ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

天まで届け

胸にたまった

 

悲しいキモチも全部

 

ふーーっと息を吹いたら

 

虹色にきらめく

 

まぁるいシャボン玉となる

 

そよ風に運ばれ

 

空の上のほうへ

 

飛んでは消え

 

おかげで私の気持ちも軽くなる

 

するといつの間にか

 

その悲しみは変化して

 

懐かしさを呼び覚してくれた

 

だから今度は

 

大好きなあの人へ

 

「私は元気だよ」という

 

便りとなるよう

 

子どもの頃みたいに

 

しゃぼん玉を飛ばそう

 

天まで届けと…

 

f:id:sorahitoumi:20171113192254j:image

Please tell me, god.

ただ、息をして

 

ただ、身体を動かして

 

ただ、美味しいもの食べて

 

ただ、大切な人たちと

 

一緒に笑ったり

 

愛する人たちの側にいて

 

ただ、好きなことや

 

ただ、興味があることで

 

私が喜んだり

 

それが、誰かの役に立ったり

 

喜んでくれるなら

 

このほかないと思う。

 

それが私にとって

 

『生きる』という意味であるのに

 

何故、神様は私から

 

そんな些細な『いのち』さえ

 

奪おうとなさるのですか?

 

f:id:sorahitoumi:20171113190639j:image

その花をみようともしなかった僕へ

誰かを『好き』だという

 

想いの種が

 

僕の中で育まれ

 

いくつもの

 

恋に落ちてきた

 

僕の中でその種が

 

芽をだすことはあっても

 

差し出した君の前で

 

花が開くように

 

魔法をかけて

 

プレゼントしていたから

 

僕の中に芽生えた種が

 

どんな形や色の花かも

 

知ることもなく

 

差し出していたんだ…

 

でもそれは、

 

本当の意味で好きだった

 

あの人へ

 

届けられない花束を

 

別の誰かへ

 

差し出していただけに

 

過ぎなかったのだと思う

 

僕が本当に欲しかったものは

 

僕自身が与えてきた

 

言葉や言い訳じゃなく

 

お日様が照らす

 

春の日差しの中で

 

丸まって眠る子猫のように

 

あの人の『ぬくもり』の中で

 

ただ、丸まっていたい

 

それだけなんじゃないかと

 

そう思ったりもしている

 

f:id:sorahitoumi:20171113111251j:image

相反する中で対比し照らし合わせる

f:id:sorahitoumi:20171109134557j:image

 

この地球の生物は

 

交わることのない

 

相反する世界の中で

 

生きている

 

私たち人は

 

この世界の中で生きながら

 

己の中に

 

善と悪の二つの面を持ち

 

折り合いをつけることで

 

生きている

 

ただ、自分1人では

 

〝感じる〟ということは

 

なかなか難しい

 

対比するものがあるから

 

私の感覚も磨かれる

 

光が照らす物体に

 

影ができるように

 

人と比べることで

 

己の感情を確かめながら

 

今この瞬間

 

息をしている自分を

 

実感できるのかもしれない

体験を通しても感じ方は違う

毎年恒例の24時間テレビはいつの間にかみなくなっていましたが今年の夏は、久しぶりに時々チャンネルを変えて観ていました。わざとらしい演出などが嫌だなと思うことや我が家は常に24時間実況生中継生活なので(苦笑)我が家のことで精一杯でしたから、余裕もなかったというのもあります。それに、アラフォー過ぎると我が家以外にも親戚や友人知人の突然の死や癌、障害の発覚したことがあるので、あえて啓発番組をみなくても病や障害と共存している人たちの事は知っていたのであえて観る必要もなかったというのもあります。

