ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

予定はないが『あとがき』は〝ある〟件

ラスボス発見からのラスボス退治【前篇】と ラスボス発見からのラスボス退治【後編】の記事に追記として今日は記事に掲載しようと思いましたが、以前のブログ記事の中にある『治す覚悟を決めた日』というタイトルの記事の『あとがき』として残した全部の文章を掲載しようと思います。なぜかっていうとそれを読んでもらうと大まかにわかるし、手っ取り早いからです(笑)それに、私は著書をだすつもりもなく、オファーもありませんし、ここは私のブログだから掲載したところでなんの支障もありませんので。(最初から全部掲載すればよかったなぁーバカだなー私(笑)

その記事の前に私の身に起きていた霊障のようなことが精神障害かもしれないと気がつき、それを治した人がいたことを知ったことが自分探しの第一段階の終着点になると思います。私の身に起きていることが何なのか知りたかったことや治せるなら治したいと思ったきっかけは、アスペルガー症候群の当事者である藤家寛子さんの存在があったからです。去年別のサイトでブログの記事にしていますので、詳細は割愛させてもらいますが、彼女以外にも人格障害を克服なさった方はいらっしゃるかとは思います。ただ、私がはじめて知ることになったが彼女でした。藤家さんの特集が地方のテレビ局の特集があったことと彼女の著書である『他の誰かになりたかった』がきっかけとなりました。彼女が治った1例を著書にしてくれていたことが私の治るに繋がりました。そして、昨年の秋に長崎で開催された講座で、著書の中にはない治療中のエピソードを聞かせていただいたことで、私は確信を得たようにおもいました。だからこそ、分裂したままの私の心を統合させるためには、通らなければ治らないのだとも思い知ったのです。だからこそ彼女は彼女のペースで治っていったのだとそう思ったのです。それから数か月間は、本当に大変でした。相方に愚痴をいったり、友だちに愚痴をいうくらいではありませんでした。母や相方のアイデンティティを崩してしまうくらいの言葉もぶつけましたし、相方には暴言も履き、暴力も振るいました。理不尽な態度でこみあげてくる怒りを涙ながらにぶつけ、相方との喧嘩を息子にもみせることにもなりました。そんな自分が情けなくて、泣きじゃくりながら息子に「こんなお母さんでごめん」と大泣きし崩れ落ちた私を息子は、ただだまってぎゅっとハグをしてくれました。これだけではありません。本当によくここまで家族が耐えてくれたなぁとしか思えないことが何度かありました。ですから、何ももたない私には、ただ治ることだけが相方や母、そして家族に移行するまでに支えてくださった方たちへの恩返しだと思ってここまできました。想定外のことにはなりましたが、胎児性の愛着の不具合はなくなったみたいです。時折まだ拗ねる時もありますが、拗ねた時は『拗ねてるんだーぷんすか \<`ヘ´>/』と言葉で言えるようになりました。おかげさまで主体性をとりもどしましたが、副作用もあり(笑)別の問題が出てしまいました。ただ、これは私の問題ではなく、私を問題視している人たちが原因をつくってくださっているので、スル―したり、怒りの感情もちゃんと言語化できるようになって冷静に対処できるようにもなってきています。(こうやって書くと理不尽な意味不な問題を起こしお試しされるので、書きたくないんですけどね(棒))

と、また前置きが長くなってしまいましたが、なんのオファーもなく著書が出る予定もない『あとがき』(笑)をどうぞご覧ください。

※藤家寛子さんの治療中にあったご家族とのエピソードは、愛甲修子さん著書『愛着障害は治りますか?』に掲載されていますので、ご興味のある方は本書をお読みください。藤家さんのエピソードだけでなく、その著書は自分で愛着のヌケがあるかないか、愛着の形成のピラミッドなど、自分でできるセルフケアなども紹介されていますので、読んでみられることをおススメします。私はその著書を読んだ後、脳みそがシャットダウンしました(苦笑)

____________________

 

『治す覚悟を決めた日』     千晴

 

