミナーという檀上でしか、関わることはないし、関わるといってもひな壇の上にいる近いようで遠い存在。私たちはただ話を聞くだけで眺めている関係でしかない。当事者もその家族も本来ならもっと身近なところで、最新といわれるであろう支援の方法や自助努力の方法又はより良い情報が知りたいのにだ。最近講演会へも行っていないのでわからないが、その講演会までに、私を含めた当事者や家族、現場で働く支援者の声が届いているのか、活かされているのかさえわからない。届いただろう現場の声を元に、講演会で講師の立場からの知見やアイデアが組み込まれた話がなされているのだろうか? 毎日現場でお世話になっている身の私からすると、問題が積みあがっていくばかりで解決されず、ただその場しのぎの対処療法だけで、これまで持ちこたえてきただけなことが多い気がしている。今日この日までに、庶民の私たちから届いたであろうたくさんの書状は業界支援者の心の目安箱にいられたまま、読まれもしなかったのだろうか? そんなことを思うに至っている。

そんな私は、10年というこの年月の中で、業界の支援を真に受けていた時代もあり墓穴を掘ったこともある。このままではダメだと思った時に、国の制度を使わせていただきながら、福祉や医療に援助を受けつつ、自助努力をしていく方向へ舵を切りなおした。そして、それから私の人生は大きく一遍していくととなり、自分自身が全く治っていなかったことに気がついたことで、本当の意味での治す覚悟を決め、“はじまりのゴング”が鳴った。あれからもうすぐで2年がたとうとしている。どうやら私は間違いなく治ったという実感を得ることとなった。そして、この歳月は、私にとってだけでなく私に関わってくださった方たちとの苦しくて切ない大切な思い出の記禄でもある。私の二次障害を治せることに気がつかせてくださった、自閉症スペクトラムの当事者の方から勝手に受け継いだバトンをまた勝手に次の誰かが引き継いでくれることを祈りつつ、私の治っていく過程の物語を読んでいただけたらと思う。

 

20180225 千晴