ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

LD体質な私の身体感覚について⑪-原始反射と愛着障害-

長くなってますね、、、すみません。だって、この気づきがあったことが、私自身ずっと治したかった悪癖の『根っこ』ともいえる原因を引っこ抜ける最後の砦のように思ったからです。私にとってのラスボスを倒すためには、原始反射のことを知った上で、愛着障害の治療に取組んだことが、今現在の私をとり戻せるチャンスになったわけですから…。
あっ、それとどうでもいい豆知識になりますが『人間脳を育てる』の著者である灰谷氏って、発達支援コーチの産みの親でもあるのですよー。知らない人がいたことをつい最近知りました(驚)。ある意味ビックリしてます。推定○万人のファンがいらっしゃるはずなのに…。私が知ったのはつい3年前のことなんですけどね。なんだか私大昔から灰谷氏を知ってる風なこといってる〝知ったかぶり系BBA〟だとイラつく人たちがいらっしゃるかもですが、なんだかすみません(てへぺろ

さて、恐怖麻痺反射のことが長くなってしまいましたので、そろそろモロー反射のことを…。この反射に関しましては、只今絶賛人体実験中みたいなものなので、まだ統合できてるとは自分では思えませんし、おおまかにしか腑に落ちていません。それだけ〝恐怖麻痺反射〟に囚われてしまっていたということでもあると思います。が、しかし、息子とまた暮らすようになったことで、息子が過去に行動障害が酷かった頃のことを振り返ったり、ここ2年は、私自身にとっても、アンガーコントロールを模索していた日々でもあったと思います。人との関わりや生活の中で、いかに〝忖度〟をせず、感情にまかせた交渉とは違う〝やりとり〟を行っていくかを目標にしてきました。初めの頃からすると、大分マシになっていると思われます。その他に気をつけていたことは〝喜怒哀楽の感情を抑制せず感じ切る〟こと〝コミュニケーションのバランスや距離感〟等…毎日毎日試行錯誤する日々を過ごしてきました。自分だけでなく、内省言語は沢山もってるだろうけれども言語化できない息子に代わって代弁したり、母子間でのやりとりだったり…。様々な場面で自分に嘘をつかず他者にも嘘をつかない立ち回わり方を練習してきました。うまく吐き出せない時には家族にぶちまけながら…(苦笑)別れることとなりましたが、元相方へ愚痴をこぼしたり、喧嘩をしたり…。車を運転しながら大声で文句をいったり…。怒りが溜りすぎてそれでも言葉にならない時は、泣き叫んだこともありました。とめどなく涙が溢れて止まない時はその涙が止まるまで泣いたこともあります。この2年間の出来事で、ワタシが何に怒りを感じてしまうのか。その怒りを解き放つ時にどうすれば私だけの中で解消できるのか。そして、怒りのマグマ溜りができないうちに言葉で他者に伝えるにはどうすれば良いのか…。そんなことを実際にはやりつつ、気持ちが安定している時には内省しながら…とおこなってきました。それでも暴言を吐かずにいられないくらいでしたので、支えていた家族は大変だったと思います。(今だに、感情が高ぶりすぎるとそうなりえますが、これでも大分マシになってます汗)ただ、3年程前までは、ほとんど自分の中で終わりにすれば良いと思ってきたことをあえて、良い事も悪い事もなにもかも全部出すようにしたわけですから、そうなって当りまえなのですが…。
しかも私の場合、自分がコミュニケーション能力が低いと思い込んでいました。確かに以前はコミュ症といわれるくらいだったと思います。ただ、何故私がコミュニケーション能力が低かったのかというのは、私だけの問題でもなかったことに気がつけたことで、最近は逆に周囲の人のほうがコミュ症なんじゃないのかしら? なんて思うことが多くなっています。ですので、自分の言いたいことが相手に伝わっていると思い込んでる人たちは、改めてご自身の受け取り方だけでなく、自分の内省言語を伝えられているのか?を振り返ってみると良いかと思います。はぅーまたズレタ。。。

