ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

はてさて、本日から長月。

Septemberであります('◇')ゞ

台風9号が近づいており

明日は満月の大潮。。。

はてさてどうなることでしょうか。

 

▼いつかの空。横顔みたいですよね 笑

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さて、先日、初めての有料配信なる体験をしました。丑年生まれだけに、KING GNUさんたちのLIVEです。はい。もう最高に良かったとです。ヘッドフォンで聞きながらぎゃーぎゃー声が溢れてしまいました( *´艸`)


 益々、本物のライブに行きたくなってしまいました。ああ、でもライトのピカピカとかに実は弱いんですね。私。というのも「てんかん」があるからなのです…


 いやー、今年で47歳になるのですが今年になってわかったんですね。どうりで、「大分うみたまご」の海月ブースでライトアップされたライトの色が寒色から暖色に変化していく時に、赤いランプになると身体の平衡感覚が失われ倒れそうになるので「おかしいなぁ」と思っていたことがようやく解明されたのでした。


 それは、幼い頃事故にあったことで、救急車にのらなきゃいけなかったからなのか、パニックになったことが原因かも…なんて思ったりもするのですが、とりあえず、RGBの赤い色に弱いみたいです。


 基本的には、蛍光灯の光も眩しく感じるし、最近はLEDなので更に眩しく感じちゃうので苦手ではあるのですが…。今度はサングラスで実験してみなきゃデス。ただ、サングラスといってもうすうすな色じゃないと、色が平坦にみえてしまうことによる不具合がおきるので、紫外線カットだか偏光グラスにしたほうがよさげ。とりあえず、今はそれよりも先に購入せねばならぬものがありますしね。


 過敏体質を自慢しているわけではないのですが、自分ではわからない部分で刺激になっていて、自分にとっては良い刺激なんですけど、それらを身体が受け付けられないっていう、そういった不具合がある私みたいなタイプの人には

配信ライブっていう手段は、自宅だったりすると自分で調整しやすいので、大変助かります! お値段も普段のライブからすると格安ですし。

 

 それでも、不具合が起きやすい体質の私にとっては、お値段以上それ以上なのでなんだか、有難い限りです!!! 

※こちとら、ふだんから24時間365日無料配信してるけどね。おまけつきで(棒)なんつって。

 

 ライブ配信で予測がつくような体質になれば、不具合にもなりづらいかもしれませんので、こればっかりは、体験してみないとわからにゃい。ふむ。

 

DA・KA・RA

コロナちゃん早く

収束して!!!

 

きょうはこのへんで…

 

今日の空

猛暑続きな日々も

少し落ち着くのでしょうか?

台風8号はこちらへは上陸することなく

通り過ぎようとしています。

それでも日中外を歩くと

汗だくになりますけど…

 

▼ヘアドネーションで寄付した髪が届いた模様。早速手帳に貼りました!

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〝NOTE〟や先日の〝今日の空〟で「死生観」をテーマにした記事を掲載したのですが、そういえば、「死」を意識するようになったきっかけってなんだったかなぁと考えてみたら、中学生時代に理科の先生がビッグバンの話を授業中に話してくださった時、その日の夜は怖くて怖くてなかなか眠れなかったことを思い出しました。

 それがきっかけになったことから中学生時代に「死」に対する恐怖心を打ち消そうとしたり、怖がりな自分がかっこ悪くてというか、そういうことを誰に聞けばいいのかもわからず、保留案件にしていました。

 その当時の私は、自分の頭で理解し解決できないことは一旦〝捨て置く〟ことが、私なりの戦略でもあったからです。

 ただ近しい「身内の死」は全くなかったワケではないのですが、高校生の時、部活の顧問の先生が自死で亡くなったり、中学時代の同級生がバイクの事故で亡くなったり…。で、その当時の私は、ファッション誌よりも占いのほうに興味があったので、その当時買っていた雑誌は占いの雑誌だったんですね。

 で、その雑誌の付録がタロットカードだったので、興味本位でタロットをやってたら死神のカードがでちゃって、そのすぐ後くらいに同級生の子がバイクで事故死をしてしまったのがトラウマのようになってしまって、タロットカードはしなくなりました。ルーン占いとかもやってたんですけど、あれ、捨てちゃったかなぁ。

