ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

本日は雨。

1週間前から黄砂が酷かったので

洗い流してくれることでしょう。

福岡へ引っ越してから、

いろんなことが起きすぎて

それでも、なんとか処理してきたこともあり

やさぐれているからか、

今日の雨は〝優しい春雨〟に感じます。

 

▼写真は勝馬海岸。まるでシン・エヴァの渚のようだったのでパチリ。

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さて、本当は、春分の日(宇宙元年)あたりにブログの再開をしようと思っていたものの、新年度明けの本日になってしまいました。言語活動再開とハッキリはいえませんがポツポツとでもアウトプットしようと思います。
それに伴い、現在使用している

・FB

・インスタ

Twitter

はてなブログ

・note

の使い方を見直そうとも思っています。

 

後、〝note〟で自叙伝を綴っていたのですが、現在、途中でとまっており、本当は宇宙元年明けにでも再開しようと思っていたのですが、想定内の状況に見舞われたことで、今現在、体調不良になってしまっている状況となっていることと、それにあわせて、思春期時代のやり直しを書き換えている状況2巡目あたりのようなので、それがある程度落ち着いてから今現時点で止まっている自分史の続きを綴っていこうと思います。

 

その前に、私にはしなきゃいけないことに気がついたからでもあります。本当にやらなきゃいけないことは、まず、自分自身の身体症状の安定と息子の生活と私自身の生活の安定をさせることが一番大切なことだからです。アウトプットをするとき、ただ出すだけではなく、他者に理解してもらえるようなアウトプットのほうが効率が良いのだということが身にしみた数か月を過ごしたからです。

 

もし、noteの自分史の続きを待っていてくださってる方がいらっしゃるならもうしばらくお待ちください。必ず再開します。

 

さて、少し、近況を…

 

想定内のことが立続けに起こったこともあり、想定内の不調からの想定内の〝てんかん発作〟にとどまらず解離が起きました。わはは。

 

寛解(かんかい)の状態になっていたのですが、いろんな事情が重なると発現するみたいです。

それでも、最悪の事態が起きたことで、私の中で今まで起きていた〝解離〟といわれる状況が〝フラッシュバック〟と〝解離〟との2つの身体症状があることに気がつけたので、主治医に報告せねばと思います。

 

ただ、今回は老いもあるのか、心身ともに相当なストレスを抱えていたからか〝解離〟した後、いつもなら、自分に起きている状況は大抵覚えているのですが、部分的にしか覚えてない時もあったり、早朝にみている〝夢の中〟が幸せすぎて

 

『このまま目を覚ましたくない…』

 

と夢の中で思っていると同時に、もう一人の自分が、

 

『イヤイヤこれは不味いパターンでしょ…』

★パターン青って奴でしょ ←ちょっと盛ってマスすみません…

 

って思った瞬間、目が覚めたことがあって、そして、それでもまだ、眠たかったので、2度寝したら、夢の続きを見る事態となったので、多分あんまり状態は良くないと思われます。そんな状態になったので、自分自身でもちょっと危ないなぁと思っていた矢先に、久しぶりに大きな〝てんかんの発作〟からの〝解離〟が起きてしまいました。

それでも、私は解離している状態を主治医や親や歴代のパートナーでも元旦那と元相方しかみせたことがなかったのですが、今回、見ず知らずの医療従事者以外の方たちに人格が変化していく姿をみられる始末…トホホ。それでも、まぁ、正体を曝してよかった…のかもなんて思う次第です。

 

〝羞恥心の薄さ〟が自分自身のプライドを深く傷つけることなく、自身の身を助けることに変換できることに気がつけたので〝収穫〟でもあったように思います。

シンプルにいいますと

〝物は考えよう〟

ってことに気がつけたことで、生きている世界線…というか次元が変わった。そんな気持ちの今日この頃です。

 

それと、自分自身が無知だったことで起きた体験が思いがけなく自身の深い傷になっていたことに気がついてはいたものの、でも、それは、自分が選んだことだから…と自分を責めるほかなかったのですが、結構深い傷になってたんだなぁと思って、その深い傷になっていた体験を誰かに話すという場合には、私の場合には、誰でも言い訳でもなくて、とりあえず、知っていて欲しい人だけに聞いてもらっておけばよかっただけだけれど、言わなければいけない事態にみまわれてしまったんですね。

 ただ、深い傷になった体験を話さなければ、〝支援〟をしてもらえないということがどういうことなのかを、現在私の身近にいる人たちの〝空気の読めなさ〟とか〝察する〟ということができてないのだなぁということを知ることになったのですが、なぜ、話してくれないのか、なぜ、私が全てのことを洗いざらい話さないのかには、理由があるのですが、なんでかって、支援してくれる人が受け入れられないじゃなくて、受け止められないことを肌身で感じているから。ただ、それだけなんです。

 だからって、支えてくれる人が悪いとか劣っているとかいう意味ではなく、ただ、人は自分がした体験以上のことを受け止められる人と受け止められない人がいるからです。

そして、私自身も自分の好奇心や濁された言葉や行動の意味がわからないことで、他者を質問攻めにしたり、追い詰めたりしていたこともあったのだろうことに気がつき、恥ずかしい気持ちになりました。

そして、人を支えるということは、一筋縄ではいきません。空気を読みすぎないことや察せても、そこに触れないということがその人の命の灯を守ることになることもあるんです。そこに気がつけない以上、心理面の癒しは起きないんじゃないかなぁと思う今日この頃です。

 

そして…エゴは現実を越えられない

 

きょうはこのへんで