ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

梅雨だけれど

雨が降り続いているわけではなく

降る時は短い時間でドドドーッと降ったり

静かに大量の雨が降ったりしており

天気予報とにらめっこしてても

予測があてにならない今日のこの頃

洗濯物の渇きがすこぶる悪いので

扇風機が常に回っております。

 

回る回るよ~時代は回る~♪

 

▼ディスいずさといもの葉っぱですが?
 時折キツネのお顔にみえる
 不思議なオバサンですが何か問題でも…

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朝からすこぶるグズグズしている息子を

学校に送り届けた後

雨に降られながら出社している途中

信号待ちで舞っていたら

花屋さんの店先に「ほうずき」が並んでいて

「ほうずき」って下側からオレンジ色に

色が変わっていんだぁーと思いながら

雨が降ってて少し薄暗いからか

引き寄せられるように見入ってしまうくらい

鮮やかなオレンジ色の「ほうずき」は

鑑賞用と食用があるらしいのですが

まだ私は食べてみたことがないんですよね

どんな味なのだろう…。

 

生活保護になったことで

一人でドライブができなくなったので

どこそこの景色を眺めることができず

少々ストレスが溜まっています。

今の私だからこそどこそこの景色を見て

感じることができると思うし

言葉にならないだろうことも

言語化できるかもしれず…。

ちょっとジレンマな日々です。

なので、半年前からは

もっと身近な風景の中にある

綺麗だなぁと思える景色を探さすことなく

偶然みつけることを

今は楽しみにしています。

以前にくらべてみつかる頻度は下がりましたが

全くないわけでもなく

案外みつかるものです。

それだけ近くの物をみてなかった自分に

気がつくことになったので

それはそれでよかったのかも…なんて

そんなことを思います。

 

きょうはこのへんで

 

 

 

 

今日の空

怒涛のように雨が降ったのが

嘘のようです。

数年前から七月上旬は

雨に降られることが多くて

七夕の夜空を楽しめず

災害のニュースを

目にすることが多かったなと

そんなことを思います。

本日は七夕。ドリカムの日!!!

こちらは今日晴れています。

天の川みられるといいなぁ。

 

 

▼ドジってコーヒーこぼしちゃったけどなんかハートっぽかったからパチリ

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昨日、仕事をしてる中で

身体が思うように動かせない

認知症の人たちをみたことから

即身仏』のことを思い出しました。

即身仏』に関して

私は詳しいことはわからないので

説明は割愛させていただきますが

なんていうか、認知症の方って

即身仏』みたいだなぁって

そんなことを思いました。

もしかしたら、失礼極まりないことを

申し上げてるのかもしれませんが…。

 

私が高校生の頃

遠い親戚にあたる叔父が

風邪のウィルスが原因で意識不明になり

数か月ほど生死を

さまよっていたことがありました。

私も一度お見舞いに行きました。

でもその頃の私はとっても怖がりで

病室にはいるのに少し躊躇しながら

なんとか入れたことが思い出されます。

ああ、そういえば…

今息子がお世話になっている病院だったなぁ…

 

その叔父は子どもが好きだったので

身内や親戚は子ども連れで

お見舞いに行ってたのです。

その中の、1人のお子さんが

病室にはいることができないままで

帰り際に

「おっちゃん!!!」

と叫んだことがきっかけとなって

その後、しばらくして意識が回復し

命をとりとめたことがありました。

それでも、高次脳機能障害となって

元々が切れやすく難しい人だったこともあり

家族にとっては、心配でもあっただろうし

大変だったろうと思います。

それでも10年以上は生きました。

〝奇跡〟ってやつが起きたのです

 

仕事柄、認知症の方にお会いすることが多く

中には、ただ目を閉じ息をして

眠っているだけのような人もいらっしゃいますし

身体も十分に動かすことができず

おしゃべりもままならない方もいらっしゃいます。

叔父のことがあるので

骨になるまではその人は生きているのだから

たとえ返答がなくても

挨拶をしたり声をかけたりすることは

できるだけしようと心がけています。

どんな身体になろうとも

その人には感情もあるだろう

そう思うのです。

それは、言葉をたくさん知ってても

普段の生活の中でそれをうまく使えない

息子をみていて気づかされることです。

認知が落ちている又は認知の力が弱い

それでも、その人の裡から

溢れているだろうことを

『ない』ものにしていいのか。

というか、ないがしろにしていたなって

日々感じています。

障害の有無に限らず、

自身一人では生活していくことが難しい人は

誰かがかわりに

その人の願いを叶えるほかありません。

その〝願い〟は大なり小なり

日々の生活の中で溢れこぼれ落ちているけれど

みんな、そういったことを

後回しにしてるなって思うのです。

小さくてどうでもいいことだから

次の日でもいい。後少し我慢。

でも、私は思うのです。

タイミングって相対的じゃなく

今この瞬間にその人にとって

願いが叶うことが本当の最高レベルなんだと。

それを素直に表せるのが

子ども時代なんじゃないかなって。

そんなことを考えさせられています。

 

