ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

LD体質な私の身体感覚について-番外編-

DMS-5の改訂があり、発達障害精神障害が脳機能の障害から神経発達の障害に変わったことも影響しているのか、ここ数年で身体アプローチへ目を向ける方たちが増えているようで、身体のことを大切に考えるようにしている一個人としましては、すごく嬉しいなぁと思っています。ただ、それらを行うことで〝治った〟という人たちが現れるようになりました。私も身体アプローチをとりいれたことで、確かに不具合は治っていくのだなぁといった感覚はありました。ただ『●●体操をしたから治った』ということはあまりにも乱暴だよなぁと思うにいたっています。なぜそんなことを思うようになったのかというと、人それぞれ価値観が違うことや〝治る〟という前提の違いがあることから生まれてしまう誤解が、せっかく広がっていくだろう身体方面のセルフケアという考え方が単なるみせかけだけになってしまってないだろうか?と懸念するようになりました。昔、TEACCHブーム?が起きようとしていた時の、失敗体験がが思い出されるかのようなので…。ですから、改めて今一度、そういった発信をする時に気をつけなければいけないなぁと思うようになりました。いや、別に〝治る〟こともあるのかもしれないけど(いや、私としては医学的な〝治る〟を主張しているわけではありませんので。)サプリメントや整体等、厚生労働省が医療行為として認めていないことに関しては、薬事法だったか法律で効果・効能はうたってはいけないといった規定があったと思います。ですから、それを踏まえて発信しているかいないかは大きく違うと思われますし、最後にでも【※これは個人の感想です。】といった一言はつけといたが無難なのかもしれませんよね(苦笑)ほら〝障害は治らない〟という人たちよけのお呪いにもなるかと思いますし。

といいますか、エビデンス界隈では障害は病気とは違い根治できないといった扱いだから治らないものとなっていると以前習ったように記憶しています。医学的には治らない位置づけになっているだけなのだと思うし、診断を受けた後、本人がそれらをどのように扱うのかでも違ってくると思うのですね。世間的に認知されるのか、制度を使うためのものなのかとなると、本人だけの問題とは異なり環境を含めてに括りになるのでしょうから、本人がどうするかでどちらの生き方も選べるよってことを頭の中にいれているのといれてないのは、その後の生き方の選択肢が変わってはくるんじゃないかなぁとは思ったりします。ただ、これもよーく考えるととても曖昧です。なぜかといいますと、発達障害はグラデーションとかスペクトラムといった捉え方がなされているのに対し、診断を受ける場合にはある一定の数値の範囲に納まるか納まらないかといったことで、判定は変わりますよね。なので、診断するにあたって境界があるわけですよね? だからこそややこしくなってしまうのだろうと思ったりします。ようは、49と50と51で50が境界だとすれば49は含まれない。そうなった時、49の数値の人は生活する上でとても困っているのに対し50や51の人は何も困っていることもなく周囲とも良好な関係が築くことができている場合でも、数値的には49の人は健常域で50や51診断に該当するってことになります。まるで、スピード違反かよって話ですよね。われわれは人間なのに…。実際どれくらいまでを境界域とかグレーゾーンと判断されるのかも医師によって違うのでしょうし…。で、治らないっていう考え方であるとするなら、スペクトラムだとかグラデーションだとかいった言葉は使わないで欲しいよなぁ。考えみると。

それに、診断されたからって病院に行ったり制度の申請をしなければ、定型発達の域のままで単なる変人どまりなのですよね。他者からみれば立派な障害者にみえても。ですので、都合よくそれらを利用しているのは一体全体誰って話にもなるわけです。それと、一度診断を受けてしまった場合には、当事者がその後進む方向によって医学的な見解が必要な場合も少なからずは必要になると思うのです。例えば国家資格などを取得する場合には、病歴や障害の有無によっては、資格はとれてもその職業につけるかどうかはわからないと思うのですよね。職業に関してもそうですよね。

自衛隊や警察官などは身体に不具合があることで、本人がどんなに希望してもその職業にはつけません。はじかれてしまいます。そういえば、私も福祉就労をしている時に、就労施設の支援員候補の話がもちあがったことがありました。ただ、精神障害がある場合には支援員になれないということを聞いたこともあります。ただ、精神障害の当事者でも同じ立場の当事者をピアカウンセリングのお仕事はあるようですが、おそらく条件付きになるだろうと思ったりもします。そういったことも含めて、精神障害のある方や精神科へ通院歴があることで、その人の心身の状態によっては、一応犯罪者予備軍扱いのような位置として考えられているのだろうと私は自覚をして日々生活していました。

