ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

私が大切にしていること③

私が大切にしていること②では『プライベートとパブリック』についてのことを記事にしましたがいかがでしたでしょうか? 昨年の夏、発達支援コーチの講座や著書などで、原始反射のことを学んだことから、自他の区別をつけることを身体面からもアプローチできることを知り、自分の自己啓示欲は発達のヌケからも関係しているのだろうと腑に落ちました。それからは自宅で、ボチボチ自分でできることを息子と二人でやってるところですが、なんせ、うちの親子は身体がLD体質なものですから、これがなかなか身体アプローチといえることを行っているといえるのかは不明です(苦笑)自宅でもできることをできる範囲で継続するということも練習になっていますので、いつの間にか発達したとか動きが変わったと思える日がくることでしょう。さて、何事も継続することは大切ですが、自閉圏の人たちにとっては『終わりの概念』を理解してもらうことも大切だといわれていました。今日は、その『終わりの概念』について記事にしたいと思います。

 

『終わりの概念』

何事にも、『始まりと終わり』があり、それらは何かしら違ったカタチで繰り返し行われています。療育施設や講座などでよくいわれていたのが『いつ始まっていつ終わるのか、そして次は何があるのか』この仕組みをワークシステムや自立課題、スケジュールなど視覚的に伝えることになるのだと思いますが、場面の切替が難しいといわれる自閉圏の人たちに『終わりの概念』を理解してもらうのは結構難しいなぁーと思うことが少なくありませんでした。自立課題などで、することがなくなったら『終わり』ということは体感的にはわかりやすいですし、スケジュールのカードを剥がして『終わり』ボックスに入れるなどして視覚的にも『終わった』ことは意識できますが、物事にはそんなに簡単に終れないことだってあるわけですから、これを自閉圏の人たちに伝えることはなかなか難しいなぁと思ったこともありました。うちの子の場合、終れない時って体調不良な時だったりする確率が高いなとは思いますし、『終わり』だとはわかっても、感情は終れないということは当たり前なことだよなぁとも思います。だからいつか、終わることは仕方のないこともあるということを自然にわかるようになってくれるといいなぁと思ったりします。

『終わり』と一言でいっても、この世の中には、様々な『終わり』があります。時間や命、物事の始まりと終わり…など、物事に応じての様々な『終わり』がありますし、その物事が本人が好きなことであれば一度限りの経験の場合には、しっかり終わることが難しいと、また同じ経験ができると本人は期待し続けることになると思います。うちの子が小学生の頃、修学旅行に行った後に「修学旅行いきたい」と何度も何度もいわれつづけ、カレンダーをめくり、次はいつ修学旅行に行けるのかと何度も何度も聞いてくるので、

「修学旅行は人生で2回~3回あります。小学部で1回、中学部で1回、高等部に進学できたら、高等部で1回です。小学部の修学旅行は〇月にいったよね。だから次は中学部でいけるよ。まだまだ先だよ。」

といったような現実を何度か教えました。

そのうち、うちの子は

「家族の旅行」

という言葉を返してくるようになったので、

「家族の旅行に行きたいんだね。家族の旅行は一年に一回行けるかなー?いける時もあるし、いけないときもある。家族の旅行に行くことがわかったらお母さんが教えます。来年いけたらいいねぇー」

ということを要求されるたびに伝えてきました。そして、できるだけ旅行に連れていってあげられるようにしてきました。カレンダーをみれるようになったことで、先の見通しを持ち、待てるようになりました。ただ、楽しみにしていることなので、あまり期待をさせないようには努めています。

一日の終わりや月の終わり、一年の終わり、時間の終わり、物事の終わり…等、様々な『終わり』があることがわかっても、一口に『終わり』といわれても納得してもらえないこともあるので、そういう時には、また次が“ある”のか、もう“ない”のかを視覚的なアプローチで教えてきました。切替が難しい場合にはタイマーなどを使い、時間内に終らせるということも行ってきました。それにあわせて、ソーシャルで言い聞かせるというか、たしなめてもきました。ただ、うちでは、ソーシャル的な言い回しは事実だけを伝えることにしています。

