ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

行動障害と向き合う③

 息子にとって初めてとなった鹿児島では、家族旅行もかねてでもあったので平山動物園と鹿児島いおワールドへ行くことにした。動物園やいおワールドではなんとかパニックになるようなことはなかったし、いおワールドでも、何事もなく過ごせたが魚よりも館内にあったステンドグラスを眺める時間のほうが長かった。ただ、やはり車中ではイライラが始まり、何度か行動障害はあった。それでも、その日の宿泊先では何事もなく過ごすことができたことに内心ほっとした。桜島が一望できる部屋だったので、息子は一番よく見える特等席を陣取り、寝る前までそこで1人遊びをしていた。昼間のあの何かに憑りつかれたような暴れ方が信じられないくらい穏やかに、彼は大好きな紙ちぎりをして遊んでいた。

 次の日朝一番に神田橋先生のいらっしゃる伊敷病院へ行った。それでもすでに数名の名前が並んでおり、診察が始まり1時間以上待った後、息子の番号が呼ばれ神田橋先生独自の診察を受けた。この時、息子には向精神薬があっていないことが行動障害の原因となっていいるのだろうということだった。発達障害の子どもたちの場合には向精神薬は、使わない方が望ましいことを先生はお話してくださった。稀に行動障害が起きたり酷くなってしまう人もいるとのことだった。この時から向精神薬を止め2種類の漢方とサプリメントを服用することとなり、気功も教えていただいた。

 当時学校では食育を大切にされており、なんでも食べることが望ましい教育だった。でも、そのことが私には果たして良い事だとは思えず、偏食に対してのアドバイスもいただくことができた。その時、感覚過敏のある人への偏食指導は拷問だということとその偏食を治したいのであれば、好きな料理を自分で作くらせてみて味付けをさせてみると良いといったアドバイスをしてくださった。他には発達を促す遊びに関してはドミノ倒しなどやらせてみたら?といった提案もしてくださった。私は代替療法などのことも少しはしっていたので、その時、巷ではよく如何わしいといわれてしまっていたOリングのテストを母が試され、そういったものを一切信じない母が驚くこととなった。息子は初めて会う先生の手を小さな手で触っていた。先生の手をつねったりひっかいたりするんじゃないかと私は内心ヒヤヒヤしていたのだが、先生の手に触れたままで他害をすることはなかった。先生のアドバイスに限らず、診察中の息子の様子や母の姿を見て、ああ、無理してでも連れてきてもらってよかったと心の底から嬉しかった。

 それから約1年半にかけて、漢方薬が何度か変わる中で息子の状態はみるみるうちに良くなっていった。同年には息子はなかなか運動が好きではなかったし、身体を動かすことで気持ちいいといった感覚を持ち合わせていなかったタイプだったので、身体を動かすことが好きになっていくような身体アプローチが何かないかと思っていた矢先、栗本啓司氏の身体アプローチを知り、自主企画で講座を行った。その時栗本氏の個人指導を受けたことから、息子との関わり方や観察の仕方が変わっていくきっかけとなった。そして、私自身も心身の状態を整えるべく、身体アプローチだけにとどまらず、自分自身のメンタルと向き合うために民間にはなるがTCカラーセラピーというセラピストの資格をとり、講座を受けたり交流会などに参加することで心理的なケアも行っていた。それらのお陰で少しずつ本来の私をとり戻し成長していくことができた。

 何がどうよかったのかはわからないのだが、今思うと私がちゃんと向き合うことにしたことが良かったのだと思うし、私が息子を所有物その当時は自宅療養しながら社会復帰を目指していた移行期といっても良い時期だった。そんな時期だったことから、息子への身体アプローチを行うことは、どんなに頑張っても月に2度できるかできないかだった。その当時は、息子への関わり方や支援は施設や学校にほとんどをおまかせするほかなかったので、それに甘えさせてもらうことにし、自身の治療に専念させてもらった。そのおかげもあり、私がそれなりに自己成長しただけで、離れ離れの状況の中でも息子は周囲の人たちの支援も成果もあって、行動障害はおさまり息子は落ち着きを取り戻すことができた。その1年半後には、漢方薬も飲まなくてよくなり、それまでは参加できていなかった学校行事も何事もなく参加できるようになり、年を重ねるごとに自分1人でできることも増え、行動障害を起こしていた時が嘘だったかのように成長した。そして、中学卒業までには、苦手だった徒競走や長距離走なども4キロ走れるまでになったのだった。

 

行動障害と向き合う④へつづく