〝待つ〟ということや

〝すべてはタイミング〟という定義が

いつの頃からはき違えられてしまったなぁと思うのです

何かのゴールに向けて〝待つ〟という作業は

待たなければならないことに

理由が必要な場合もあります。

自分1人の願いを他者と分かち合う時

その当事者よりどうしても周囲の人の

〝最高〟とか〝感動〟を盛りがちです。

私はもういい大人だからそれらは理解できます。

でも、息子のようなタイプの人には

相対的なタイミングや理由を教えることは

正直無理があります。

だから、幼い頃から周囲の人に

協力をしてもらう必要がある。

だから、療育や教育の中で互いに

その人を支える隙間がないように

あるいは隙間がすくなるように

その子の特性を理解してもらうことが

大切なことだと思うのです。

ある一面、ある一場面だけで

その人の状態象を決めつけた支え方だから

うまくいくはずのことも

うまく循環していないだけかもしれません。

私は思うのです。

継ぎ目のない支援って

隙間を埋めるというより

つぎはぎでもいいから、

重なる部分があることなんじゃないかと

そういったことが

その人を360℃の視点から

みれることにもなるのではないかと思うのです。

一人の人間では完璧にできないから

他の人たちと知恵をだしあって

その場を切り抜けるしかない時もあります。

でも、そこにコントロールは必要ない。

その場を盛る必要もない。

だって、私たちはドラマや映画の中の

役者ではないからです。

自分という人間を生きている。

ただそれだけなのに

なぜ、そこに誰かの理想や思惑を

盛る必要があるのでしょうか?

そんな憤りを息子と一緒に感じながら

日々を暮しています。

 

あー、なんか『即身仏』からずれてる。。。

すみません。

 

何がいいたいかって

魂という概念がこの世には存在しているなら

身体から離れた場所で

その人の魂は彷徨っていることになりますよね。

でもですね、科学的な根拠はないっていわれています。

あっ。亡くなった後には

体重が3g減ってるらしく

その3gが魂の重さだっていう

話しをどこかで目にしましたが

それを科学的な根拠みたいになってますけど

体液漏れたりするから

魂の重さじゃないかもよって

思ってしまう私。。。

そんなことと同時に

魂は存在していてなくならない

引き継がれるってことも

なんていうか素敵な窘め方だなぁと思うのですが

私は結構現実的なタイプなので

魂が生き続けるっていうことは

その人記憶の欠片が

他者の中で生き続けることや

語り継がれていくことが『魂』という言葉に

集約されているんじゃないかって

そんなことを考えると

私という個体を丸ごと覚えていてもらうことより

その一瞬のワンシーンが記憶に残ってるほうが

私は嬉しいなぁって思ったのです。

 

ワタシの魂が生き続けるって

ワタシという記憶の欠片が

誰かの中で生き続けたり

語りづがれていくこと。

 

仕事中の10分程度で

そんなことを私は考えています。

 

きょうはこのへんで

今日の空

遅い梅雨入りからの

災害が起きそうなレベルの雨です。

一応現在の地域の避難レベルは3です。

とりあえず、何らかのために

避難時に必要そうなものを最低限そろえて

いつでも持ち出せるように用意し

ハザードマップで避難場所や

危険な場所を確認しました。

どうか大きな災害が起きないことを

祈るばかりです。

※我が家は一応無事です。念のために水とオムツは前もって購入したとです!