ですので、医学的に相対的な見解を踏まえての〝治った〟と断定できるかどうかはどうしても必要になるのだとおもったりもするのですね。だから、本人だけが〝治った〟と主張しても(たとえ治っていたとしても)、医学的には障害は治らないものという位置づけである以上、一度診断を受けたなら、それをひっくりかえすには、それなりの条件がそろってはじめて医学的な見解からも〝治った〟といわれるのだろうなぁと思ったりします。
それに、遺伝子レベルの話になれば治療はより困難になると思うのです。お金をかければ調べられるのでしょうけれども、倫理的な問題が発生するなら調べられないのかもしれませんし…。ですので、発達障害が神経だけではなく遺伝子に問題があるとするなら、遺伝子レベルから解析することになったら、一体全体どのようなことになるのでしょう? 仮に、発達障害と診断を受けた人たちが遺伝子レベルでは問題なかったといった場合には、誤診になると思うのですが、一度発達障害といった診断を受けた人で誤診だったことをよかったと思えるのでしょうか? 考え方によっては、生き方の幅は広がることになるようにも思いますが、逆に逃げ場がなくなってしまう人もいるだろうと思います。結局、自分自身と向き合うことになるわけですから、そして、どんな立場であろうと自分自身でどこで折り合いをつけるのかが鍵になるのだと思いますがいかがでしょう。
毎度ながら話が少しズレてしまいますが、昨今発達障害同様〝性のグラデーション〟や〝ダイバシティ〟といったことでLGBTQの人たちの存在も知られるようになりました。医療の歴史を振り返ると過去にはLGBTQの人たちも病気だったか障害といった扱いを受けていた時代もあったようです。現在はT=トランスジェンダーのタイプの人だけが唯一、性同一性障害となっており、その他のタイプの人の場合には性の志向の違いなだけで病気や障害という枠からはずれています。ではなぜ、トランスジェンダー性同一性障害)のタイプだけが〝障害〟といった扱いにされたのかというと、生物学上で生まれた性の不一致があることからくる違和感をなくすために、成形をし身体を変えるだけにとどまらず、戸籍を変える人もいます。ただ、身体や戸籍を変えた後に後悔する人もいるようで、トランスジェンダーと断定されるにはかなり慎重に診断が行われているのだということを知りました。認定後は性転換だけでなく、ホルモン治療やカウンセリングも行うことになるのでかなりお金がかかるようです。だから〝障害〟になることで、保険適用となりその範囲で治療ができるようになることから〝障害〟となったといった話も聞いたことがあります。要は保険料金さえ納めているなら、どんな立場の人も個人の負担が少なくなるわけですし、救済措置みたいなものになるかと思ったりもします。

それと、発達障害って、診断名ではなかったと思うのですが、最近は発達障害という診断名になったのでしょうか?なんらかの発達が遅れているまたは不具合があるグループ『 自閉症、PDD、AD/HD、LD、ダウン症、精神発達遅滞…etc  』を総称した言葉だと私はずっと思っていたのですが、総称しただけに留まらず診断名として扱われるようになったのでしょうか? ご存じの方がいらっしゃりましたらどなたか教えてください。Twitter等、140文字で何かを表現したい時は、確かに便利な言葉だなぁとは思います。文字数が端折れるわけですから、その分他のことを盛り込めますし…。ただ、常々この総称した言葉が仇になってしまった気がして否めないのです。だって、それぞれの障害の特性はあきらかに違うのに、似て非なるような捉え方をされてしまうことになっているんじゃないのだろうか?と思うのです。(そういえば、あの当時、某有名支援者が某有名医師から生み出される造語に対して講演会で怒ってらっしゃったなぁ(苦笑))ああ、またズレてる。
それで、発達障害( 自閉症、PDD、AD/HD、LD、ダウン症、精神発達遅滞…etc )これらの中でも、AD/HDに関しては障害として扱われていなかった時代もあるらしいのです。いつ頃からAD/HDが障害となったのかは知らないのですが、現在は愛着方面がブームになってて、その前は自閉症スペクトラムブームで、その前がAD/HDブームだった頃が2000年ぐらい?だったように記憶しているのですが定かではないので間違っていたらすみません。で、AD/HDもLGBTQのトランスジェンダーと同様に、発達になんらかの不具合がでている場合に保険内で治療を行うためには〝障害〟という枠になることで治療費が保険適用になるのだろうと思われるので、LGBTQ同様そんなことになったのかしら?と思ったりするわけです。ですので、医療の現場がどのように考え発達の遅れを〝障害〟と捉えていくのかがポイントなのかもしれないなぁと思ったりもします。これらは、個人的な見解になりますので、あしからず…。ああ、なんか酷くずれてしまってしまった気がしますが、すみません。

