ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

優先順位③

今回のことで、彼がいわんとすることが何を意味しているのかは、正直わたしにはわかりません。ただ『おむつ』へのこだわりとか『おむつ』時代のやりなおしだけではないだろうと思っています。それは、自宅で排泄で失敗することが増えてきたので、失敗した時に注意したりしたこともあったのです。それに自宅だけでなく、息子を介助してくださった人たちに注意されていることもあっただろうと思います。そして、他の生徒さんで『おむつ』のお子さんがいることもあったことも、彼に『おむつ』時代を思い出させることにもなっただろうと思います。それらが重なって、彼なりにトイレで失敗しない方法が『おむつ』にすることだったのだろうと私は推測していますが本当のところはわかりません。

その他にも考えられることはあって、学校生活の中でトイレは休み時間にいっておくのが望ましいといったこともあるのだと思うことから、社会性のないといわれる自閉っ子ですが、うちの子は結構周りをよくみていて、同調圧力を感じているみたいなので、いつトイレにいっていいのかわからなくなってしまったこともあるのではないかと思ったりもします。私が学生時代には、なるだけ休み時間にトイレはすませるようにといったことを言われて育ちました。それでも授業中に行きたくなったら、先生に申し出れば授業中でもトイレに行ってもいいことは知ってはいても、そういったことで、虐めに発展したり、恥ずかしいことだと思って、授業中我慢したりする場合もあると思います。でも、排泄というのはコントロールするものではないと私は思うのですね。身体が出そうとするものをコントロールしようとすれば、おそらく集中力がかけると思います。そういったことをコントロールできるような器用な身体であるなら、支援学校へ通学なんかしません。。。それと、身体の成長とともに膀胱が大人になってたくさん貯める事ができるようになったり、認知が伸びた事で、自分の身体から排泄されるものが、尿なのか便なのかオナラなのか…。認知が伸びたことで、混乱しているのだろうなぁといったことも彼の中で起こっているのではないのだろうか…。そんな風に思いました。全部推測にはなるので絶対ではありませんが、そういったことも少なからず関係はあるだろうといったことを想像しています。

ただ、一度自立したトイレをおむつに戻すことをためらう気持ちは少なからずあって、その原因が何かわかってから彼の要求を決行するのか、どうしようかと悩んだ時に、

“今私にできることで、何を優先したらいいのか?”

ということを改めて考えてみました。そして、私は息子を信じてみようと思ったのです。きっと、また『おむつ』を卒業できる日はくるだろうと信じ、今一番優先してあげることは、彼の不安がなくなるなら、必要としていることに応えてあげることが、私にできるたった一つの方法だと思って、お金はかかりますが、それから『おむつ』にもどしました。『おむつ』にもどったことで、お漏らしする心配も、トイレでこぼしたりする失敗もありません。それでも、我慢しすぎて『おむつ』から溢れて漏らすこともあります。それがまた彼のストレスになることもありますが、失敗をした時には

「今練習中だから失敗することもある。失敗しても着替えればいい」

といった声掛けをしたりもしています。

元々感覚過敏がすぎるので学校の制服の生地があわないことや、以前通っていた学校は一年中同じ生地の制服でしたので、夏と冬で制服が変わってしまうことも意味がわかっていないようで混乱しているようでした。『おむつ』に戻ったこともあり、制服だと脱ぎ着が難しいようでしたので、私服又は体操服で通学させてもらうようにしました。それついても、おそらく他の生徒さんたちは不思議で仕方ないと思いますし、『おむつ』であることも、誰かに何をいわれているのだろうなぁということを感じられた時があり、夜中にイライラしたり、眠れなかったりすることもあって、そのうち学校へ行きたくない様子がみられるようになったので、

「学校で、お友だちに何かいわれたの? 制服着てないからなんかいわれた? それとも『おむつ』はおかしいっていわれたの?」

というと、イライラが激しくなるので、

「あのね、『おむつ』も制服で行かないのも、それには理由があるからでしょ。だから、それをオカシイといったり、間違ってるっていう人がオカシイんだよ。そんなこという人がいるなら、なんで僕が制服を着ないのかをお友だちに話してもらうように先生にいってみるから。制服着なくても大丈夫。」

といったことを息子に話したことがありました。重度とか自閉症とかそんなこと関係なく、肌身でいっぱい言葉にならない思いを感じているのだなぁと思う場面を感じています。そういった言葉にならない思いをどこの誰になんといって伝えればいいのかの術ももたないなら、きっと歯がゆいだろうなぁと胸が痛くなることがあります。だから、彼がいわんとすることを私が汲み取り、それを学校や施設など私以外の人でも、無理なく誰でもできる方法がないかを模索する毎日です。

息子と過ごすたった数か月の毎日は、私に大切なことを教えてくれます。それらは、一般的には理解しがたいこともあるかもしれません。周りからみれば、一見無駄に思えるようなことかもしれませんが、たとえ一時的に後退することになったとしても、何を一番大切にし優先していけばいいのかは、やっぱり本人が主体的に選ぶことや望んでいることを大切にしてあげることが大切なことだと思うのです。そして、それらが、本人の自主性を伸ばしていくれる肥やしであり『他力』になるのではないだろうかと思うこととなっています。

【完】