ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

けものみち

小学生当時の遠足では

山に登ることが多かった

毎年同じ山に登る時は

行きは学年ごとに並び

道路を歩いて登った。

送別遠足では

全校生徒がごちゃまぜになり

チームになってゲームをしながら

山を登るという事もあった。

楽しかったな…

その山に登る時は

山を切り開かれ車が通れる

アスファルトの道路とは別に

大昔から人ひとりが通れる

けものみち』があった。

遠足から帰る時の

学校までの帰り道は

好きなように帰ってよかったから

男の子女の子関係なく

その道を通り学校まで

皆で駆け足で帰った。

道は人ひとり通れるくらいで

草や木は茫々だし

道は土や石で凸凹だったけど

その道を通れば

短時間であっという間に

山を下りることができた。

とにかくあの頃は

短縮できる道を通って

ズルをするのではなく

楽に山を下りれる

その道を歩いて帰ることが

私には楽しくて仕方なかった。

子どもの頃を振り返ると

あの頃は楽に何かを手に入れることを

躊躇せず試みて

試行錯誤していたような気もする

でも、いつの間にか

そういったことがズルいとか

努力しなければならないとか

みんなと同じでなければならないとか

たくさんの様々な『べき』や

『なければならない』といった

世間一般の常識の御呪いで

どんどん楽しくなくなって

楽しんでやっていたことも

いつの間にか楽しくなくなったり

子どもっぽいと大人ぶったり

頑張った先にあるものが

賞賛されるべきだといった

思い込みの渦に

私は呑み込まれたのだと思う。

私にとって

絵を描くことも

音楽を奏でること

文字や書をたしなむことも

あの『けものみち』を通ることと

同じだった。

そんなに努力もせず

ただ、ちょちょいのチョイと

自分の閃いたものを表現しただけで

それらは自分の思いとは違った

別のカタチで賞賛を得た

それでも、私よりもっと上手い人は

たくさんいるのだということは

テレビや雑誌など

メディアをみればわかることだった。

絵を描くことが面白くて仕方なくて

夜も眠らずに描いていた時は

ただ、上手く描けるようになりたかったし

書を書くときは考えて書くより

頭の中にある線を

ただ紙になぞっていくといった

そんな感覚だった

練習もせずいきなり清書をした

書が特選をとった時

練習しなくても

賞をとる時はとるものなのだと

子どもながらに思ったこともある

生意気だけど…。

ただ、絵や書だけでなく

なんでもいえることだけれど

一度浮かんだものを練りあげたものより

一旦閃いたものを

ただ描いたときのほうが

なんとなく勢いとか

その作品がずっと生きている感覚を

閉じ込められるような気がする

息をひそめて

写真を撮る時に似た

『生』を『静』の中に

閉じ込めるような感覚に似ている

私にとってとても大切だった

そんな感覚を隠すようにして

大人になるにつれ

私の中に閉じ込め封印した。

他者からの賞賛や妬み、そして

私自身に植え付けられた

謙虚や謙遜といった言葉の羽衣と

常識といったシガラミを

ワタシを取り戻し

それらを脱ぎ捨てながら

私を楽しんでいくことに決めた

 

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