そして、案外忘れがちなのが、赤ちゃん時代だけじゃなく、学齢期までは月齢まで踏まえて発達は考えられていたように思っていたのですが、なんか私勘違いしてますか? そういった意味でも〝心身の発達遅延〟を考えて捉えないと、ただ、本人に現れている問題だけを切り取り障害別のタイプに当てはめてしまわれた診断になっていないだろうか?と思ったりもしています。なぜなら、私もそうでしたが、大抵の保護者又は当事者の人の中には、自分の都合の悪いところは話さず、自分にとって都合のいい部分だけしか他者には公言していない人が多いと思うのです。おそらく支援者や医療現場では自分にとって都合が悪くなる話はしてない人が多いと思うのです。だとすれば、診断の材料としては話が変わっていますと思うのですが、身に覚えはありませんか? そして、子どもの発達は基準がありますが、子育ては基準があるようでないようなものですよね。だから、親次第でなんとでもなると思います。親次第で障害にはならないけれど、親も子どもたちにとっては環境の一部であるということになると思うので、発達は確実に変わってくるだろうと思うのですが…。

それで、多動の場合には、AD/HD以外でも、多動の特性があるケースがあるのはご存じの方たちはいらっしゃいますでしょうか? 睡眠の質、アレルギーなど、他の要因でも多動といった症状はでますし〝忘れる〟ということも同様で、認知症、多忙であること、貧血などからも〝健忘〟という症状はでるのだそうです。他にもありますが、私も制限された生活を行ったことで、AD/HDと診断はされたけれど、かなり特性が薄まりました。ただ、私の場合には基本的な生活習慣の乱れによって、慢性疲労化したりすることから、体調不良に陥ってしまうことだけじゃなく、AD/HDの特性が顕著に現れるといった具合になります。ですので、生活習慣が乱れたり、食生活が乱れたり、十分な睡眠や休養がとれていないと、私の場合にはADHDの特性だけにとどまらず、二次障害であるうつ病までもでてしまう自体にみまわれてしまいます。それに、私は女性ですので、PMSの影響もあるようなのです。確かにその時は、忘れたり不注意になったりする確立が上がります。そして、昨今はファスティングや無理な食事制限をすることから貧血になってしまっている人も多いといった話も聞きました。貧血で〝健忘〟にもなるようですし、その貧血の起因がどこから起きているのかそういったことを調べることなく診断されていないかなぁと思ったりもします。そして、それらの症状がある一定期間続いているかどうかでも変わってくるようです。ですので、一般的な基本的生活習慣を行ってみてもそれらの特性が顕著に現れるのかどうかで診断が大きく変わってしまうと思うのですね。IQだって、体調の良し悪しで点数は大きく左右されることもあるのだそうです。ですので、AD/HDのような特性が現状でみられているのであれば、生活習慣や食生活などをある一定の期間改めてみて、それでも特性が表出するのかしないのかはポイントになるのではないかと思ったりするのです。