クリスマスが近づくと思いだすのは、私の5つ下くらいの従妹に小学校の血液検査で再生不良性貧血が発覚し、幼い頃から入退院を繰り返ししていた子がいました。数年たった時にドナーがみつかったのですが、その時ドナーの方の都合が悪く提供できないということで、それから数年待機しその後骨髄移植を受け手術は成功しましたが、私の息子が産まれる二か月前に20代の若さでこの世を去りました。その時、私は出産時の臍の緒から移植することで白血病の人たちへの骨髄移植ができることを知ってはいましたが、正式な手続きをふまえての提供の仕方などわからなかったので、何もしなかった自分を悔やみました。
父方の伯父で体調がすぐれずいろいろ検査をしやっとパーキンソン氏病がわかった伯父もいました。釣りが好きな伯父だったので、伯母の実家になる我が家に身体が動くうちは帰省して釣りを楽しんでいました。年々会うたびに声がだしずらくなったり、身体が動かしづらくなったりしている様子は見ていて悲しいキモチでいっぱいになりました。おしゃべりしたくても声にだせないのは不憫でなりませんでした。伯父が亡くなった数年後伯母にも癌が発覚しその後亡くなりました。
社会人になってできた友だちで、結婚後まもなく赤ちゃんができ予定日の数週間前にご主人を交通事故で亡くした子もいました。その子としばらく文通したり時々二人で会うこともありました。その子との話をした中で一番忘れられないのことは「私はSがいう我儘は全部答えてあげてたから、後悔してることはない。ただ、植物状態でもいいから生きてて欲しかった」と言っているのを聞いて、私はかける言葉もみつかりませんでした。
母方の祖父も伯父も癌で亡くなりました。中学からの親友だった子のお母さんがすい臓がんの末期で半年の余命宣告を受けて、母娘の闘病生活を見守っていました。半年の余命宣告を受けていたけれども抗がん剤の治療などのおかげもあり、半年といわれたけれども約3年は生きながらえる事ができたのです。その時その時の身体の状態に合わせた生活を行い、動ける時にしておいたほうが良い終活を自分でしていらしゃいました。友だちのお母さんとも癌のことやいろんなことを話したような気がします。それを支えていた彼女も自分自身のことでの悩みを抱えながら母親との生活を楽しんでいました。だから彼女もいいました。突然ではなかったから数年でもお母さんと過ごせたことが良かったと思う。自分でもできるだけのことはやったから、悲しいのは悲しいけど悔いはないと。亡くなった数年後にエンディングノートをみせてもらいましたが、おばさんらしくて笑ってしまいました。配偶者になるおじさんにあてた言葉が、本当に笑っちゃうくらいでしたが、心残りがあるのだろうなと思う寂しさが伝わってくるようでした。
他にも、同級生で交通事故で亡くなった子もいるし、半身不随になった人もいます。高校の頃は隣のクラスの担任で美術部の顧問だった先生が自殺で亡くなったこともありました。親戚の叔父ちゃんが風邪をこじらせて脳障害になった人もいました。私の父も突発性多発性関節炎で半年は寝たきりの生活をしていたこともあります。私自身もうつ病で自宅療養をしましたし。

人はその立場にたってようやく自分の気持ちに気がつきます。人の体験を見聞きして知っていても、その立場にたって初めて自分はどう感じるのかがわかります。人と同じ体験を通しても全く同じ気持ちになるかといったらそうではないと思います。その体験を通して感じた時の自分の気持ちを閉じ込めず、誤魔化さずに、自分がどのように感じているのかを感じ切ることはとても大切なことだなーと最近つくづく思います。私は自分で自分の感情を受け止めることができず誤魔化してきたことが多かったから、体験したその瞬間にあるがままに感じたことを私なりに昇華すればよかったけれどもできなかったことが自分の身を滅ぼすことになったのだと思います。

自分自身だけではなく、体験を通した人の話というのは、大げさに言葉にしなくても伝わってくるものがあるなぁーと私は感じています。今年久しぶりにみた24時間テレビで、私自身の意識が少し変化したことを感じることができました。ただ拗ねていただけだったのかもなんて思ったら、可笑しくなって自分で自分を笑ってしまったのでした。みんなと同じように感じることができたり、表現することができなくても、今、自分の中にあるぼんやりとしたものがいつの間にか月日と共に育まれて、それは言葉かもしれないし、何かの作品かもしれないし、それらが誰かの役にたつことではなくても、自分の内側からその生まれたものが、いつの日か自分だけのギフトとなって外側の世界に溢れだすのかもしれません。