 まぁ、とにかく私はものすごく怖がりだったんです。今の私はお化けは全く怖くなくなりましたが、30代までは、お化け関連の映画なんてみれなかったし、興味本位でみていた「世にも奇妙な物語」でさえ、背中がなくなるくらい怖くて毛布にくるまりながら背中を壁につけたりしないと観れなかったくらい怖がりでしたし、遊園地のお化け屋敷なんて、怖くてガタガタブルブルしていたくらいです。

 ただ、30代後半に閉鎖病棟へ入院することになったのは、プライベートでもパブリックな場面でも人の中で上手く立ち回ることができなかったことから

『お化けより人間のほうがよっぽど怖い』

って思うようになり、現在は全くといっていいほど幽霊案件は怖くなくなりました。お陰様で、お化けが視える界隈で噂の「ちっさいおじさん」ってやつを視ることができました。2度ほどですが。本当に隙間にはいってらっしゃるものなのですね(笑)

 あっまたズレたので話を戻しますデスです。

 高校時代に美術部の顧問の先生の自死と同級生が事故死したことの後にも、親族以外の割と近しい人の突然な死をみなきゃいけないことがあって、当時仲のよかった友だちのパートナーが事故死するというようなことも傍でみてきたわけです。

 大きな喪失感を抱えながら生きていた人たちを支えるなんてことは、自分にはその当時できませんでした。

 そんな矢先、自分の身内の祖母が癌で亡くなりました。幸いといっていいのかはわかりませんが、癌が発覚した時には末期だったので余命が半年もなくて、母が祖父母宅で看取りました。祖母が亡くなったのは阪神・淡路大震災が起きた二日後でした。

 亡くなる2週間前は私も祖父母宅で寝泊まりしていたので、祖母の状態を少しだけ覚えていて、魂が肉体から離れているのだろうなぁということを身をもって体験しました。まだ、その当時は怖がりだったので、その場に直面した時は((((;゚Д゚))))ガクガクブルブルものだったのですケド…。

 その後も、また友だちのパートナーが亡くなったり、昔付き合っていた元カレが新聞に載るくらいの大きな事故を起こしたけど命はとりとめた…とか。高校の同級生も社会人になり、まだ二十歳を迎えてもいない頃に、事故死したり半身不随になり車いす生活になった人たちもいましたし、地元の後輩の子で、自損事故を起こし、下半身不随になった子のお見舞いにいったら、案外元気だったけれど、「リハビリはしたくない」という始末。

 そういったことがあるたびに、私の中で「生と死」の問題は、脈を打つように年々じわじわと大きくなっていったのでした。

 そんなこんなで私も結婚をし息子が産まれたころにはその問題は薄れというか、考えないようにしていたような気もします。お金に困っていたわけでもないし、仕事ができてなかったわけでもなく、パートナーもいて、今の私と真逆な状態だったのに、不足感(満たされない気持ち)がどこかあったんですが、あの当時の私より、持ってないもののほうが多いのに、それなりに満たされている自分もこれまた滑稽だなぁと思う今日この頃です。

 ああ、またずれた。で、再度「生と死」についてしっかり向き合わなきゃって思ったのが、閉鎖病棟へ入院し元気になっていくにつれ、自己啓発やスピリチュアルなことを改めて調べたりするなか、西洋星占術の著書を読むようになって、自分探しに活用させようと、そちら方面でも調べていた時に、その当時友だちだった子の太陽星座が「さそり座」だったんですね。で、その友だちとあまりにも気が合うし、仲がよかったので、その子との関係性などを調べる中で、「さそり座」という星座のキーワードが「生と死」ということに気がついて、それからは自分のテーマにもなった経緯があります。

 で、自分の運命があまりにも奇妙だし、不思議すぎるので意味付けとかしたくって、リアルな友だちやこれまでに縁のあったキーパーソン的な人たちの星座を調べてみたんですね。