だからこそ、3カ月などの入院治療をするのだろうとも思うのです。一応、入院することであらゆるストレスから離れることができるし(なくなることはありませんでしたけど…。)必然的に生活習慣は改められるはずなのです。ただ、入院を単なる一時避難ととらえている患者さんの場合には、我が身を振り返ることもしないと思われ、改められることなく、避難場所となってしまうのだろうと思います。こういったことから、考えられるストレスを全てとっぱらわれたかどうかでは変わると思うのです。(こういったことは講座では教えてもらいませんでした。完全に体験を通しての個人的見解になりますので、ご了承ください)
大人でさえ自己コントロールができてないのですから、お子さんたちの場合にはどうでしょうか? 大人の生活リズムに子どもをつきあわせていませんか? それは、私自身にも身に覚えがあるからこんなことを問いかけていますが、どうでしょう? 私の体感としては、大人の生活習慣に子どもがあわせているご家庭が多いと思うのですが…。そして、幼児期のお子さんを持つ保護者の方には、厳しい言い方になるかと思いますが『〇〇をしたから治った』という保護者の方は、なぜお子さんが治ったのかを誤解しているんじゃないかと思うような人たちが多いよなぁと私は感じています。なぜかというと、これは私の推測にすぎませんが、ただ、お子さんへの手のかけ方が変わったことが大きいと思うのです。保護者で懸命にお子さんの療育を行っているからといって必ずしもお子さんへ反映されていないご家庭に数件出会いましたし、そのことについても身に覚えがあります。身体アプローチをしっかりとりいれているご家庭だとしても、お子さんの状態が悪くなっているケースも目にしました。身体アプローチをそんなにはやれてはいないけれども、お子さんの状態が年々発達していっているケースもありました。つまり、お子さん主体とはいえない関わり方からくる不具合が起こっているケースもあるということです。なぜかといいますと、親は子どもからすれば外側になるわけですから、環境に含まれると思うのですね。その親が子どものニーズやお子さんをきゅうりやなすをトマトにするような子育てをしてしまっている場合には、お子さんにとっては親も障害になりうることもあると思うのです。子どものために…と思う保護者の想いが我が子の成長の芽をつんでしまうこともあるし、本人が自立していく力を奪ってしまうこともあると思うのです。ですので、お子さんが成長したり発達していくことが身体アプローチを行ったことがきっかけとなったということの意味は『〇〇をしたから治った』と断言するのは、なんか違うと思うのです。いわゆる他に理由があると思うのですね。私は自主企画でお世話になった、栗本氏から『俺は治さない』ってハッキリいわれたことがありました(笑)それに、初回の頃からお世話になって、折をみて質問させてはいただいたりしていましたが、体感や経過を大切にするようにいったアドバイスをいただいたこともありました。そして、逆に発達支援コーチの講座を受けた後、感想を聞かれたことがあるのです。。。(私以外にも質問された方はいらっしゃるはずです。)私はその時に反射のテストが私一人だけみなさんと違ったことと、動きの四発達については不具合がでたところの1つ前の段階にアプローチするといったことだとすれば、結局土台ができてないということだと思ったので背骨になりますよねっていったら、栗本氏は『首だー』っておっしゃられてました。(あ、なんかズレてる。しかも余計なことを書いてる。いけないいけないワタシったら(汗))話を戻します。

ですので、お子さんや障害に対する視点が偏っているご家庭の場合には、保護者の関わり方やお子さんの特性の捉え方の視点を変えただけでもお子さんは発達していくと思っているので、以前のご自身と今現在のご自身のお子さんに対する関わり方などを比較してみることで何かしらわかることもあるかと思います。あくまで私の個人的な見解になりますが、おそらく、お子さん主体ではない関わり方をしていたり、お子さんのニーズにあってない関わり方だったのだと思うのですね。そして、お子さんがかまって欲しい時に声掛けができていましたか? スキンシップをとることができていますか? 今じゃなきゃ嫌なんだといったタイミングでお子さんにかまってあげられてますか? 私は我が身を振返ってみたときに、やっと気がついてあげられました。といいますのも、昨年から久しぶりに息子と暮らしはじめてみて、障害の程度が重度で思春期真っ盛りの高校生の息子でさえ、母親の私がちゃんとかまってくれないと、すごく腹をたてます。そして、他のお子さんへ優しくしたりする場面をみたり、他のお子さんへ声をかけたりするだけでもヤキモチを焼いたりするのです。息子にそんな内面があるなんて思っておらず、それがわかった時には息子にあやまりました。「〇さんにお母さんが優しくしてたのが嫌だった? 気がつかなくてごめん。でもさ、お母さんお節介だけん助けてあげたかったんだよ。でも、嫌だったんだね。ごめんね。お母さんはSが一番好きだし。特別なんだよ。」といったことを伝えたら笑顔になって息子が喜んだことがありました。そういったことがあったことから、私は猛反省したことがあるのです。ですので、話し言葉を持っている発達障害のお子さんの場合には、うちの息子とはまた違って、自分以外の誰かに優しくしていたりしている親の姿をみて、ヤキモチを焼いていてもそういった気持ちを羞恥心などから〝ない〟ことのようにふるまってしまうお子さんもいると思うし、抑制してしまう場合もあると思うのです。そういった心情を親が察っすることができてなかったり、察していてもケアができてないんじゃないんだろうかと思うのですね。だから、お子さんのニーズに応えるだけでなく、お子さんが目を向けて欲しい時にかまってあげられているかどうかはとても重要だと思うし、日常に追われた生活をしている人の場合には、案外そこはないがしろにされがちなんだよなぁとも思うのです。そして、言葉の発達もまだ未熟な幼児期の時期は、些細な身体的な快・不快だけじゃなく、心身ともに親が取り除いてあげることが大切だと思うのです。そういったことから、身体アプローチを行うことでお子さんとの身体を通したスキンシップにもなると思われますし、お子さんに目をむけているということにもなることから、お子さんが自然に喜ぶことにもなっているのではなかろうか? そして、身体アプローチ等を通して、快・不快の感覚を感じられ、それがきっかけとなり〝治る〟に繋がっていくのだろうと思うのです。だってですね、金魚体操が下手な親の場合には喜ばないはずなんですよ。だって、ちゃんと揺すれてないだろうから(苦笑)そして、背骨が育ってないからこそ金魚体操を喜ばない人も中にはいると思うのですね。うちの息子は金魚体操で弛めるには一苦労入ります。それは、私自身がLD体質でもあるからだとも思います。それに、子どもって1対1で注目されたいという時期は誰しもあると思うのです。ということは2者関係にヌケがあるのかもしれないともいえるように思うのですが…。我が家の場合には、金魚体操よりもやることがあるし、2者関係もまだ卒業できていない段階で思春期を迎えたので、主体性も大切にしていますので、本人が嫌がった時はやらないようにしています。うちの子は気持ちいいことは申し出てくるし、自分でも行う子なので、わざわざそういった時間を設けてまではやってはいません。ですので、〝〇〇をやったら治る〟といった計算式のような発信はある意味乱暴だなぁよなぁと思うようになりました。
それと、栗本氏からアドバイスを受けたことはありますが、逆に問われることも多かったのです。『その感覚は本当?』と…。私以外の方で長年講座を受けたりアドバイスを受けたことのある人たちはそんなこと言われたことはないのでしょうか? 私だけだったのかしら。そんなことはないと思うのですが…。