 

f:id:sorahitoumi:20171109134456j:image

「覚悟」 2015年12月13日facebookより

こんなのあったー忘れてたー

2年前に気がついていても

実際にはなんにもできてなかったのよね。

 

______________

 

2015年12月13日 18:03 UTC+09

 

「覚悟」

自分の問題は自分には身体に出る

 

でも、大抵の人は自分の問題だと思ってない

 

で、わかんない人には見せられるのだ

 

自分の身近な人に 1番身近な人に…

 

それに気がつかない人は

 

身内以外の社会の中でも歪みを感じる

 

イライラしたり 人のせいにしたり…

 

それは結局自分の問題なのに

 

周りの人が悪いになる

 

いやいや?違うよね

 

あれあれ?違ったよね

 

ああ、そうかまだまだ自分に向き合うまでの

 

「覚悟」できてなかったんだ!おおーそうか。

 

「覚悟」って言葉には

 

2通りの意味がある

 

それは“やるか” “やらないか”の世界

 

でも、それはどちらも正解なのだ

 

つまり 「やる」という勇気

 

「やらない」という勇気

 

自分自身がどっちを自分が喜ぶかどうか

 

ただそれだけのこと

 

だから 「やる」事だけが正しいわけでもなく

 

「進む」ということが良いというわけでもない

 

もう疲れたし、なんかわからんけど

 

危険な気がするって思って

 

「やりたくない」っていうのも

「終わり」にするのも

 

その人なりの「覚悟」という事

自閉脳と一般脳②

脳のことも身体のことも私は人よりも少しだけ著書や講座から学んで得たことと実体験を通し体感していることや経験値からの話なので、学術的な話や専門的なことは正直わかってないと思います。ほとんど感覚で捉えているので、この私のブログを読んだりしても、絶対鵜呑みにしてもらいたくはありません。あくまで1個人が感じていることをブログに残しているだけですので、100人いれば100通りのうちの1人の体験を通し感じていることと思って読んでいただけましたら幸いです。

さて、「自閉脳と一般脳①」の最後で、『無意識の領域がよりよく機能するようになれば、意識をせずとも身体は勝手に動いたり、逆に少し意識することで、無意識の動きを補ってくれると考えたから』ということに辿りついたのは、身体アプローチの講座で反射のテストを実体験した時、私以外の参加者の方との違いをものすごく感じたことと、講座で学んだ動きを母に試してもらって、母にその感想を聞いたことがヒントとなりました。私は講座中に行い、ハッキリと自分のできているできてないを感じることとなりましたが、私より身体を動かせる母に、試しに2通りの動きをしてもらい感想をききました。母はどちらの動作もできていました。ただ、私からすると、少しぎこちなさを感じたので母に質問しました。

 

「お母さん、どっちがしづらかった?」

というと

「特にどっちも何も感じない」

と母がいうので、

「じゃあお母さん、意識しないとできないのはどっちだった?」

と質問を変えると

「しゃがむほうかな。」

と答えが変わったのです。

 

このことから、自分と他者の身体感覚の違いというだけではなく、集団心理や脳の機能が先読みをし、無意識に予測される動きができてしまうのが一般的な脳なのかなーといいった1つの仮説が浮かびました。反射のテストの時、想定される動きがどのようになるかテストを受ける前から(こういうことになるだろうなーといったことが頭の中に浮かんできました。)想定はしていたのですが、私の場合には、予測した動きにはならなかったのです。でも私以外の人たちほとんどが私が想定した動きができてたので、なんなのだろうと思ったのですね。先を読み意識をしたとしても身体の反応は私の予測と違った動きをみせたのに、他の人たちは予測はしてるのかしてないのかはわからないけれど、なんだかみんな同じ反応だった。それは、意識的にできているのか、無意識にできているのかでも違うし、恐怖麻痺反射の残存率が高すぎるのかでも違うだろうし、集団で行うことによって無意識が変化したりするのかも…等、他にもいろんなことを考えられるなーと思うことになりました。他にも考えられることがありますが、講座の内容を詳しくこちらで紹介することになるので、ここでは触れません。ただ、そういった体験をしたことや原始反射の講座で学んだことから、自分は意識して身体を動かすことも無意識の動きもどっちも苦手で凸凹があるということは確実なのだろうと思いました。

