ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

もうどうしようもないくらいの暑さ
こんな暑い日が続くと
ビールが美味しいですね。
でも、もう飲んだら
身体が痒くなってしまう始末…トホホ

束の間の夏休みが終わった方
そして、これから夏休みの方
夏休み返上で働いている方
エブリデイお休みの皆様
残暑お見舞い申し上げます。

 

▼新米にとれとれの小鯵を漬けにして漬け丼にしたらウマウマ

f:id:sorahitoumi:20200817125352j:image

 


 一昨日(8月15日)は終戦記念日でしたね。戦後75年。まだ経った75年しか経っていないのに、目ざましく経済成長し、いつの間にか先進国といわれていた日本が、気がついたらなんだかな日本になってしまっていた。

 そんな危機感を感じ始めたのは数年前からでしたが、自分自身のことを振り返っている時に、ああそうか、あのバブルがはじけた時、本当は気がついて軌道修正していたら、少しは違う日本になっていたかもしれないなんて思ったこともありましたが、もう過ぎてしまった時間を取り戻すことはできませんので、自分の生活の中でささやかながらもできることをやってみるほかないなと思う今日この頃です。

 8月10日の「今日の空」の記事は7月中に私が取り組んでいたことを掲載していますが、その中でNOTEに掲載している「私の死生観」という記事をこの記事より先に読んでいただいた後で、この後の記事を読んでもらうと、よりわかっていただけるかなぁと思いますので、まだあの記事を読んでない方は読んでみてください。(ああ、順番はどっちでもいいとは思うのですけれど…。)

さて、ここからが本題です ↓↓↓↓↓↓↓

 私は、ある時期に〝こんな世界なら生きる意味がない〟と思い『そんな思いを抱えたまま、これからどうやり過ごしていけばいいのだろう…。』と思いながら日々を過ごしてきました。

 自分の場合には、他者に勝手に期待をして裏切られたり、信じていた人に裏切られたり、幾度となく〝喪失感〟を味わう事態に見舞われる中、自分なりに試行錯誤したものの、実際には生活が苦しくなる事態にも追い込まれました。現在、唯一の友だちといえる人から「普通なら自死するくらいのことを乗り越えているよ」と褒めてもらったこともあります(苦笑)

 2016年の熊本地震後、2009年あたりからなんとなく感じていたことを改めて思い知ることとなり、自分の中だけではありますが〝確信〟にいたったことで、自ら孤立しました。そうすることが自分だけでなく、周囲の人たちと無駄な戦いをせずにすむし、私にとって意味のある戦いをすることを覚悟した日にもなったように思います。

 最初は周りの人たちを傷つけないように、巻き込まないようにする戦略だったはずでしたが、一番の敵が実は一番身近な人たちだったことに気がついたんですね。もーその時は〝恐ろしさ〟とか〝悔しさ〟とか〝怒り〟が入り混じり、腹がたってしょうがありませんでした。『これまで自分に関わっていた全員の人生を滅茶苦茶にしてしまいたい…』と思うくらいの憎しみが沸きましたが、そんな憎しみを相手に向けたとしても、ただの自滅と同じです。 だからこそ、その〝恨み〟を昇華させるには、泣くしか術がありませんでした。息子と一緒に住んでいたので、押し殺して泣くのが大変だったくらいです。

 〝私〟という人間は、人を恨む気持ちは芽生えても、その時々の自分に腑に落ちる言葉がみつかれば、自然に昇華されます。 そのかわり、その人たちは私の中で生きているけれど死んでいるのと同じ状態になります。なので、実際リアルに〝やりとり〟している人たちだけが、私にとっては生きている人類な程度にしか思えなくなりました(笑)

 あっでも、ちゃんと生きている人たちだと認識していますよ。それと、幽霊さんたちと視え方は違うので安心してください! 幻覚や幻聴は頻繁にはありませんが、それらがあっても、私にとってそれは日常ですし、それらに囚われることなく生活できておりますので。(キリっ)っていうか、当者比になりますが、人類よりも助けてもらってる存在な気がすることもあるくらいです。

