ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

死にたくて死にたくて震えていた時のこと

 えっと、タイトルがなんだかアレですが…(苦笑)今絶望で真剣に悩んでいらっしゃる方からすれば、心ないタイトルだと思います。すみません。でも、私もそういった絶望期は何度もあって何度も踏ん張ってきたし〝希死念慮〟の沸点越えも体験しました。『死にたい』という言葉で頭がいっぱいだった頃よりも、自分自身でも一番危険だと感じたのは〝生きる意味〟を感じなくなった時でした。

 で、ここ数年の猫パンチ療法(わかる人にはわかる遠回りな認知行動腰抜療法)で最終的に希死念慮がぶっとんだので、現在この世に存在しておる所存です。オス。

 希死念慮に関する記事は過去記事にいくつかありますので、ご興味のある方は記事検索で検索して読んでみてください。興味なき方はチャンネルはこのままでどーぞ。

 さて〝死にたくて死にたくて震えていた時〟の頃より、自分自身でも一番身の危険を感じたのは『生きる意味』を感じなくなった時でしたが、えっと私の場合には、他の人たちとは価値観が違いすぎるので、なんでそう思っていたのかは割愛させていただきます。なんでかというと、その人の深層心理にない心の状態を醸すことが〝害〟になることもあるからです。すみません。

 なぜ、今回この記事を残そうと思ったのかというと、自分にとって大切な人に自死というカタチで先立たれた人たちの思いを知ったからです。自分の場合には、死ねなかったということになるので、先立たれた方たちと死ねなかった自分との違いってなんだったのだろうと思ったことが頭をよぎったからです。

 で、先に申しておきたいのは、自死することはやっぱりやめたほうがいいと思っている派です。残された人たちにとってのことまで考えると。ただですね、あの状態に陥った時には差し伸べられてただろう手とか声は届いてはいたけど、ただ天国への階段のステップを短くしたにすぎないようにしか感じませんでした。だから、ただただその苦しさから逃れたいっていう気持ちは仕方がないし、ムシロ私は自死を貫いた人たちのことは敬意を表したいです。私にはそんな勇気も覚悟もできなかったし、生き残った自分が偉いとか凄いとかも思えなかったです。それも罪悪感の養分にしていた時期もありました。死ねなかった自分を責めるほかありませんでした。とにかくどんなことも自分責めしていたんですよね。その時までは。死への階段のステップを1つずつ登ろうかとしている時に、私の脳内で起きていたことは、死ねない理由を自分でつくっていたことに気がついたことからでした。

 

「息子がいる。どうしよう」

「多少なりとも借金がある。どうしよう」

「私が死ぬことで両親が悲しむかもしれない。。」

 

死んでしまったらそれこそ、その苦しみから現世の自分は一時的に逃れられるわけですから、それでもいいと思うのです。ただ、私の場合には、死にたいって思っているわりに、死ねない理由が頭をよぎって掻き乱していました。で、そんな中途半端な自分に苛立ちとジレンマでいっぱいになって、また自分責めするといった問題をすり替えながら負のループの世界へ迷い込んだのです。で、なぜ私がそこから抜け出せたのかというと、さんざんそのことに向き合った矢先、ふと気がついたのです。

『ああ、生きるってことは、生きる意味を感じなくても自分の生を全うしなきゃ、私の願いは叶わない。だって、私もう二度と人間には生まれ変わりたくないから。』

で〝自死したら人には生まれ変われない〟といったことを誰かに教えていただいたのですが、私はそれは違うんじゃないかって思ったからでした。何故なら、輪廻するのは自分自身の魂の課題をクリアするために生まれ変わるんですよね???だとしたら、自死したのだからこそ、また人間に生まれ変わらなきゃオカシな話じゃん。って気がついたのですね。で、そんなことに気がついたことで、私はどんなことになっても、自分の命を全うすることだと思い今日にいたります。

 希死念慮の件は昔受けた発達障害の講座の中でも少し話しがありました。その時の講師の先生がおっしゃられたのは

 

〝死にたいといってるけど死にたいんじゃない。

 死にたいくらい苦しいってことなんだ〟

 

といってらっしゃったので、その当時に希死念慮があった時はその言葉を呪文のように繰り返していました。希死念慮をなくすために。

 そして、ここ最近思うのは、あの時死んでしまってもよかったのかもしれないけれど、生き残れてよかったなぁと思うようになりました。仕事もパートナーも失って友だちとも縁を切って…。誰かに操作されてる感を否めないけれども、その正体はわからないし、その証拠はつかめない。だからこそ苦しかったのですが、これこそ操作してる人の罠だと視えたので、必死で耐えました。どこにも向けられない怒りや悲しみ、苦しみのベクトルを自分にしかむけられない時は本当に殺してもらったほうが楽だという気持ちにもなりました。それは体験した人にしかわからないことです。なので、死んだらダメって安易に呼びかけるのは簡単だと思うにもいたりました。で、私は思うのです。自死で天を目指した人たちは決して周囲の人を苦しめるために死んだわけではないと思うのです。逆に自分が死ぬことで大切な人を守れることもあると思ったのです。

 それでも残された人たちにとっては、苦しみの種を残された思いでいっぱいになってしまうことになってしまうよねとそんな風に思うようになりましたし、死ねなかった自分にもバツをつけていた私だからこそ、死ねなくてもよかったと〇をつけれるようになったことが自分責めから解放されたといっても過言ではありません。

 私の場合には自分で気がついただけに過ぎないのですが、それでも、あの暗闇はその人にしかわかりえないものだということだけは、同じように思います。苦しいから自分でもそうするほかなかった。ただそれだけなんじゃないのかなぁと思ったりしています。