で、本題です。モロー反射についてですが、モロー反射の残存率が高い身体の不具合というのは、身体の使い方をみれば一目瞭然にわかると思われますが、それは著書を読むなり講座を受けるなどなさっていただいたほうが、良いと思いますので割愛します。
私なりの感覚を短縮して言語化すると『内より外側に向かってしまうエネルギー』といった感じです。で、この時期に『快と不快』をどう折り合いをつけていくのかというかが勝負な時期でもあり、北斗の拳ラオウが昇天してくみたいな〝昇華〟ができると、その人によってより良く発動できる反射になるのだろうなぁーとそんなことを思うようになりました。といいますのも、恐怖麻痺反射の場合には自己を守ったり、生き延びために手も足もでさず死んだふりする自己防衛のスタイルに対し、モロー反射の場合には、自己を守るために〝攻撃〟して身を守る反射でもあると思うんですね。そして、このモロー反射のコントロールが上手くいかない時期が、第一次反抗期といわれている、イヤイヤ期でもあると思うわけです。で、この時期に親だけじゃなく大人が1番抵抗したり逃げてしまう時期でもあると思うのです。ただ、この時期だからこそ、外側にエネルギーのベクトルが向いてしまうわけで、春から夏といった〝勢い〟のある活動期でもあるといえると思うのです。春や夏っていったら、お家の中よりも外へでて活動したくなりませんか? 赤ちゃん時代はどちらかといえば、自らの気持ちよりも親の意思で外の世界と繋がると思うのですね。そのうち自分で立って歩き始め、少しずつ自我も芽生えて、外界に目が向くようになります。そんな時期だからこそ、自分の内側から溢れだすエネルギーを外界でどうコントロールすれば良いのかを学びはじめる第1段階だと思うのです。それって〝冒険〟だったり〝探検〟しながら学ぶ格好の時期だともいえると思うのです。ただ、親からすれば、そういう時期だからこそ、子どもを大切に思うあまりに心配しすぎてしまったり、ヒヤヒヤさせられる目白押しな育児に疲れ果ててしまうのだろうとも思います。赤ちゃん時代とは違い、少しずつ行動範囲が広がり親の目の届かないことも増えてきますよね。多動な時期でもあるわけですし、興味関心が旺盛になる時期でもあります。そんな時期なのに、親からすれば〝無駄〟と思えるような経験をさせない大人が増えてるように思いませんか? 私はそういう自分に気がついた時にすごく落ち込みました。『ああ、なんて勿体ない時期を過ごしてしまったんだろう』って…。
子どもたちにとっては、とても大切な時期になるのに、子を思うあまり親や周囲の大人はそれを良かれと思い、命を守るための行動統制を行ってしまうのだろうなぁとそんなことが想像できます。ただですね、私は自分が治っていく過程の中で、原始反射のことや愛着障害のことを知ったからこそ、この時期にしかできないことがあったなぁと思ったのです。大人になってしまったらからこそ、知恵が働くし力も強くなります。自分1人だけの力では制御できないくらいにそのエネルギーは膨大に膨らんでいて、それを無意識が抑制してしまっている場合、何かのきっかけがトリガーとなり、他者を巻き込むような事件や自死となってしまうことになってしまうのではないのだろうか? そんなことを思ったこともありました。といいますのも、愛着の不具合を治すべくおこなっていた時に『誰でもいいから人を殺めたい』という感情がでてきたことがありました。それくらいの怒りを抑制するには、暴れたり叩いたり物を壊したりしなきゃいけないくらいになったのです。いい大人の私でも。悪い事だとわかっていても。そんな負のエネルギーが自分にあったことを認めたくない気持ち、そんな自分自身が怖かったり…。そういったことが何度かありました。それでも私は、事件を起こすことはありませんでしたが、私を支えていた母や元相方はよく耐えていたなぁと思います。といいますか二人とも常に最後は耐えられず逃げていました。(本人たちは逃げていたとは思ってないと思います。)そこで二人が逃げずに立ち向かってくれれば、もっと早く下手に拗れることもなかったと思います。それは結局、本人からすればやり切ったことにはならず、未消化の感情に上塗りしていくだけで終わってしまうからです。ですので、私は息子に対してできることは、逃げずに受け入れることだと思い、取り組んでいます。こういったことがあるからこそ、必ずその時期は過ぎてゆくものだから、めんどぐさがらずその時期がきたらやり切っておく必要があるよなぁと思うにいたりました。

大人にとって〝無駄な動き〟といえるだろう子どもの興味関心を親が受け入れられず又は解消させてあげなかったり、その子らしさの芽が摘まれてしまうのは、去勢されてしまう状態と同じことでもあると思うのです。だからこそ、親側からすれば1番大変でメンドクサイ時期だなぁーとか、いつまで続くんだろう…とそんなことを考える方もいるかと思うし、他に考えられるのは、親自身が周囲の人に良い親にみられるためだったりして、失敗させない育児を行ってしまうのだろうなぁと思うこともあります。それに加えて、大人のいう事を聞ける従順な良い子に育つことが望ましいと思われているのだなぁーと思うのです。でもですね、考えてみてください。人なのです。お人形さんやと違って1人1人違うのです。だからみんな同じように育つわけがありません。ムシロあなたのお子さんと私のお子さんが全く同じだったら、逆に心配になりませんか? 私は心配になりますけど。。。それに、第1次反抗期だからこそ、子どもたちは何も知らないし、わからなくて当然なのです。だから失敗しながら体験して覚えていくしかない訳です。自己のエネルギーコントロールをより良くできるようになるための第1段階の練習期間でもあるのですから…。
それに、内省言語がまだ未熟な時期だからこそ、身体いっぱい使って体験を通して湧き上がる〝喜怒哀楽〟を自己表現する必要があると思うのです。〝無駄な動き〟をやり切るというのは、そういったことも含めたことなんだろうと私は思うのですね。そして、そういった自己表現のスタイルが子どもたちが本来もって生まれたもので、自己成長を援ける自己援助でもあったり自己治療又は身体アプローチでもあると思うのです。で、そういった〝動き〟をやり切ることで、次の段階へ自然に発達するといわれているわけですから、この時期に私たち大人ができることといえば、命に危険がないかを見守りつつ、〝無駄な動き〟をやり切らせること。それと、その場その場でルールやマナーを教えてあげること。ぐらいでいいのだなぁというか親にできることってそれくらいのものだよなぁ。とそんなことを思うようになりました。
我が家の場合には、すでに思春期になっていますので、正直いって難しいこともありますが、今彼に芽吹いている主体性の芽を刈り取らないように見守りながらサポートしている状況です。

まだまだ続く―(=_=)

 

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