ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

行動障害と向き合う⑥

心身の不快をとりのぞくことが信頼関係を育む

 息子は今も時々怒りにまかせた他害や破壊行動を行ってしまうこともあり、完璧にそれらの行動が治まったとはいえない。日々の生活でのストレス、主に他者との関わりの中で生み出されてしまうのだろう、イライラやもやもやの解消をその時々の状況に応じて解消させるように心がけてはいるが、やはりまだ難しい場面もある。高等部への入学を機に、施設から学校へ通学する生活スタイルから、自宅から学校へ通学する生活スタイルへ大きく生活環境が変わったことが身体の不調となっているからだと思い、週5通所することにしていたデイサービスを週2に変更したり、身体を整えることはそれなりに努めていた。とにかく睡眠の乱れが一番本人の身体へ負担がかかることは、私自身の経験上でもわかっていることだったので、日々の疲れをとり、体内時計が乱れない生活をするために、生活スタイルを変化させたりなどしていろんな工夫をしてきた。身体を整えることで、日中生活は確実に豊かにはなるのだが、第2次成長期でもあるからか、身体の不調だけで不登校気味になっているとは思えないことも感じ、心のケアも大切にしてきた。

 認知度も自閉度も重度といわれる息子だが、私たちが話している言葉を彼なりにおおまかには理解できているという場面を感じることが多く、ちゃんと内面があり、彼なりに様々なことを感じているのだけれど、誤解や勘違いをしていることも多いように感じるので、言葉で理解できそうな時は言葉で、言葉では難しそうな時はホワイトボードなどを活用し、絵や文字で視覚的に伝えたりすることでそれらを解消するように努めている。又、家庭だけではなく学校生活やデイサービス利用時にも、自分の要求がちゃんと伝わってないことからくる、イライラやモヤモヤしていた様子が見られたことから学校やデイサービスへ行きたくないといったことにもなりがちだ。ただ、考えてみると、息子は高校生。私自身も息子と同じ年の頃は、学校へ行く意味がわからなかったし、ただ単に学校をさぼりたいといった気持ちは少なからず誰しもあったように思う。だからこそ、息子の登校拒否や通所拒否は、ただ単に学校へ行くことなどがめんどくさかったり、家にいることのほうが楽だったりすることだけな気もする。もし、息子の中で何か意味を見出せず、楽しくないから通学や通所を拒否しているということもあると思われるので、それは日々状況をみて、学校や通所を休ませるのかどうかは判断するようにしている。

 学校や通所先でなんらかのトラブルがあった場合には、それらを回避するために登校や通所拒否していたことが視受けられたこともあったことから、家庭生活以外でのコミュニケーション又は要求をどのように確立させていくのかは色々やってみた。ただ、学校や通所先での他者とのコミュニケーションに関して、その現場を私は実際にみているわけではなく、先生やスタッフの方からの状況を教えてもらい想定するほかなく、私が一方的にそういった個人的な見解をお願いするのも乱暴だと思い、現場で関わってくださっている職員の方たちに様子をみてもらい状況を教えてもらった上で想定できる話をするほかない。彼が何に対して〝不満や不安〟をもってしまうのか又は〝不満や不安〟を感じてしまうのかを想定し解消させてきたつもりだが、それは私の自己満足で終わっているのかもしれない。ただ、学校の先生や通所先のスタッフの方のお陰もあり、この一年で、母親の私や家族とのやりとりだけではなく、学校やデイ先での要求などのやりとりも大分スムーズになっているように思う。そして、言葉の理解力だけでなく認知も伸びているからか、今までとはまた別の課題もでてしまうこともあるが、それはその時に解消していくほかなく、息子が勘違いをしていそうなことを思いついた時は、学校の先生やデイ先のスタッフの方へ伝えることを心掛けていたことが、今現在少しずつ実を結びはじめているように思う。そういった成長を日々感じることができて本当に嬉しく思う。

 私自身もそうだが、日々の生活で溜まっていく澱のようなものは、人其々違うとは思う。その澱は日々解消できずにたまっていく〝不満や不安〟のように私は思っているが、それらをどのように取り除いてあげるのかもまた人其々違うとも思う。ストレスを解消させるための発散させる方法は、私自身、愛着の不具合をなんとかすべくおこなってきたことで、言語や非言語どちら側のアプローチも必要だということを息子を通しても改めて感じている。私や息子だけではなく、日々の生活で感じてしまう不快指数は、自分自身ではとりのぞけないのが〝心理面〟でもあるように思う。言語体力や語彙力といったものがあるかないかだけではなく、自閉症の特性があるがゆえの勘違いから生み出されてしまう物事を解消させてあげることで、凝り固まった心が溶け、硬直している身体が弛むこともあるように私は思う。言葉だけのアプローチの解消法だってもちろんある。心と身体どちらか側かだけで不快を快に書き換えることもできるが、どっちも必要だし、一番てっとりばやい方法は、他者が変えようとするより、本人がそれに気がつき認知し、意識をし変えていくほうが負担が少なく変わりやすいように私は思う。そして、運動や勉強だけではなく、衣・食・住全てにおいて、感じてしまう不快指数をどのように受け取りどのように解消させるのかを、自分1人では解消できない時もあるからこそ、他者の存在があるのだと思う。そして、その不快を快へ変換することができるということを導く役目が親であったり、支援者又は治療者のお役目なのではないのだろうか? そして、それらの方法はこうでなければならないといった絶対はなく多様であることを互いに理解し、認め合うことができるようになれた時、本人自身でもそれらを楽に解消できる術をもてるようになっていくのではないのだろうか? そう思い、我が家は長い目で息子なりに自己解決できる方法を親子共々探っている状況だったりする。そして、そういった日々の不快を解消することで互いの信頼関係は育まれていくように感じている。

 

行動障害と向き合う⑦へつづく