ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

『ある』も『ない』もどっちも知る

雨はあがり、桜も満開になりましたが
まだまだ曇り空。
それでも満開の桜がみれたから
まぁ良いです。
ほんのり香る桜の匂いに癒されます。

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うちの子は失くし物や忘れ物をした時
「あったー!」
と言って、私に探すのを手伝って欲しいと
要求してきます。
発語を始めた時から
「あったー!」
といい、それは変わっていません。
自分の目の前からなくなったけれど
「ある」ということは知っていて
僕の目の前に「今ないのだ」という事実を
「あったー!」という言葉で
私に伝えてきます。
本当に可愛い子なんですよ(^^)←親バカ
うちの子と同じ障害を持つお子さんでも
失くしものや忘れ物を
「ない」時は「ない」と
言えるお子さんもいます。
だからって探せば「ある」のですから
言葉に違いはあれど
「ある」に違いないわけです。

世の中意識高い系の方たちから
たくさん教えていただいた言葉で
「足るを知る」
ということを教えていただいたことがあります。
その当時はさっぱりわかりませんでしたし
腑に落ちていませんでした。
これは「ある」と「ない」にも通じることで
「みえる」「みえない」も同じだと
私は思っています。

私、一個人の思想になりますが
この世で己が体験して初めて
自分の中に感情が芽生え
それらを自分の五感を使い咀嚼できた時
私自身やっと理解できたといえる気がします。
だから、いくら例え話を聞いても
私が感じたことではないから
感覚的に知覚はできても
私には到底理解できてないことが多いのです
体験し初めて自分の感覚に気がつき
他に同じ体験をした人と共感することもあれば
全く違う感覚なんだと思うこともありました。
それに、時間の経過を経て
また同じ体験を繰り返すことで
感情が塗り変わっていくこともありました。

みえない物を好きな人は
それらが好きなのにエビデンスを求める
ように思うことも多々あり
そんな人たちは矛盾を抱えた
中途半端な人だなぁと私は思います。
逆もしかりで
エビデンスが好きな癖に
みえない物へ期待をする人もいて
そんな人たちもまた
安全で無難な生き方しか
してこなかったんだなと思います。
どっちが良い悪いというわけでなく

死にそうなくらい辛く哀しい現実や
このまま死んでもいいくらい
此処にあったー!という現実を
味わったことがない人たちだから

「ある」のに気がつけない
「ない」ことが不幸

だというみえない魔のループに
自らはいりこんでいるのだなぁと思います。

『最高』や『最悪』も自分次第なんですけども
中途半端な体験しかしたことない人には
最上級の『最高』や『最悪』は
わからないと思うのです。
それに、目の前に
最上級などっちかの現実が現れた時
案外どっちも選ばなかった人たちが
つまらない現実を選んでいて
そんな自分に気がついておらず
もがいているなぁと
私は遠い目でみています。
そういう人たちは単なる
損したくない単なるケチで
怖がりなだけなんですけどね。
自分のことはどう客観視しても
わからんちんにはわからないのもまた
他者の鏡の存在として
使命を果たしているのかも...
なんて思ったりもします。
それもまたこの世で体験する他ないと
私は感じています。

使命を指名されずとも
己で見出せると思えるようになったのは
私は最上級の『最高』も『最悪』も
塗り替えて経験したからいえることですし
だからこそ、己の真ん中を探さずとも
自分にとっての心地よさを
知ることができました。
どっちかから学ぶのではなく
どっちも体験することが
ワクワクの世界観や己を知る
1番の方法だと私は感じています。

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