 中学時代の同級生で私にトラウマの種を植え付けた人や苦手なというか嫌いな人が「さそり座」で、中学時代から大人になっても仲が良かった子や大人になって友だちになった人も「さそり座」だったんですね(笑) 

 キーワードが「生と死」。で、私の場合には、「仲が良い友だちか合わない人」か。ようは、白か黒かの真逆な関係性だったことに気がついたわけですね。それに気がついた時は本当に可笑しくて、お腹を抱えて笑ったくらいです。ええ。

 そして、今年になって、ベランダから夜空を眺めた時、目の前に見えていたオリオン座がさそり座に変わっていて、ハッとしました。それと同時に私の中で何かが剥がれ落ちていくように、大きなことに気がついちゃって久しぶりに胸がざわついてちょっと大変です(笑) 

※なんだか覚書程度なので、イミフな文章でもいいか。。。

 

きょうはこのへんで

今日の空

朝夕ちょびっとだけ涼しくなったよな

気がする今日この頃ですが

みなさまお住まいの地域はいかがですか?

最近夕方になると突然風が強くなり

雨が降るか?と思いきや

パラつく程度で終わっておりましたが

昨日はちょっとだけパラパラ降って

久しぶりに虹をみることができました。

そんなことが嬉しい47歳

まだまだお子ちゃまです('◇')ゞ

 

▼天気の子みたいな虹のアーチじゃないですか?これ!

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昨日は旧暦の七夕で上限の月だったらしいです

織姫と彦星は会えたのでしょうか?

現在絶賛コロナ禍中で

老若男女問わず

「 会いたい人に逢えない 」

って、まるで織姫と彦星みたいなものだなぁと

そんなことを思うと

ありきたりな毎日がなんとなく彩られますね

それは悲しさとか切なさとか愛おしさとかを

醸し出すスパイスになってはいるのでしょうけれど

いい加減にして頂戴っていう

静かな怒りも沸々と湧いてきます。

 

我が家は、コロナ禍になる前から

「新しい生活様式」っぽいことを行ってたので

あまり違和感がないことが多く

子どもが行動障害が起きていたり

私が五感が過敏だったりすることもあって

基本的に人込みをさけた行動や

他の人たちの行動を予測して

早め早めに行動をすることを心がけていたことが

「ソーシャルディスタンス」という語彙になっただけで

今まで我が家がやってきたことは

そのまま活かされている現実なので

そういったことがストレスにはならないのですが

外食や外出の制限が長く続くのは

ストレスを感じるようになりました。

というのも、車を手放したからでもあるのですが…

 

私からすると、なんでも持ってる人ほど

捨てることを拒み、まだまだ足らないと欲する

そんな人たちなのだと思うことになっておりますが

何も持たない、捨てるほかないことを

実体験しなければわからないのも

人間だとは知って身をもってわかっていても

体験中だったりそれらが過ぎ去った人には

滑稽にしか映らない情景は

夏の終わりの夕立のようなものだなぁと思いつつ

それでも、夕立が終わった後

2重にかかった虹が見られた時は

何かを越えた人にしかみれない

奇跡のような体験もあることを

改めてしみじみ感じることになってます。

 

きょうはこのへんで。

 

今日の空

もうどうしようもないくらいの暑さ
こんな暑い日が続くと
ビールが美味しいですね。
でも、もう飲んだら
身体が痒くなってしまう始末…トホホ

束の間の夏休みが終わった方
そして、これから夏休みの方
夏休み返上で働いている方
エブリデイお休みの皆様
残暑お見舞い申し上げます。

 

▼新米にとれとれの小鯵を漬けにして漬け丼にしたらウマウマ

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 一昨日(8月15日)は終戦記念日でしたね。戦後75年。まだ経った75年しか経っていないのに、目ざましく経済成長し、いつの間にか先進国といわれていた日本が、気がついたらなんだかな日本になってしまっていた。

 そんな危機感を感じ始めたのは数年前からでしたが、自分自身のことを振り返っている時に、ああそうか、あのバブルがはじけた時、本当は気がついて軌道修正していたら、少しは違う日本になっていたかもしれないなんて思ったこともありましたが、もう過ぎてしまった時間を取り戻すことはできませんので、自分の生活の中でささやかながらもできることをやってみるほかないなと思う今日この頃です。