私が自分自身発達障害じゃないかと思い佐賀にある肥前精神医療センターで受診を受けたのは約10年前だ。問診とWISC/Rの検査を受けた後AD/HD注意欠陥多動性障害という診断を受けた。当時は、やっと自分の着地点が見つかったと思ってほっとしたのを覚えている。診断後の診察で併せて二次障害もあることがわかり薬の服用が始まった。1年半くらいすぎた頃だっただろうか、肥前精神医療センターに通うのは大変だったし、当時の友だちに勧められ、その後は地元の病院に通院することにした。病院に通院しながら自分なりに講座や著書ネットで情報を集めるなどをしながら自助努力の方法を模索しつつ、成人当事者の支援も受けた事もある。でも発達障害の世界を知り、自分に照らし合わせ自分らしさを見つけていく中で歯車がくるっていった。
私は当時紛れもなく発達障害や二次障害を印籠代わりに使っていた。何かにつけてできない事等を言い訳にしていた。そして、自分の衝動性を間違った行動力にすり変えてはネガティブな事で大切な人たちを巻き込み多大な迷惑をかけてきた。私の黒歴史は正直、人様に自慢できる事ではない。笑い話で聴いてくれる人なんておそらく一握りだろう。自分の闇を人のせいにして自分の闇にちゃんと向き合ってこず、その闇を自分は悪くない周囲が悪いという『大変よく頑張りました』の判子が欲しくてスピリチュアルと自己啓発や占いの世界にはまってしまっていた。今思うとただ居場所が欲しかっただけだったと思う。スピリチュアルな人達だから私のやってきた黒歴史を『あなたは悪くないんだよ』っていってくれるだろうと思っていた。私は底なし沼のようにどんどんどんどん落ちていった。でも落ちている自覚はなかった。ただ、結局その世界でも自分が一人ぼっちのような気がしてスピの世界から離れようと思った矢先『強制終了』となった。
7年前の春、精神科閉鎖病棟保護室から人生のやり直しがはじまった。2ヵ月間の閉鎖病棟での入院生活はまるで映画やドラマのような日々で夢のようだった。主治医にも退院時
「ここでの生活は夢だったと思ってね」
といわれた事を今でも覚えている。その当時はどういう意味か全くわからなかったが、今振り返ると相当ヘンテコな世界だった。でも社会の縮図のようにも思えた。入院時に出会った人で治っていく人たちは一握りだったと思う。その頃から治っていく人と治らない人というのは私の中で怪奇現象に感じていた。そして自分自身にきちんと向き合っていく中で気がついた事がある。治っていく人は治したいと治りたいという気持ちが強い人が多いという事。そして自分なりの治し方に着目し実践している人や完全に開き直っている人、医者のいう事を完全に鵜呑みにしない人等治っていく人達は治らない人と違って真正面から自分の病気や障害とうまくつきあっているように思う。治らないほうがみんなが優しく腫れ物に触るように扱ってくれる…。治すことでのデメリットを感じる人、病気や障害の特性を人質に主治医を操ってる人が治らない人だと私は思っている。そして、最近感じているのは、精神障害になったら治らないという思い込みが治らない治さないに繋がっているのではないかとも思っている。
 生きなおしをはじめて7年。規則正しい生活と日中活動を充実させる等が定着した頃、神田橋先生の存在を知り、三歩進んで二歩下がるといったような感じではあったが私は元気になっていった。そして栗本啓司氏のコンディショニング講座を受け、自宅で自分でできるセルフケアを教えていただき、更に元気になっている。そして体調を崩しても振れ幅が少しずつ狭くなってきているのを実感している。身体づくりを大切にしたら、思考も変わってきており、自分の『気持ちいい』に気がつけるようになった。そうすると更にいい事は続く。心の痛みは伴うが過去のトラウマを乗り越えられるようになっていき、過去の自分を責めたとしても人を恨む気持ちは薄れていった。パートナーへの依存も過去へのトラウマの執着も防御の為に着ていた鎧がはがれおちていくようになくなりつつある。不思議と。そういう治っていく過程の中で私はある事に気がついた。それは、私は本当の意味で治す覚悟がなかった事だった。現状維持で満足していたんだと思う。正直、実は一旦落ち込んだその後大爆笑に変わった。
「ああ。私、治るのが怖かったんだ」
そういう自分の想いに気がついた時に断薬を決めた。なぜなら、自分のいろんな闇は薬では治らないものだという事を思い知った出来事もあったからだった。私の闇は私が創りだした世界。自分の在り方やこれまでの勘違いをなおしていきつつ、身体の土台づくりもできたら、どんな事にもブレない自分になれるだろうと思い、いい加減治す覚悟を決めた。
治るにも段階がある。治っていくにも過程がある。治るの向こう側にある景色は無限に無数に広がっている。誰のものでもない。私だけの治るの景色がみれる日がくるように私はただ自分と向き合う日々をこれからも大切にしていこうと思っている。

 

2016年3月

 

____________________

 

はーずかーしー(笑)(*^。^*)