ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

他愛もない嘘のようなホントの話

先日のスピ話に続きのような記事です。お暇な方はお付き合いください。

 

スピリチュアルの沼にずっぽりハマった時は、イベントにも参加したし、天然石もお守り側ににつけていたこともある。今現在はほとんど捨ててしまって、手元に残っているのは水晶とラリマーのネックレスとヒマラヤ水晶の原石だけだ。時々水晶のネックレスをつけるくらいだろうか。

以前遊びにいっていたイベントなどでは、石が好きで沢山身につけていらっしゃる人と出会う機会が多かった。天然石の扱い方をよくご存じの人とあまりご存じでない人がいらっしゃって、きちんと石が浄化されていないのか、ご本人の心身の気の流れが滞った状態で邪気が溜まっていたのか定かではないのだが、あまり状態のよいとはいえない方の近くにいるだけで、私の左手又は両手がちぎれるくらい痛くなったり、酷い時はその場に立っていられなくて、斜めに倒れそうになったこともあった。この当時は邪気という言葉は知ってはいたのだが、気のことなどは全くわからない時だったので、なんでだろうと不思議でならなかった。私はスポンジ体質だといった自覚はあったので、そういう方の場合には、なるだけ介入しないようにつとめてきた。

昨年参加させていただいた、野口整体の活元運動の講習会の時、私の身におきていた正体が“邪気”だったとわかり、それらの解消法を教えていただいたことで、かなり私の身体は楽になった。人ごみの中へいった時などにそういった状況になっても、自分で対処できるようになったお陰もあってそれだけでも随分楽になった。私の場合には気の停滞が体調不良の原因だったということがこの時ハッキリわかった。だからといって、人ごみにワザワザ行く気はないし、講座などに参加する時はかなり注意している。ただ、私の場合には、何かしら誰かの思惑があるだろう時は何故か行けなくなってしまうことになってしまう。その思惑が私にとって嬉しい思惑だとしても…。反対にその思惑が私を試すための思惑だとしても、その方に必要な縁であったり私自身にとっても必要な縁であるなら、不思議とそのご縁には繋がれるのだということもハッキリわかった。だから私は仮に、第3者の人たちに行動統制をされていると仮定しても、それらを行っている方たちの思惑次第では、私がそのご縁を例え望んで許可しても、不思議とそのご縁が立ち消えたり、又は逆にご縁が結ばれてしまうことにもなったりする。信じられないかもしれないが、わかる人にはわかる、嘘のようで本当の話だ。

一昨年から昨年にかけての毒だし期間中、著しく心身の状態が悪くなった時があった。その時、私は自宅に1人で寝込んでいる状態だったので、心配した母が様子を見にしばらく私の所に泊まることになっていた。その時の私は誰も信じられない状態だったし、例え母だとしても、本当はほっておいて欲しい気持ちだった。ただ、母の気持ちを無下にはできないと思ったし、自分でも状態が悪かったので少し不安だったこともあり、母に

「来てもらってもいいけど、来れたらね。多分来れないと思う」

といい電話を切った。大雪が降るか台風が来るか途中の橋が通れなくなるか…そういう大きなことがなければ、母が私のところへ来れない状態になるという確率はとても低かった。そして、母がこちらへ来るために荷造りをし家をでようとした時に、知人の方の突然の訃報で、母は来れなくなってしまったことがあった。私はこんな想定外なことは予想はしていなかった。ああ、やっぱり私が望まない時は何かしら起こるか、それを私が察知してるから、来れないと感じたのだろう。そう思った。これだけの話ではなく、振り返れば思い当たることはたくさんある。私とこの数年関わった人たちなら、多分わかっていただけるだろうと思う。こういう神がかり的なことが続いたこともあって、私は例え第3者の人たちに行動統制されようがされまいが、あまり争わないことにした。行けたらラッキー。行けなかったら残念。それくらいな軽い気持ちで考えられるようになったお陰で、最近はよくわからないお試し行動な気配がしても、胸がザワザワすることもなくなってきた。逆に『今日はどんなお試しなのかしら?』と楽しめるようになった。で、私を試している人たちは自分たちの仕掛けた落とし穴にまんまと自分たちが落ちてしまっていることになっていること気がついているのかなー?くらいな気持ちでいる。それくらい、この10年そんなことの繰り返しだった。

お陰様で、私はよくわからない神がかり的なサポートに恵まれることになって、私自身の原始反射が賢いことにも気がつく結果となったのは言うまでもない。それに、『みえない力』はあるとなんとなく信じてやまなかった思春期の頃に、選択した結果がたとえどんな結果でも、その時の自分が後悔しない選択をしようと心に決めていたことは、大人になった今でも変わっていない。ただ、その選択をする時に私は自分のことだけを考えた選択ではなかったから、結果的には悪い事が続いたり、どん底をみることになったり、崖っぷちに立つことになり、いろんな苦境に立つことになったのだと思う。悪い子の私でも、それでも、私は不思議とみえないサポートに守られてきた。だから、なんでこんな私を援けてもらえるのだろうか? そんなことをずっと思って生きてきた。何度も『生きる』ことが苦しくなったこともあったし、生きる意味を感じられなくなったこともあった。神様にとって私が邪魔な人間なら、私はとっくにこの世から去っているはずなのに、私はそうさせてもらえない。それはどういうことなのだろう? そんな風に考えたこともある。 いろんなことがあっても、それは苦しみでも壁でもないという領域に来ると、ただただ、壁をこさえてそれらを乗り越えていく様をみて楽しんでいる人たちの方が可哀想に思えて仕方がなくなってきている。そして、またそんな風に思う自分も傲慢だと思う日々はまだ続くのだろうか…?

 

今日はこのへんで