ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

私の〝治る〟を科学してみる

 結婚をして母親になって、息子の発達が遅れていると保健師さんに指摘され、子どもの発達の遅れをあまり深く考えてなかった頃の私は『たまごくらぶ・ひよこくらぶ』の子育て雑誌を読み参考にしながら子育てをしてて、よく母に小言をいわれていたことが思い出されます(苦笑)母乳は適当に飲みたいだけのませていたのに、白湯やジュースなどは決められた量しか与えてなくて、よく母には

「あとほんのちょっとが飲みたいんだけん、飲ませてあげればよかとに…」

っていわれていました(苦笑)ですので、今の私がまた最初から育児をするとすれば、あの頃のやり方ではない子育てをするだろうと思うし、もっと楽しめただろうなぁと思うし、発達する速度も過程ももっと違っただろうし、息子自身が今よりも1人でできることは増えていただろうなぁと思います。なので、本当に勿体ないことしたなぁと思う今日この頃です。

 ただ、発達が遅れていてもやり直すことができるということを著書や講座で学びました。ですので〝発達の遅れは取り戻すことができる〟といったことに希望を感じるか感じられないかで、道は大きくわかれてしまうものなのだなぁと思うにいたっています。が、誰も通ったことのない道だからこそ、そして、人の発達だからこそ『治る』ということに対して懐疑的な意見がでてしまうのもいたしかたないことなのだろうと思うし、治ったという本人にしか表現のしようのない感覚があるのもまた事実なのですよね。

 私は〝発達障害は治らない〟と思っていた時期もあったし、その真逆で〝治るんだなぁ〟と思うことも感じることになりました。それに、発達って、エスカレーターのように発達していくものではなく、後戻りしながらも前に進み、何かが繋がったある時に、ぐーっと大きく突然発達したりするものなのだなぁとも感じてもいます。もう40代の自分自身でさえ、発達した感覚を感じられていることもあるので、まだ10代の息子の場合には、ゆっくりでも少しずつ発達し、治っていくように思えることや1人でできることが増えていくことを喜べない人たちがいるとするなら、じゃあ何のために子どもを持ち、育てているのでしょうか?と問うてみたい気持ちです。

言葉のやりとりがあまり上手にできない息子と過ごしている毎日は、一日単位でみつめてみると、どうしても前に進んでいるようには感じられずに、その場で足踏みしているように思えることもあります。でも、去年の今頃と比べてみると随分違っていて、発達していることもあれば後退していることもあるけれども、私からするととても成長を感じるのです。そして、そういった成長を感じられた時は素直に嬉しいと思うことは誰しも感じることではないのでしょうか?

 障害や病気は『治るor治らない』ということに関して、ここ最近ずっと眺めていました。で、私はどちらも振り切った考え方を持ったことがあるので、どちらのキモチも解ります。そして、今現在どちら側にも振り切れ過ぎている人たちの気持ちと同じかというとどちらでもありません。どちらの意見になるのもショウガナイと思います。何故かというと、人の発達する過程の違いや感覚はバラつきがあって当然で、各々の感覚を相対化させ、不特定多数の人に当てはめようとするから、診断基準の幅がおかしなことになってしまい、広範囲になりすぎてしまったのではないのだろうか?と思ったりもします。そういったことから、相対化する基準の前提に違いがあることからも、互いの意見を受け入れられなくなってしまう原因になっているわけだろうし、なんだか戦略の為の対比でもあるのだなぁとも思えるようにも感じ、仕組みの1つなのだなぁと思うと、何事も律儀に真に受けてしまうような体質の私にとっては、そんな仕組みもあるのね…と思えるようになりました。昔は〝0か100か〟に振り切れたことがある私だからこそ、これらの感覚を『含めて越えた=発達=治った』と表現せずにはいられません。ですので、私にとって〝治る〟ということは、常に移ろいでいくものであるし、発達というものは、留まることを知らないのだとも思います。(あれれ、どこかで聞いたフレーズだなぁ…。)それは『私が』というよりも、どんな人も何かしら成長したいっていう向上心のようなものはあるからだとも思います。その向上心をどのように育むのかさえ、ルールもなければ手順もあってないようなものだとも思うのです。必ずしも教科書通りの過程を踏むわけでもないワケですし…。 人の発達の行方なんて円周率と同じくらい、割り切れないまま命が尽きる日まで変化自在に続いているのだと思うのです。

 

今日はこのへんで…。