 8月10日の「今日の空」の記事は7月中に私が取り組んでいたことを掲載していますが、その中でNOTEに掲載している「私の死生観」という記事をこの記事より先に読んでいただいた後で、この後の記事を読んでもらうと、よりわかっていただけるかなぁと思いますので、まだあの記事を読んでない方は読んでみてください。(ああ、順番はどっちでもいいとは思うのですけれど…。)

さて、ここからが本題です ↓↓↓↓↓↓↓

 私は、ある時期に〝こんな世界なら生きる意味がない〟と思い『そんな思いを抱えたまま、これからどうやり過ごしていけばいいのだろう…。』と思いながら日々を過ごしてきました。

 自分の場合には、他者に勝手に期待をして裏切られたり、信じていた人に裏切られたり、幾度となく〝喪失感〟を味わう事態に見舞われる中、自分なりに試行錯誤したものの、実際には生活が苦しくなる事態にも追い込まれました。現在、唯一の友だちといえる人から「普通なら自死するくらいのことを乗り越えているよ」と褒めてもらったこともあります(苦笑)

 2016年の熊本地震後、2009年あたりからなんとなく感じていたことを改めて思い知ることとなり、自分の中だけではありますが〝確信〟にいたったことで、自ら孤立しました。そうすることが自分だけでなく、周囲の人たちと無駄な戦いをせずにすむし、私にとって意味のある戦いをすることを覚悟した日にもなったように思います。

 最初は周りの人たちを傷つけないように、巻き込まないようにする戦略だったはずでしたが、一番の敵が実は一番身近な人たちだったことに気がついたんですね。もーその時は〝恐ろしさ〟とか〝悔しさ〟とか〝怒り〟が入り混じり、腹がたってしょうがありませんでした。『これまで自分に関わっていた全員の人生を滅茶苦茶にしてしまいたい…』と思うくらいの憎しみが沸きましたが、そんな憎しみを相手に向けたとしても、ただの自滅と同じです。 だからこそ、その〝恨み〟を昇華させるには、泣くしか術がありませんでした。息子と一緒に住んでいたので、押し殺して泣くのが大変だったくらいです。

 〝私〟という人間は、人を恨む気持ちは芽生えても、その時々の自分に腑に落ちる言葉がみつかれば、自然に昇華されます。 そのかわり、その人たちは私の中で生きているけれど死んでいるのと同じ状態になります。なので、実際リアルに〝やりとり〟している人たちだけが、私にとっては生きている人類な程度にしか思えなくなりました(笑)

 あっでも、ちゃんと生きている人たちだと認識していますよ。それと、幽霊さんたちと視え方は違うので安心してください! 幻覚や幻聴は頻繁にはありませんが、それらがあっても、私にとってそれは日常ですし、それらに囚われることなく生活できておりますので。(キリっ)っていうか、当者比になりますが、人類よりも助けてもらってる存在な気がすることもあるくらいです。

 これまでは、悪意があろうがなかろうが腹がたった相手に対して、仕返ししないことが私の中では美徳だと思っていました。でも、それじゃあ私がこれまでやってきたことがすべて水の泡になってしまう。それと、私の想像している陰謀論みたいなことが、もし、本当ならば、絶対死んではならない。

 何故なら、私のような思いに飲み込まれて自死することを選んだ人たちがいたかもしれないからと気がついたからです。なので

「死んでたまるかー!」

といった思いが溢れたことでどんなことがあっても、自死しようという思いにかられることは完全に消え去りました。

 ですので、私が早死するときは、病気や事故にみせかけ他殺されるか、本当に病死するか、寿命か。になります。断言しときます。なので、このブログがもしかしたら、遺書のようなものになるかもしれませんのでいっそのこと本心を綴ることにしました。あと、この後、復讐のネタ晴らしもします。うふっ( *´艸`)