 

▼食べて貢献!山形産サクランボ。

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今日は新月皆既日食な日ですし

七夕前なので久しぶりに

願い事でも考えようと思っています。

災害が身近に迫る度に

熊本地震以後は

それ以外の災害のことも

思い出すことが多くなりました。

他人事のように考えていられる

そんな余裕は私にはないです。

正直言って自分1人の身ではなく

今現在は息子も一緒に住んでいるので。

うちの息子は身体に障害がありませんが

知的障害があることで

避難するといっても

安易に非難できる状況でもなく

命の危険が迫っている時は

最悪非難することになるって思って

避難所をいくつか確認しました。

私1人なら避難所でもいいのですが

たくさんの人の中で非難することって

我が家の場合には

そんなに簡単なことでもないのです。

水害や土砂災害のような時は

車中泊ということも難しくなりましね。。。

こればかりは、経験がないので

どうすればいいのかは考えさせられます。

 

きょうはこのへんで

今日の空

今日は7月1日。

2019年も半分が終わってしまいました。

やっと梅雨にはいったと思ったら

お天気に恵まれ

お天気に恵まれたと思ったら

怒涛のように降り続いた雨・雨・雨。

河川が氾濫したり

床下浸水となった地域もあったようで

それでも、まだ我が地域は

入梅雨したばかり。。。

どうか大きな災害となりませんように…

 

▼写真は神社参拝の時みつけた銀杏の葉

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ブログを毎日は更新していませんが

いろいろと言葉は降ってきているので

とりあえず、メモってはいます。

この間、カラオケの帰りの帰宅中

坂道を歩いていたら

なんていうか画像の一コマが降ってきたので

それをネタに妄想が膨らみ

それを言語化しようとして

診察の待ち時間に綴りはじめて

それから出来上がった詩のような

エッセイのようなものができたので

期間限定でこちらで紹介しようと思います。

今週の6日には下記の部分は削除します。

それでは、きょうはこのへんで…

 

______________________

 

※『過去と未来を繋ぎ紡ぐ現代の人たちへ』は

本日を持ちまして削除しました。

 

今日の空

今日も雨に降られることもなく

よいお天気でした。

空梅雨すぎますので

そろそろ梅雨突入しますように…

 

▼紫陽花をお皿に盛ってみますた

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空気が読めたりすれば

〝暗黙の了解〟なことも

素直に受け取れるようになるんじゃないか…

なんてそんなことを思ってたけれど

本来の自分をとり戻したことが

実は私はそういうことが

受け入れがたいタイプの人間で

自分が真面目なのだということに

気がついたのが最近だったりします。

遅刻とかもしていたし

授業もさぼったりしていたし

宿題も提出できない時もあったし…

ただ、ボスきゃらな同級生の子に

私は真面目だから

カラオケと縁遠い人だと思われて

内心驚愕したことがあって

そのことがずっとひっかかっていたことを

今眺めることになってるのですが

そうなんですよね。

で、私にとって

そのボスキャラな同級生の子に

意地悪をされていたと

当時は思っていて

なんで、目の敵のように

思われているんだろう…って思ったのですが

最近気がついたのは

良い子の私のことが

ただ気にいらなくて目ざわりだったのかもって

そんなことを思ったら

超絶過去のことがどうでも良くなりました 笑

もしかしたらその子は

性善説を否定していた人だったのかもって

思ったんですよね。。。

だとすると、あの当時の私は

彼女にとって

ざわつかせるだけだったろうなぁと

そう思ったのです。

彼女のお母さんが私のことを

〝素直ないい子〟くらいに

感じていらしたようでしたし…。

だから尚更、彼女にとって私は

〝悪魔〟にみえたんだろうなぁと

そんなことを思います。

でも、自分はいい子ちゃんに徹してましたけれど

自分ではそんな自分が嫌だったし

彼女に真面目って思われるほど

真面目ではないと思っていました。

でも、今更ですが

生保になったことで気づかされたのです。

私は真面目だからこそ

暗黙の了解で目をつぶって

もらえることだろうことも

規則ならば守りたい。

なぜなら、そういうことが自己矛盾となって

罪悪感を感じていたことに

気がついたからです。

むしろ、そういうことを

臨機応変に罪悪感なくうけいれられる

そんな私になれるといいなと思って

それが一般的な普通という枠なのだと

努力してたのですが

自分はそれができない性分だった。

ただそれだけなのです。

で、自分ができたとしても

それを他者に求めようとも思わないから

ムシロ、私にもそうなればいいと思っても

私が断固として拒否してることに対して

バカだなーとか思ったり

それが〝生きづらさ〟だと思われてるだろうけれど

それは違います。

むしろ、罪悪感をかんじちゃうほうが

私にとっては〝生きづらさ〟や

〝苦しみの種〟になるのです。

それは私にとって自己矛盾ほかならないし

自分に嘘をつくことにもなります。

というよりも、何かが起きた時

最終的に規則を守っていれば

それがリスクマネージメントになり

後後、結果オーライだったことを

気がつくことが多い人生だったからです。

そして、誤魔化してきたからこそ

今現在この地点だとも

捉えているからでもあります。

こんな私だもの、

そりゃあ、嫌われるはずですわ。

わはは(V)o¥o(V)

