ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-06-26

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

_______________
2016-06-26 04:00:33 | ひとりごと

支援のままにわがままに子どもを問題ししてるのはどこのどいつだ!

私はそれなりに自分の障害や病気の事も学び

子どもの障害の事も支援も偏りはあったけれども学んできた。

私が学んだ支援を構築された原点の人たちの障害に対する捉え方は

結構似たり寄ったりに感じたけど、手法は少しずつ違う。

宗教と同じで原点は同じなのに「人」の思想の違いで

促え方や支援方法のスタイルが違っているだけだと私は思っている

ただ、その思想に流されたりどっぷりつかってしまう人次第で

より良い支援のスタイルが如何様にも変化してしまうことだ。

(まるで「悪代官(ギョーカイ支援者)と越後屋(モンペ親)」)

歪んだ認知や歪んだ思想の影響をダイレクトに受けるのは

与える側じゃなく受け取る側

本来与える側というのはただのパイプ役になるだけなのに

歪んだ思想で受け取りそれを与えるから受け取り拒否にあったり

上手くいかない事になってしまうのではないかと思っている

本来あるべき支援が凝り固まった思想の持ち主の手法となった時

どんな良質な支援も「悪」になるのではないかと思う

私たち保護者は支援者の手下ではないはずで、あくまで利用者。

自他の区別がついてないと発達障害の人は言われる事が多々あるが

支援者の方が自他の区別がついてない事も多いのではないかと思うし

支配の元で支援をしてるんじゃないかと思う時もある

療育や教育って本来

子どもを完璧な人間に成長させるためのものなのだろうか?

子どもの問題をみつけるために療育や教育を受けているのだろうか?

療育も教育も子どもの問題をみつける場所でもなければ

正しく完璧な人へ育てるための場所ではないはず。

成長の中で子どもの持つ資質を見抜き、研磨する場所であり

できない事は、できないままではなくて、

どうすればできるのか

どういう風に伝えればわかってもらえるのか

自己成長を促し、親以外の大人が知恵を与えたり

一緒に考えたりする場所なのではないのかな?と思う

それと、同じ支援の方法を同じ支援者から学んでも

受け取る人次第では

手法やテクニックだけを受け取っているだけで応用力がない

そして、何故その支援が自分の子どもに必要なのかを

説明できない人もたくさんおり

学校や療育の現場で一方通行になってしまっているのではないかと思う

例えば、「スケジュールや手順書が何故我が子に必要なのか?」を

果たしてきちんと先生に説明できる保護者がいるのだろうか?

説明してるつもりで、学校の先生や施設に

自閉症だから視覚的なアプローチが得意なので」…とか

「見通しがあれば本人が過ごしやすいから…」とか

そんな事しか説明できてないんじゃないかと思う。

そんな説明だけでは説得力はないと思う。

だって、学校の先生も支援者もそんな事前提で知ってて

当たり前のはずだからだ。

単に保護者の説明不足だし、保護者が印象を悪くしてる事もある。

確かに学校の先生によってもわからんチンはいるけど

おそらく、スケジュールや手順書を使っても

上手くいかなかった経験もあるのだと思うし

使ってみても、保護者がいうほど子どもに結果がみられないなら

学校の先生だって忙しいのだから、やりたくはなくなるよねって思う

しかも、ダメだしされるし…f^_^;)

だから、上手くいかないのを

学校や先生のせいだけにするのもなんか違うよねって思う。

ダメだししすぎてるんじゃないかと思う。

そして、学校や施設がやってくれないと嘆く親もいるけど

支援の方法に完璧を求めてしまってませんか?と思う

大昔の私も学校は何もやってくれないと思っていたし

確かに学校もやってはくれてなかった

でも、先生たちはなんとなしにはやってはくれていた。

ただ、完璧ではなかっただけだ。

私たち親の支配下の元で形だけの支援をとりあえずやってはくださっていた。
(昔の自分を思い出すと本当に恥ずかしくてモンペな親だったなと思う)

それなのに、学校は何もしてくれない…

先生たちは理解してくれようともしない…

そんな風にずっと悶々とした学校とのやりとりを

自分も昔はやってはいたけど

今は私はそれなりに上手くいってる

学校の授業参観で子どもをみてると問題をみつけようと思えば

私なんて、ネガティヴの塊で完璧主義だから

それはそれはいくらでもみつけられる

でも今の私はみつけても、あまり問題視しないようになり

逆に先生からお伺いもあるし

時と場合によってお願いする程度になった

モンペを卒業した(≧∇≦)

なので、訳わからんとりとめのないモンペな一部の親を見たり、

モンペだった当時の自分を振り返ると

「じゃあ、一体学校にどうなってもらいたいの?(どうなってもらいたかったの?)」

「子どもにどうなって欲しいの? (どうなって欲しかったの?)」と聞いてみたくなる

学校がやってくれないなら

自分たちがライセンスでもとるなり、認定講師でもとるなり

プロっていわれるくらいに支援の方法を学んで

自分で完璧にやればいいじゃない?

完璧にやってくれる学校や地域へ引っ越せばいいじゃない?と思う。

要は中途半端なんだよねってと思う。

本来手放す事をすりかえてるだけのように思う

なんのために小さな頃から支援の方法を学んできたわけ?

自分の懐は痛めずに外側へ良質で完璧な支援を求め続けてる親は

果たして自分の子どもの何をわかっているの?

子どもが何ができてなくて、どんな子どもに育って欲しいの?と思うの。

何故、学校でスケジュールや手順書があっても子どもが不安定のなのか

その原因は果たして構造化されてないからなのだろうか?

学校の先生たちが完璧に支援してくれないからだろうか?

親は何も悪くないのだろうか?と私はいつもそう思う。

そういう親程、腹が据わってない。

いつも不安で不安定で自分たちが正しくて

自分の子どもを信じてなくて、できてないと思っている。

子どもと学校を問題視してる。

自分の子どもができてないのを学校のせいにする

子どもが重度だからと子どものせいにする

親だけが頑張ってるだけだと思っている

違う。親も頑張ってるけどみんなそれなりに頑張ってるんだよ。

自分の子どもができるなら

何故できないのかを先生に考えさせるのではなくて

親だって考える必要もあるし、先生を無能扱いして

ウエメセになってる場合じゃないと思う

(一部には本当に何のために先生になったとデスか?
 と問いたい先生もいるけど…)

子どもに結果がでないのを学校のせいだけにするのは勿体ないと思うし

学校や社会が理解してくれないではなく

まず親自身も自分たちが何に囚われ歪んでるのか

負のオーラを醸し出してる自分に気づこうよ!と思う

そしてそんなモンペ親を産み育て増長させてるのは

一部の業界支援者だって事にも

早く気がついて欲しいと思う夜更けデス。