 私の最終的な復讐は『お葬式はしない。お墓にも入らない。戒名もいらない。塔婆もいらないです。』 ただ、息子にとっては必要かもしれないので、私の写真と位牌だけをどこかのお寺に置いておいてもらえたらいいなと思っています。

 なぜなら大抵の人たちが、懺悔しにお葬式にきて、自身の罪悪感をお経に盛って妖怪可哀想化しているかもしれないんだなぁと気がついてしまったからです。もちろん、きちんとした意味で弔っていらしゃる方も存在するかもしれませんが、大半が自己満足な洗礼を受けにお葬式にくるのだろうなぁ。と思ったんですよね。だからこそ、私が死ぬことを喜ぶことはあっても、私が死ぬことでその人へ過去に行ってきたアレコレを懺悔し、自身の中にある罪悪感を満たすためにお葬式にくるなら来てくれなくていいって思ってるんですよね。で、そういう人たちのためには、お葬式をしないお参りをしてもらわないことが、そういう人たちへの復讐になるんじゃないかって思いついちゃったんですよねぇ。えへへ。あっ。でも死んでくれたほうがホッとする人はいるでしょうけども。ただ、そういう風に思う人はサイコパス確定だと思う(笑)

 正直言って、私はずっとずっと昔から腹がたっていました。何かが起きたことでしか自分の大切な人のことを大切に思えないんですよね。その人が死んでからとか、その人が死にかけたり、余命宣告されたり…。そのような状況になって、初めて、過去に自分がした罪悪感をなんとかしたくて、お見舞いにいったり、お葬式で花を手向けるなんて…そんな人のほうが多いんじゃないでしょうか? 私は心当たりがあります。だから、そういうのって、ただの自己満にしか私には感じないんですね。

 人が病気になったり、被災したことで、その人の存在を思い出すことは誰しもあることかもしれません。が、だったら何故、その人に連絡することを先延ばしにしているんでしょうか? 謝罪することだって、ケンカだって、互いに元気な時じゃないと意味はありません。相手との会話の中でしか、本来解消されないことを満たすには、一旦噛み合ってなかった物事を噛み合わせることを行わなければ、解決できないからです。だから、嘘は嘘を積み重ねることになるでしょう?

 それと、亡くなったことでしか思い出されない存在って〝あなたにとって本当の意味で大切な人だったの?〟と問うことってないんでしょうか? 

もしそういったことを感じることなく、お葬式にでることで、故人との様々な物事への罪悪感を満たすために葬儀を利用している又はしてきた人がいるとするなら、私は自分のお葬式はしてもらわなくていいなって思ったんですね。現時点でご縁を大切にできていないようなものですし。お金もかかるし。ただ、お坊さんには悪いので、お経だけ挙げてもらいお布施はしてもらえたらいいなと思っています。

 それに、実は、死ぬときに〝髪の毛一本〟〝骨一本〟残すことなくこの世を去りたい。それくらい人間に生まれたことが嫌になったんですよね。ここ数年の出来事で。後、この世に私という人間が存在していたといった証がなくてもいいし、記録も残らなくていいなって思ったのですね。ただ、こうしてブログを残しているのは、たった一人の息子のために残しているだけです。そして、私のことを死ぬ日まで生涯覚えていてくれる存在は息子がいることにも気がついたので、息子以外の人の記憶に残らなくても私にとって忘れられてしまうことは問題でもないんですよね。人の記憶から消えることが、その人にとっての本当の意味での死とか言われますけど、私にとって、そんなことたいした問題じゃないんですよ。だって、あの世って経験したことないですもん。それに、輪廻転生が本当にあるとするなら、また生まれ変わった時、今現在の私のことなんて覚えていないわけですから。

 自分にとって大切な存在なのかどうかも自身でさえわかってないのに、なんらかの出来事が〝きっかけ〟で、自己都合だけでしか連絡をとらないようなそんな人って、なんなん?って思うわけです。人とのご縁を大切にしているなら、日々の他愛ないことも大切にし、もしそのご縁が切れそうになるなら、それなりの対応をすると思うんですね。私は、それを一方的に切りました。で、正直言ってああ、あんなご縁だったなら、全員切れてよかったなぁ。だって、私のこと大切にしてくれてなかったし、私も大切にできていなかったもん。そんな風に思ったんですね。

