ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-06-19

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-06-19 10:35:02 | ひとりごと

 

正しさは万能ではない

私は小さな頃から正しさがいい事だと感違いしてきた

両親や学校の先生、大人がいう事が正しいと思っていた

大人になった今思うのは「正しさは決して万能ではない」というのが

私の中のいきついた答えだったりする。

生き方やあり方や取捨選択を間違わないような教育を

学校や両親も無意識にしていたのかもしれないし

私自身が小さな頃から間違うことが嫌だったという事もあったのかもしれない

でも、今は正しさが決して良いといえない事もある

自分の中にある悪があるのに表に正しさを掲げてしまう事で

思ってる事と表出している事がチグハグに感じてしまう事にもなると思う

自分にだけ正しさを求めるのはまだ良いが、

大抵、自分に正しさや間違いたくない人は自他の区別がついておらず

他者へもその正しさを押し付けている人が多くないだろうか?と思う

他者の間違いを許せないのではないだろうかとも思う。



私たちは生まれてから死ぬまで、選ばない日はない。間違わない日はない。

選べない事はあっても選ばない日なんてほとんどない。

間違わない事があっても間違ってしまう事もある。

朝目が覚め、それから起きあがるのか、二度寝するのか…

そこからさえ私たちは選んで生きている。

取捨選択は朝起きて夜寝るまでずっと続いている。

その選択に正しさを求めていたら息苦しくないのだろうか?

私は自分の「正しさ」に折り合いをつけれるようになったので

私の選択がたとえ間違っていても、私は自分の気持ちいい選択を大事にしている

大好きな人や尊敬する人と私の答えや選択が違っても

私の気持ちのベストな答えを選べるようになった。だから今とても楽だ。


以前母が私の幼い頃の話をしてくれた中でこんな話がある

私がまだ幼少期の頃。

その日まで、私と弟の洋服は母が全て選び用意してくれていた

ある日、雨だったのか理由はわからないが、びしょ濡れになった私に着替えるようにといった

ある程度時間が経っても私が母の前に現れないので、母が私を見に行くと

私はパンツだけで洋服も着ないでその場に立ちつくしていたのだとか。

「なんで着替えないの?」という母に「何着ていいかわからない」と私は答えたそうだ

母はこの日を境に、私と弟の洋服を母が選ぶ事はやめ、

洋服は自分で選ばせるようにした。という話をしてくれた事がある


取捨選択ができてない自分に気がついたのは数年前だったと思う

私は大人になっても自分が選んだものを母にオッケーをもらっていたのだ

というのも、自分が良いと思って決めても、

いつも母や周囲にダメだしされてきたり

なんだか白い目で見られる事もあったり、馬鹿にされていたので

自然に最終チェックをしてもらうのが癖になっていた。それが普通だった。

それと、周囲との感覚が違う事が自分の心地よさよりも

選択したモノに正しさを求めるようになったのかもしれない。

(これまた言い訳でしかないのだけども…)

友だちのお母さんが末期の癌だとわかった時

私は初めて自分の親がいつか死ぬことを考えた。

母がいなくなったら、私は色々と相当困る事になるだろうなと思った時から

私は取捨選択の練習をしてきた。

他者との答えの相違に折り合いをみつけた。

おかげで、今は正しい選択というより、

今の自分にベストな選択ができるようになっている

自分が親になって思うのは、子どもが成長していく時に、

赤ちゃんの頃から失敗させないように

子どもが痛い目にあったり、辛い目に合わないように…

という関わり方をしていたような気がする。

育て方、育っていく過程にさえも

正しく育つように、真っ直ぐ育つように、間違わないように…と。

振り返るとそういう子育てをしていたなぁと思う。

女の子だから…、男の子だから…で選択の幅も変われば選択する中身も変わる

選ばせてるようで、案外、取捨選択を誘導している事も多いと思う

完璧主義な人ほど、取捨選択に正しさを求めるように思うし

失敗させないような、または失敗しないような選択をさせている事が

多いのではないだろうか?と思う

そして、自分だけにだけでなく、他者にもその「正しさ」を求める

正しさがいい事、完璧にできる事がいい事、間違わない事がいい事だと

感違いしている人ほど、生きづらくないだろうか?

選択に正しさなんてあってないようなもの。

答えなんてあってないようなもの

自分の選択に自信がなく他者の選択に正解を求めてしまうのは

自分が責任を取りたくないという無意識も働くのだと思う

他人軸で決めたら、〇〇さんに言われたから…という言い訳ができる

でも、よーく考えてもらいたい。

他者が選んだ選択でも、結局自分が選んでいる事になるのだ

いくら誰かに言われて選んだ選択だとしても、

最終決定をくだしたのは自分なのだ。

もしそれに気がついてない人は、早く気がついたほうがいいと思う

栗本さん曰く、取捨選択しづらい身体があるそうで、

その鍵は足首だと仰られた。

取捨選択ができない人は身体レベルでわかるようです

身体は本当に自分に正直ですね