 これまでは、悪意があろうがなかろうが腹がたった相手に対して、仕返ししないことが私の中では美徳だと思っていました。でも、それじゃあ私がこれまでやってきたことがすべて水の泡になってしまう。それと、私の想像している陰謀論みたいなことが、もし、本当ならば、絶対死んではならない。

 何故なら、私のような思いに飲み込まれて自死することを選んだ人たちがいたかもしれないからと気がついたからです。なので

「死んでたまるかー!」

といった思いが溢れたことでどんなことがあっても、自死しようという思いにかられることは完全に消え去りました。

 ですので、私が早死するときは、病気や事故にみせかけ他殺されるか、本当に病死するか、寿命か。になります。断言しときます。なので、このブログがもしかしたら、遺書のようなものになるかもしれませんのでいっそのこと本心を綴ることにしました。あと、この後、復讐のネタ晴らしもします。うふっ( *´艸`)

 私の最終的な復讐は『お葬式はしない。お墓にも入らない。戒名もいらない。塔婆もいらないです。』 ただ、息子にとっては必要かもしれないので、私の写真と位牌だけをどこかのお寺に置いておいてもらえたらいいなと思っています。

 なぜなら大抵の人たちが、懺悔しにお葬式にきて、自身の罪悪感をお経に盛って妖怪可哀想化しているかもしれないんだなぁと気がついてしまったからです。もちろん、きちんとした意味で弔っていらしゃる方も存在するかもしれませんが、大半が自己満足な洗礼を受けにお葬式にくるのだろうなぁ。と思ったんですよね。だからこそ、私が死ぬことを喜ぶことはあっても、私が死ぬことでその人へ過去に行ってきたアレコレを懺悔し、自身の中にある罪悪感を満たすためにお葬式にくるなら来てくれなくていいって思ってるんですよね。で、そういう人たちのためには、お葬式をしないお参りをしてもらわないことが、そういう人たちへの復讐になるんじゃないかって思いついちゃったんですよねぇ。えへへ。あっ。でも死んでくれたほうがホッとする人はいるでしょうけども。ただ、そういう風に思う人はサイコパス確定だと思う(笑)

 正直言って、私はずっとずっと昔から腹がたっていました。何かが起きたことでしか自分の大切な人のことを大切に思えないんですよね。その人が死んでからとか、その人が死にかけたり、余命宣告されたり…。そのような状況になって、初めて、過去に自分がした罪悪感をなんとかしたくて、お見舞いにいったり、お葬式で花を手向けるなんて…そんな人のほうが多いんじゃないでしょうか? 私は心当たりがあります。だから、そういうのって、ただの自己満にしか私には感じないんですね。

 人が病気になったり、被災したことで、その人の存在を思い出すことは誰しもあることかもしれません。が、だったら何故、その人に連絡することを先延ばしにしているんでしょうか? 謝罪することだって、ケンカだって、互いに元気な時じゃないと意味はありません。相手との会話の中でしか、本来解消されないことを満たすには、一旦噛み合ってなかった物事を噛み合わせることを行わなければ、解決できないからです。だから、嘘は嘘を積み重ねることになるでしょう?

 それと、亡くなったことでしか思い出されない存在って〝あなたにとって本当の意味で大切な人だったの?〟と問うことってないんでしょうか? 

もしそういったことを感じることなく、お葬式にでることで、故人との様々な物事への罪悪感を満たすために葬儀を利用している又はしてきた人がいるとするなら、私は自分のお葬式はしてもらわなくていいなって思ったんですね。現時点でご縁を大切にできていないようなものですし。お金もかかるし。ただ、お坊さんには悪いので、お経だけ挙げてもらいお布施はしてもらえたらいいなと思っています。

 それに、実は、死ぬときに〝髪の毛一本〟〝骨一本〟残すことなくこの世を去りたい。それくらい人間に生まれたことが嫌になったんですよね。ここ数年の出来事で。後、この世に私という人間が存在していたといった証がなくてもいいし、記録も残らなくていいなって思ったのですね。ただ、こうしてブログを残しているのは、たった一人の息子のために残しているだけです。そして、私のことを死ぬ日まで生涯覚えていてくれる存在は息子がいることにも気がついたので、息子以外の人の記憶に残らなくても私にとって忘れられてしまうことは問題でもないんですよね。人の記憶から消えることが、その人にとっての本当の意味での死とか言われますけど、私にとって、そんなことたいした問題じゃないんですよ。だって、あの世って経験したことないですもん。それに、輪廻転生が本当にあるとするなら、また生まれ変わった時、今現在の私のことなんて覚えていないわけですから。