 それと、今回のコロナ禍で、思春期時代にウィルスのことを理科の授業かなんかで知った時、に感じた「人は地球にとってウィルスみたいなもの」と思ったことがあって、そんな思いが決定打になったように思いましたし、未知のウィルスを排除することだけに囚われ共存できない人類こそ未知のウィルスじゃんよねぇ。って思ったんですね。

 ただ、悪いことだけでもありませんでした。そのかわり、思春期の頃から一番嫌だった自分の悪癖が一般的なくらいに落ち着きました。それに、息子とのやり直しの日々は宝物になっています。私にも「人を愛する気持ちはある」んだと思うことになりました。ただ、やっぱり、人類に生まれたことがすごく嫌でたまらなかった思いは強くなりましたね。だからそんな自分を律しないと…その律しかたを今現在模索しています。


 後、前述で、髪の毛一本残したくない気持ち…と綴っておりますが、3年くらい前から久しぶりに髪を伸ばしていて切ろうかどうか迷っていた時、ヘアードネーションのことを知りました。実は、私の従妹で若く亡くなった子がいて、その子は小学生の頃から小児癌で入退院を繰り返していました。

 抗がん剤治療もおこなったり、最終的にドナーがみつかり移植もできたのですが、息子が生れる2か月前のクリスマスに亡くなったんです。 従妹だけど、離れた場所に住んでいたので、彼女や家族がどれだけ病気と向き合い治療してきたのかは、よく知りませんでしたし、母も詳しいことは教えてくれませんでした。

 私も深く聞くことはしていませんでした。うちの親はいろんな話を聞いていたかもしれないけれど、治療の大変さとか彼女がどんなことを考え毎日を生きていたのかは知りません。もし、近くに住んでいたとするなら、頻繁にあったりして、小児癌で苦しんでいる子どもたちのことへ思いを馳せれたかもしれませんし、当時は、まだ臍帯血移植はできるようになったか、認可されたかされる前くらいだったので、もっと早く臍帯血移植のことを調べていたらよかったなぁ…と、とても後悔したことがありました。

 

▼切った証拠写真(60グラム)

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 なんで私っていつも後で気がつくんだろうって思って。そんな後悔してたことを思い出したこともあって、ヘアードネーションのことを知り寄付することにしました。髪の毛一本残したくないという気持ちは矛盾しているけれど、これくらいの矛盾はいいやって思い、約3年かけて伸ばした髪を今年のお誕生日の7月に切り、ある団体へ送りました。使っていただけていると嬉しいです。

 もう年齢も中年だし、白髪も多いので、最初で最後のつもりで寄付しました。なんで、もっと早く知ろうとしなかったんだろうと思い、興味関心が狭い自分自身をこうしたことからも思い知らされるワケですが、生活保護の身の私でもできることがあったことは、ささやかな喜びにもなりました。これもエゴになるかもしれないけれど、本当に必要な人の下で私の髪が活かされているといいなと思います。

 

ああ、そして、私のことを嫌いな人や恨んでいる人たち

 

生まれてすみません"(-""-)"

 

ということで、上記の理由があることで、私はお葬式を望んでおりません。お葬式しないでね頼むよ弟よ!大丈夫!祟ることはなかけん!

 

きょうはこのへんで

今日の空

今日も暑かですね。

っていうか、風が強ひ…。

朝早く目が覚めたのと

台風〝チャンミー〟が通過するので

朝から雨かと思いきや

なんだかいいお天気。

雨に降られる前に

ちゃっちゃと洗濯物を干し

ラジオをお供に

ゆっくりしている我が家です。

 

▼お年をめした谷川俊太郎さんでも、まだ理想のアップルパイに出会えていないそうです。ちょっとクスッとしました。

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谷川俊太郎展は只今熊本市現代美術館にて開催中(~9/6日まで)

www.camk.jp

 はてさて、本日の「今日の空」は、一昨日の「今日の空」に書こうと思ったけれど、なんだか書ききれなかったことを…

 