 

きょうはこのへんで

 

 

今日の空

本日は夏至ですね。

一年で一番日が長い日です。

体調が自分ではよくわかりませんが

あんまり良くないみたいなので

今日はしばらくキャンドルを灯して

ぼーっとしながらお酒をたしなんで

横になろうと思います。

 

モスラみたいな毛虫。きゃわゆい♡

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砂浜や芝生にねっころがって

空をゆっくり眺めたり

ハンモックでゆらゆらゆられたり

小川に足をつけて涼んだり

森の中を散歩したり…

去年までしていた養生生活が

今年になって全くできません。

唯一カラオケぐらいです。

シクシク(泣)

それでも、自分が過去にしてきた

罰みたいなものだと思って

今の自分でできる範囲で

楽しみをみいだす日々です。

そんな毎日に障害がある息子を

つきあわせることになっており

本当に申し訳ないなって思います。

普通のお子さんでも

難しいだろうことを

自閉症も知的障害も重度域の子どもが

なんとかできているのですから。

※そんなことはどーでもよかった。

 

どーでもいいことなんですけど、

30代まではコーヒーは飲めなかったし

お蕎麦より断然うどん派だったし

お刺身にワサビをつけるなんて邪道!

キムチやらっきょ漬けは

臭いから一緒のテーブルに置かないで…

と親にものもうしていました。

豚骨ラーメンも好きじゃなかったんですよね。

でも、今現在は全部クリアしました。

うどんはアレルギー体質なこともあって

ゆるっと食養生をはじめてから

ゆるっと小麦粉断ちをしたことで

麺類たべたくなったら

お蕎麦を食べるようになったり

美味しいお蕎麦やさんをみつけてから

逆に好きになりました。

コーヒーは飲まなくてもよかったのに

今は毎日でも飲みたいくらいになりました。

だからといって感覚過敏が

治ったわけではないのですけれど…。

コーヒーが飲めなかった時は

一生飲まなくてもいいくらいに

思っていたのですが

昨今はなくてはならないものに

なってしまいました。

こんなことってあるんですねぇ。。

 

きょうはこのへんで

今日の空

我が県は、まだ梅雨に入っておらず

梅雨をぶっとばして

夏がきちゃったような

熱熱な一日でございました。

ただエアコンつけっぱなだと

結構身体冷えますねぇ。。

 

▼紫陽花とナナフシ

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私はせっかちな体質なので

〝待て〟っていわれても

その理由が理不尽でイミフなら

腑に落ちるまで

心が暴れるちゃんになります。

なので、そんな自分を窘めるために

以前の私は、

親や気のおける友だちに

質問をして聞きまくっていました。

で、そんな自分も嫌だったんですね。

いい大人なのに、誰かにたよってばっかで。

いい加減自己解決できるようになりたくて

TCカラーとかも習ったんです。

コミュ力アップしたくて。。。

 

もう、頑張りたくないので

いかに頑張らずに人を頼って

自分ができることは

それなりにきちんとやるってことに

努めてはいるのですが

なんかドンドンスキルアップしてる

 

〝こんなスキルいつか使うこと

 あるかしらねぇえええ〟

 

なんて思うようなこともありますが

いつか使うから体験しておると思われる

人生を歩んできたので

めんどくさくてもそれなりに

対処しておる所存です。

 

そうそう。生保になって

1つわかったことがあり

ホッともしたけれど

別の意味でプンスカネタが生まれ

自分の価値観と他者の価値観の違いは

最近にとどまらず

昔から違っていたんだと

再確認させてもらいました。

そんな私はいつも少数派なんですよね

でも、だからって

私が正しいとは限りません。

そして、少数の答えが

間違っているワケでもない。

時代やその時々の変化にあわせ

臨機応変に対応できるほうが

望ましい時もあります。

ただ、他者の意見と同じということで

〝安心・安全〟を得たいと思っている場合

多数派であることが

生き延びる戦略だということの

証でもあるように思う今日この頃です

 

きょうはこのへんで