ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-09-21

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-09-21 15:05:02 | ひとりごと

 

答えは自分の中にある

 

正解幻想が少しずつだけどなくなってきた今日この頃ですが

久しぶりに自分も見直すことになったので

ブログのネタにさせていただきました。

昨日、ブログのツィートにツィッター

全くブログの内容とは違うことで質問をされました。

おそらく普通はスルーして良いのだと思いますが

ブログのツィートに関して返信されたのに

自閉症の人はごっこ遊びしないんでしょうか?」といった質問を

そんなこと一言も書いていないブログのツィートに質問されました。

質問の内容が全然違ったので、なぜそんな質問されたのか逆質問しました。

そしたら、


「すいません。自閉症の事を勉強されていらしたら、わかるかな~と。
今、本を読んでいて、自閉症のこは、ごっこ遊びしないとあったからですね。
個人的な質問でした。すいません」


私が答えても同じ質問をどこそこでしてどこかの親切な方が

答えてくださるだろうと思ってあえてきちんとした答えではお応えしませんでした。

なぜなら、著書に書いてある自閉症の特性が全てではないからです。

で、モヤモヤしたので、自分の気持ちの整理ついでに

こちらには自分の感じていることを載せますが

あくまでこれは、自閉症の子どもを持つ親の感じていることなので

これは答えではありませんので、個人的な見解として読んでいただけたらと思います。



うちの子どもの幼少期ですが、

『ごっこ遊びしていたか?』または現在もやっているか?

といえば私はうちの子は『ごっこ遊び』するけどなぁ〜と感じていました。

そこはあえていろんな人に言ったことはありませんでしたけど。

自閉っ子たちの『ごっこ遊び』って

あくまで一般的な子どもたちのやる『ごっこ遊び』とは違っていると思うので

実際自閉っ子たちは『ごっこ遊び』をやってないわけではないと私は思うのですね。

人との関わりを持たない子はしない子が多いと思われてますけど

うちの子は1人遊びの中で『ごっこ遊び』してるように感じていました。

自分以外の誰かとのやりとりって一人芝居でもやりとりはできるって私は思っていたけれど

1人遊びならふくまないってことになるなら

『ごっこ遊び』してないことにはなりますよね。

とりあえず『ごっこ遊び』についての個人的な見解は終わります。


この質問をされたことで、昔、自分も自分の特性と著書などと比べていたことを思い出しました。

そして、それらは私の持っていた

『正解幻想』や『承認欲求』があったなと思い出しました。

以前書いたブログにも似たようなことを書いたことがありますが

当事者の方の著書に書かれている特性や、

発達障害に関する著書に記載された特性と自分の特性が違うことで

「本に書いてある特性は自閉症ではない!」

と声高々に吠える当事者の方が時々いらっしゃっいます。

Amazonの書評にもそういうこと書いてる当事者の方がいらっしゃってて

まるで自分が自閉症の代表なのだと言わんばかりの書評に毎回唖然とします

そして、そういう人たちは自分とは違う特性がある当事者を偽物扱いします

当事者が当事者の特性の違いを認められず

自分とは違う特性を持つ当事者の人に

自閉症じゃなくて〇〇だ!」という人がいます。

同じ自閉症スペクトラムを持つ人たちの特性を聞いて

同じだと感じる当事者の方は全くいない訳ではないし

同じとは感じられない人もいると思っています。

ただ、私の捉え方としては

自分の感じていることを自分の言葉で表現すると違うけど

大きく分類すれば同じ特性であって、

表現の仕方や表出の仕方の違いなのかもしれないと私は思っています。

それと、『自分の特性=自閉症の特性=自閉症の代表』

というように思える発言をされる当事者もみかけるので

それもおかしな話だなとも思っています。

他にも、自閉症スペクトラムだけど著書にある特性は持ってないと思い

自閉症の当事者や関係者に対して答え合わせをする人は

無意識に自分の特性を著書と照らし合わせていて

自分の障害を認められていないのではないかと思うこともあります。

それがいわゆる「承認欲求」というやつで

自分の障害を誰かに認めてもらいたいということだと私は思います

自閉症の診断を受けたなら自閉症でいいし

自分が自閉症と思わなければ自閉症と思わなくていいだけで

他の当事者の特性や著書にある特性と自分の特性を比べるのではなく

社会や誰かに承認されないと自分が認められないように感じるのは何故なのか?が

向き合うところではないのだろうか?と思います。

そして、「自分を認めて欲しい人は誰なのか?」

そこが「承認欲求」の根っこのように感じています。

私が認めて欲しかったのは全てにおいて

後にも先にも『母』だったのだとココ数年で気がつきました。

そして、自分の中にある答えを誰かに聞いてマッチングさせることが

『正解幻想』になるので、人様の答えと自分の答えが同じではなくても

大丈夫なことに気がつけば

少しは生きづらさが解消されると思います

自分が認められたい気持ちも

自分の中にある答えあわせも

外側に向けて探すのではなく

自分の内側に向けることに

エネルギーを注いでみるといいけど

近くの探し物が見つけづらい人は

モロー系かもしれません 笑