 7月は我が家にとってのおそらく今年一番のメインイベントといってもいいくらいのことを控えていました。そして、自分のお誕生日の月でもありました。そして、はてなブログをさぼっていたけれど、NOTE、TwitterInstagramでは、ぼちぼち活動しておりまして、はてなブログだけがとまっていただけなのでした。ということで…

 

〝NOTE〟で新しいマガジン「イマサラなイマソラ」を作りまして、Iphoneで4年程撮りためていた空の写真が主役の写真を日々掲載しまくっていました。でも、やっぱりIphoneなので、写真を大きくしちゃうとバレちゃいますねぇ。。早くデジカメが欲しいです。ということで、私が日常生活の中で撮った空の写真4年分がみれるのは…

コチラ↓↓↓↓↓↓↓↓

note.com

 あと、Twitterは、日々の実況中継でつぶやいていることがおおいのですが、何を起点にその言葉が発せられているのかは謎だと思われるので、イミフなことが多いのですが、時々、ツリー化して自身の過去のことや発達障害のこと、そして、短歌もアップしています。いや、365日続けようと思ってのことでしたが、なかなか日々アップすることを怠ってしまっています。

 

 イチニチ一回何かに思いを馳せながら短歌にすることはなかなか私には難しかった。。。とりあえず、夏休みの宿題のように、数日前にさかのぼりながら思いを馳せたものをツィートしている今日この頃です。ただ、ツィッターは本当にありのままな自分をさらけ出しておりますので、こちらにリンクさせることは控えておきます。気になる方は、[ sorahitoumi ]でググってみてね('◇')ゞ

 

で、先にあげた〝NOTE〟では2年前から言語活動も行っておりまして、詩・エッセイショートストーリーなどのマガジンもあります。(下記がリンク先になります)

 

【言の葉あそび】

【心の聲を扉の向こうへ】

【保護日和】(途中止まっています)

 

そんなにマメには更新できていませんが、無料なので、お暇な方は覗いてくださると嬉しい限りです。

 

そうそう、この3つの中の【心の聲を扉の向こうへ】に最近アップしている「私の死生観」についての記事があるので、明日か明後日のブログの前置きとして、読んでいただいておりましたら嬉しいです。これのサイドストーリー的な話をはてなブログに掲載しようと思っています。ただ、期待はしないでください。

 

note.com

あっあと、インスタの活動もしております。で、昨日、めざましテレビの企画で髭男さんのHELLOチャレンジ用の動画を考えてつくってみました。うーん。下手ですけど。

なので、お暇な方はどーぞ

 

Instagram

www.instagram.com

ということで、7月に何していたかの大まかな説明でございました。

 

世の中お盆休みですね。皆様、断3蜜・熱中症に気をつけつつ、暑くて短いだか長い夏休みを楽しまれてくださいませ。ではでは、きょうはこのへんで…

今日の空

長い梅雨が明け、夏が来たと思えば

猛暑、猛暑、猛暑。。。

もういいっしょ…(*´ω`*)

といった、おばさんだけど

おやじギャグが鼻からでそうなくらい

猛暑が続いていますが

皆様ご機嫌いかがでしょうか?

 

▼近所の川に亀がおったとです

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気がつけばもう八月の初旬。

7月はブログを休んだつもりはないけれど

1ケ月一つも記事を書いてなかったことに

気がつきました(笑)

 

いや、あのですね、そのですね。

いろんなことがありすぎて

気持ちの整理ができなかったというか

NOTEに夢中になってました。

あっ〝ツィッターで短歌〟も行き詰っている。。。

 

自分に負荷をかけることは得意なのですが

やらされてる感な風を感じると

逆らってしまう体質なようで

筆がとまるわけです。

 

自分がやりたいことは

お金さえあれば、なんとかなるんですけど

今、それができないので

前に進めていないだけなのです。

 

なので、前に進めるには

自分がどこを目的地にすればいいのか

わかってても

その目的地の場所が

特段、必要のない場所なら

私にとっては、今現状は

鬼門みたいなものなんですね。

 