身体アプローチをとりいれるようになったご家庭も増えてきたことはすごく嬉しいですし、どんどん治っていく人たちが増えていくこともよかったなぁーと思っている一人ですが、方程式みたいな考え方で子育てや療育を考えているなら、ある一定の枠まで発達できるかもしれませんが、おそらく伸び悩むことになると思われるので、そこで親がこうあるべきといった考え方を捨てきれない場合には、ある程度の段階までしか治らないし治そうとしないとも思うのですね。なぜなら、子どもをコントロールできなくなってしまうからです。でも、子どもはコントロールするものではありませんよね。それって、身体アプローチに限らず、どんなことにも当てはまると思いますし、どの療育でも同じだと思います。大人にもいえることですが、まだ子どもだからこそ制限はないのです。しかもまだ親に守られた範囲内でしか生き延びる手段がありません。ですので、親の経験がダイレクトに子どもに伝わってしまうことにもなってしまうのだろうと思うのです。まだ幼いからこそ、体験しないと学べないし、そして、経験が浅いことからくるジレンマにも陥るのだと思います。だからこそ、親次第になると思うのです。長年業界で培われてしまっただろう『親のせいではありません』という御触書は、ある意味、子育ての中でできていただろう躾や社会のルールやマナーさえも、その言葉を免罪符にして都合よく扱われ、療育や学校の現場で教えて欲しいといった他人任せの子育て状態になってしまってませんか? 業界の先生たちが気づかないといけないと思うのですが?業界の方のおっしゃる親学って子どもや周囲をコントロールするようなことをお勉強で学ぶでしょうか? 確かに障害は親のせいではないと思います。ただ、遺伝学的にいえば遺伝することもあるので、なんていうかもっと他にいい言葉はみつからなかったのだろうか?と思ったりもします。親のせいで障害になるわけではないけど、環境では大きく左右されてしまっていることを本当は気がつかれているのではありませんか? 保護者の場合には、親ができることさえも支援の現場に丸投げしたり、我が子のことを支援者にたずねて歩いて回るような子育てなさってませんか? それはなんか違うんじゃないのって思われてしまうのは不思議なことじゃないと思うのです。で、こんなこというと、正しい子育てをしろっていうこと?って勘違いなさる方がいらっしゃいるかもしれませんので、一言つけくわえますと、そういうことをいいたいわけじゃなくて、子育てに基準はあっても身の丈にあったやり方で子どもを育てていけばいいんじゃないの?と思うのです。いつどこで、アンドロイドを育てるような子育てになってしまったのでしょうか。子育てのピラミッドがあるなら、土台は家庭だと私は思います。だからこそ、その土台は、保護者が自分たちで考えて整え、時に支援者や周囲の人に相談したり知恵をお借りしたりすることで、みんなで子どもの成長を見守っていくことが望ましいのではないのだろうか?と思うのですが、我が身を振り返り認めて受け入れるには、根底が覆されるくらいのダメージをうけなきゃ気がつけないものなのかもしれませんね。