私は自閉症スペクトラムの診断は受けていませんが、自閉症が遺伝するということであれば、息子が自閉症スペクトラムですし、母親からの遺伝する確率が高かったと思うので私が自閉症スペクトラムではないとはいえないわけです。まーそんなことは今の私にとってどうでもいいことなのですが、以前は、私はアスペルガーなのか、それとも母が実はアスペルガーで母の躾や世間の一般常識で私はそういう性格に育ってしまったのかどうか悩んだことがありました。もし、自分が一般脳であるなら、育て方や環境要因だろう。でもアスペルガーであるなら、母は私をうまく育てたこととなる。でも、私の中にあった拭いきれない孤独感は、どのようなことをしても満たされることはなかったのです。

愛着障害や原始反射のことを学んだことがきっかけになり、その孤独感は胎児性の愛着障害だったのだと思うにいたっていますが、そうなると、アスペルガーの線はなくなってしまうのですね。ただ、感覚過敏やエンパスのような感覚は元々持っていたものなのか、発達したものかになってしまうこととなり、感覚過敏は原始反射が統合すれば、軽くなるといわれているのですよね。残存率が高いで生きづらさとなっているということなのですね。そうなると私の場合、原始反射の残存率が高くなると思っていたのです。でも、ですね、これですね、私の場合、子どもがいて母親だからこその標準装備なのだなと思うことになっています。恐怖麻痺反射は、生き延びるための反射らしいので。(間違ってたら、どなたかコメントを-)となると、私の場合無意識が偉く過敏なのか、自分の身の危険を感じると体調が悪くなったり、地震の前に目が覚めたりといったことが起きるのです。これだと、確かに生きづらいですね。震度1でも目が覚めてしまうので。震災を経験したから更に研ぎ澄まされたように思います。(嘘のようで本当の話です。。。)となると、原始反射の残存率が高いことによっての生きづらさというのが、説明できない気がするのですね。そして、原始反射の統合を行うことで感覚過敏が軽減したり、治ったりしている人たちも実際いるし、だけれども私や息子の感覚過敏は軽減されることはあっても一般的なひとたちよりは高い状態なままで、体調によってそれらが増減するということになっているのですよね。私の場合には鬱というよりホルモンバランスの影響でメンタルも左右されるので、より動物的な気もしています。

息子はバリバリな自閉っ子なので、その息子の様子をみているととても動物的なのですね。で、それらは彼にとって今は必要だからそのままのような気がすることもあります。(母親の私が未熟なので、仕方ないのですが。。。)で、自閉症の特性はいろいろありますが、その中でも共通している三つ組みといわれるものがあります。

 

〇コミュニケーション

〇社会性

〇イマジネーション

 

これら3つがそろっているかいないかで診断名が変わるようですが、現在はどうなんでしょうか? そのままなのかしら。

自閉症のことを学び始めた頃はこれを真に受けて信じていましたが、ここ最近になって、この三つ組みは診断するのにあたいしないのではないのだろうかと思うにいたっています。なんでかっていいますと、イマジネーション(想像力)は確かに得意不得意あるし、なんだか不具合は起きていたり特殊だなっと思うのですね。ただ、コミュニケーションと社会性については、本人の問題というよりも外側の問題のほうが大きいような気がするのです。それよりも、身体感覚の違いや入出力の違いとか、より身体的な不具合があることのほうが、自閉圏の人たちにとってはやっかいで深刻だったりするんじゃないかと私は思っています。

 

あっまた話がずれてて長くなってる…まっいっか。

とりあえず、今回はここまで。

③へ続く