ソーシャルストーリーズを学んだことがありますが、あれって、今思うと、スピリチュアルや占いなどで用いられている、アファメーションみたいなものなのですよね。なりたい自分の未来像を肯定的に文章化するような感じなのです。(個人的見解)それって、自分自身で意識することが大切なのですが、ソーシャルストーリーズでは、当事者本人ではなく、保護者や支援者が書いたりして、それを添削してもらう必要があります。ですから、本人のためになるといえるかどうかといったら、私はあんまりよろしくは思いません。なんでかというと、ソーシャルストーリーズを書く親や支援者の在り方にとても左右されると思うからです。事実だけならともかく、出来事が起きた後に感じた、親の感情や自分自身の感情までも文章中に書くこともあるので、その部分は必要ないことだったなぁと今は思います。何故なら、体験後の気持ちなんて、その時の気持ちを想定できても、本当に想定通りの感情になるのかどうかなんてわからないと思うのですね。“そう感じて欲しい”とか “望ましい感じ方” は単なる保護者や支援者の“感情のおしつけ”にすぎないと思いますし、本人の気持ちを殺してしまうことにもなるように思うのです。だからこそ、添削っていわれるのでしょうけども、添削する人に言語体力や様々な人の感情の動きなどを知っているかいないかでは、とんでもなく恐ろしい『呪いの書状』のようになると思うので、文章のセンスがなかったり、言語体力ない人は習わないがいいと思います。単なる洗脳のようなものです。あっ。なんだか話がずれてる。。。長くなりそうなので、この件は次回にでも。

ただ、うちの子の場合には、『始まりと終わり』『次に何があるのか』がわかっていて、スケジュールや手順書を用いても、なかなか指示に従えないことが多かった時もありました。なぜ、なかなか従えなかったのかは、ほんの数年前に気がつきいたのですが、それまではずっと『終れてなかった』と私は思っていたのです。でもそれらが違うと思った時に、記憶のメカニズムがパラレルなのだなーと思って腑に落ちました。パラレルということは、過去も未来も現在も同一線上に記憶が存在しており、時系列で格納されていない状態なんだなと思ったわけです。だからこそ、1回前の記憶が頼りになり固執してしまうのではないか。そう思ったりしました。

自閉症というか、うちの息子の記憶力には目覚ましいものがあり(←はい。自慢です)彼は、体験した出来事の1回前の記憶をどうやら全部覚えているっぽいのです。どこまで覚えているのかは定かではないのですが、その記憶と同じ場面を好むというか(同じことで安心するのだとも思います。)また、同じ場面だと思っているようで、1回前の記憶と2回目が同じであるかないかでは、2回目の体験をする時に混乱する原因になっていたようでした。その1回前の記憶というのは、何年前とかにさかのぼってまでの1回前の体験でも覚えていたのです。それがわかってからは、1回前の記憶の塗り替えを行うようにしました。例えば、前回はAさんとBさんと3人でお祭りに行き、ゲームをしてリンゴ飴を買ったけど、今回はお母さんと2人でお祭りに行くことやゲームはしないでリンゴ飴とたこ焼きを買うことを伝え、記憶を塗り替えてあげるようにしています。スケジュールや手順書を全部みてもらって、違う所を意識してもらうなどするなどして、記憶の塗り替えをすることもありました。ですから、もし、スケジュールや手順書を導入していて、お子さんがなかなか指示に従えないという時は、前回の記憶を塗り替えをしてあげた上でスケジュールは導入すると、混乱は少なくなるような気がします。

(要するに“物事は変化するのがこの世”ってわかりやすく教えてあげられたら良いだけなんですけども。今の私の言語体力では彼に伝える術を持ちません。)

ただ、体調次第で細かいことが気にならなくなる場合もありますので、いろんな視点から考察することが本人を混乱させないことになると思うので、うちの子の場合ということで、参考までにしていただけたらと思います。

『“始まり”と“終わり”』も『“ある”と“ない”』と同じだと思うので、その概念をちゃんとわかってもらおうと思うなら、大人の私たちも見つめなおすことはあるとおもうのですがねぇーーーー(棒)

と、なんだかまたまたズレているかもしれませんが、今日はこのへんで。