 自分にとって大切な存在なのかどうかも自身でさえわかってないのに、なんらかの出来事が〝きっかけ〟で、自己都合だけでしか連絡をとらないようなそんな人って、なんなん?って思うわけです。人とのご縁を大切にしているなら、日々の他愛ないことも大切にし、もしそのご縁が切れそうになるなら、それなりの対応をすると思うんですね。私は、それを一方的に切りました。で、正直言ってああ、あんなご縁だったなら、全員切れてよかったなぁ。だって、私のこと大切にしてくれてなかったし、私も大切にできていなかったもん。そんな風に思ったんですね。

 それと、今回のコロナ禍で、思春期時代にウィルスのことを理科の授業かなんかで知った時、に感じた「人は地球にとってウィルスみたいなもの」と思ったことがあって、そんな思いが決定打になったように思いましたし、未知のウィルスを排除することだけに囚われ共存できない人類こそ未知のウィルスじゃんよねぇ。って思ったんですね。

 ただ、悪いことだけでもありませんでした。そのかわり、思春期の頃から一番嫌だった自分の悪癖が一般的なくらいに落ち着きました。それに、息子とのやり直しの日々は宝物になっています。私にも「人を愛する気持ちはある」んだと思うことになりました。ただ、やっぱり、人類に生まれたことがすごく嫌でたまらなかった思いは強くなりましたね。だからそんな自分を律しないと…その律しかたを今現在模索しています。


 後、前述で、髪の毛一本残したくない気持ち…と綴っておりますが、3年くらい前から久しぶりに髪を伸ばしていて切ろうかどうか迷っていた時、ヘアードネーションのことを知りました。実は、私の従妹で若く亡くなった子がいて、その子は小学生の頃から小児癌で入退院を繰り返していました。

 抗がん剤治療もおこなったり、最終的にドナーがみつかり移植もできたのですが、息子が生れる2か月前のクリスマスに亡くなったんです。 従妹だけど、離れた場所に住んでいたので、彼女や家族がどれだけ病気と向き合い治療してきたのかは、よく知りませんでしたし、母も詳しいことは教えてくれませんでした。

 私も深く聞くことはしていませんでした。うちの親はいろんな話を聞いていたかもしれないけれど、治療の大変さとか彼女がどんなことを考え毎日を生きていたのかは知りません。もし、近くに住んでいたとするなら、頻繁にあったりして、小児癌で苦しんでいる子どもたちのことへ思いを馳せれたかもしれませんし、当時は、まだ臍帯血移植はできるようになったか、認可されたかされる前くらいだったので、もっと早く臍帯血移植のことを調べていたらよかったなぁ…と、とても後悔したことがありました。

 

▼切った証拠写真(60グラム)

f:id:sorahitoumi:20200817141719j:image

f:id:sorahitoumi:20200817141849j:image

 

 なんで私っていつも後で気がつくんだろうって思って。そんな後悔してたことを思い出したこともあって、ヘアードネーションのことを知り寄付することにしました。髪の毛一本残したくないという気持ちは矛盾しているけれど、これくらいの矛盾はいいやって思い、約3年かけて伸ばした髪を今年のお誕生日の7月に切り、ある団体へ送りました。使っていただけていると嬉しいです。

 もう年齢も中年だし、白髪も多いので、最初で最後のつもりで寄付しました。なんで、もっと早く知ろうとしなかったんだろうと思い、興味関心が狭い自分自身をこうしたことからも思い知らされるワケですが、生活保護の身の私でもできることがあったことは、ささやかな喜びにもなりました。これもエゴになるかもしれないけれど、本当に必要な人の下で私の髪が活かされているといいなと思います。

 

ああ、そして、私のことを嫌いな人や恨んでいる人たち

 

生まれてすみません"(-""-)"

 

ということで、上記の理由があることで、私はお葬式を望んでおりません。お葬式しないでね頼むよ弟よ!大丈夫!祟ることはなかけん!

 

きょうはこのへんで