で、一度行ったことがあっても

自分一人で行動できない状況なら

行きたかったとしても〝行かない〟選択する

人格なんですよね。うふ( *´艸`)

 

で、自分は〝こだわり〟が強いし

〝執着〟も強いけど

興味・関心が向かなければ

〝こだわり〟も捨てられるし

〝執着〟してたものでも

わりと楽に手放せちゃうんですね。

 

ああ、そして、書こうと思ってた

内容じゃない。。。(;_;)

時期尚早じゃなかったのカモ…

 

ということで、書きたかったことは

明日のブログに書きます。

とりあえず、きょうはこのへんで…

今日の空

一昨日の火曜日の梅雨の晴れ間に

外に洗濯物を干せたので

洗濯物がぱりぱりに乾いてくれて

すんごく助かりました!

神様ありがとうございます!

車を手放したので

コインランドリーに行くのも

買い物も一苦労なので

雨が降らない日があると

とってもありがたいです。

そして、久しぶりの青空も満喫しました。

 

▼梅雨の晴れ間の青空。鳥にみえませんか?

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さて、私は元々いい子ちゃんなので

ズルいことができません。

いろんなやり方も知ってるし

想像力は豊かなので抜け道も浮かんできますが

それなりの〝リスク〟があることを

最終的に気がついてしまうんですね。

だから、ズルいことができない私に対して

周囲の人がそこまで真面目にならなくても

〝これくらいいから…〟的な目論見を

肌身で感じてるんですけど、

私の勘違いであって欲しいデス。

 

 

〝みんなもやってるから大丈夫〟

〝あなたがすればみんなも
 許されるようになるかも…〟

 

そういうことを直接いわれたわけでは

ないんですけど

なんとなく感じてしまうので

断固として、拒絶をし

『負けてたまるか!!!』と思い

心の中で人差し指を立てながら

笑顔で挑んでいます(^_-)-☆

最後の帳尻合わせは

当事者本人だってことを

周囲の関係者又は支援者は

ついつい忘れがちですね。

越えなきゃいけないハードルや梯子を

外すことができても

その人の心の中にある

ハードルや梯子は

そんなに簡単に消えないものなのですけど…。

臨界点を越えることなく

やりちらかさずになんとかやってこれた人たちや

ズルい生き方でなんとかやってた人たちは

いつかどこかで誰かに

尻ぬぐいしてもらってきたんでしょうね。

痛み入ります。

昔までは、それでよかったことも

現在だからこそ、見つめなおさなければいけない

そういう時代に差し掛かっていることを

数年前から肌身で感じていましたが

はてさて、私と同じように感じている人たちは

いったいどれくらいいらっしゃるのでしょうか。

 

さて、今回、なんども心の中で

〝人差し指を立てて〟おりましたが

〝人差し指を立てる行為〟っていうのは

〝中指を立てる行為〟の代替えです。

別に中指を立ててもいいのかもしれませんが

自分が高校生の頃、

ヤンキー集団の男の子が

何もしてないALTの先生に対して

冗談で中指立てちゃったら

先生怒り心頭になられて、

それでも、先生はその怒りを抑え

授業を続け、何故自分が怒っているのか

そして、気軽に中指を立てる行為が

人を侮辱する行為だけでなく

何故ダメなのかを

私たち生徒に教えてくださいました。

あの経験は私にとって

初めての非言語で教えてくださった

実体験な〝アンガーマネジメント〟だったかも。

 

それと、その時はわからなかったけれど

今思うと、知っていても

そういった行為が、どの場所でならOKで

どの場や人ならダメなのかとか

ルールやマナーを知っているか知らないかでは

自分の命も落としかねない。

たかがただのポーズでも…。

教養があるかないかがなぜ大切なのかを

思い知った出来事でもあったように思います。

 

先生がまだお元気でいらっしゃるなら

いつかお会いして

お礼が言いたいくらいな出来事でした。

先生が怒りにまかせて英語の授業を中止せず

きちんと、怒って教えてくださったことは

グローバル化してしまった現代だからこそ

今の私に改めて問いかけられてる

出来事のように思う今日この頃です。