ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

行動障害と向き合う②

 こんな行動障害を持ったまま、息子は大人になってしまうのだろうか? 学校生活でこんな風に人を襲ってしまわないのだろうか? 祈るような毎日だった。学校の先生たちも息子から他害をうけている様子だったので、手をつねったり、噛まれたりしないように手袋をしてもらったり、噛まれた時は鼻をつまんでくださいなどお願いした。施設の方へは暴れそうな時は毛布でぎゅっとくるんで拘束してくださいとお願いをした。それは、帰省時に行動障害が起きた時に私や母で工夫していたことだった。他には、つねったり噛むことで怒りをおさめようとすることを別なことへ置き換えるために等身大の抱き枕を購入し、学校のプレイエリアに置かせてもらったり、施設で他害しそうな時は、何か物にギュッとしがみついたり、これならガジガジと爪立して良いよといった他害を人に向けるくらいならむけても良い物に変えるような試みを行ってもらっていた。

 その時、洋服の袖口を噛む姿もみられるようになったことで、ハンカチを噛んでも良いようにした。ハンカチなら制服のポケットにいつでもはいっているし、はがゆい時は人へ怒りをぶつけるのではなく、ハンカチを噛むことで怒りを自己コントロールできるようになればと思い施設や学校にお願いし取組んでもらっていた。その当時、外部の支援者からアドバイスをいただいていたこともあるので、その支援者には『ハンカチは噛むものではないから、やめさせたほうが良い』とアドバイスをされたが、私はそれに関しては無視をした。ハンカチを噛むことはいけないが、一生続くとも思えなかったし、いつかそのハンカチは何かに変えればいいと思っていたからだ。それに、人を噛むよりハンカチを噛むことですむなら、そっちのほうが全然良いと思った。そうするうちに、施設へもたせていた特大ニャッキのぬいぐるみがドンドン小さくなって顔だけになり、その顔も平たいハンカチ大になったことから、洗い替え様に私の母が手作りでニャッキの顔を創りそれがコーピンググッズとなった。そして、そのコーピンググッズになっていたニャッキが噛んでいたハンカチのかわりとなり、一時期は噛んでいる場面も少なくなったこともあった。

 ただ、学校や施設ではそれらは必要ないと思われていたが、自宅ではそのニャッキの要求があるので自宅では肌身は出さずもたせていた。でも、そんなことは一時しのぎの対処療法にしかすぎない。何が息子をこうさせるのかの原因を取り除くには、その当時の主治医では解決できそうに思えず、両親へずっと言い出せなかった神田橋先生の存在を話すきっかけとなった。
 私は本当に大事なことは誰にも相談できない体質だった。できるだけ自分の中で解決できることは解決しようとするタイプだったし、神田橋先生の存在を両親に変に勘ぐってもらいたくなかったということもあり、なかなか言えずにいた。それでも、その当時の状況では息子を私一人では車だけでなく、公共交通機関を利用したとしても連れて行くことは難しいくらいだったのだ。そんな私が勇気を振り絞って、神田橋先生の存在を両親に話し、鹿児島に治せそうな先生がいることを伝え、受診をしてみたいから鹿児島へつきそって欲しいとお願いをした。そして、息子の修学旅行へまた行きたいという気持ちがずっと続いていた時だったこともあり、彼のそんな気持ちが満たされるようにと、翌年の春に1泊2日で家族旅行がてら鹿児島の伊敷病院へ初めて受診をしたことが息子の転機になったように思う。

 

行動障害と向き合う③へつづく