ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

怒涛のように雨が降ったのが

嘘のようです。

数年前から七月上旬は

雨に降られることが多くて

七夕の夜空を楽しめず

災害のニュースを

目にすることが多かったなと

そんなことを思います。

本日は七夕。ドリカムの日!!!

こちらは今日晴れています。

天の川みられるといいなぁ。

 

 

▼ドジってコーヒーこぼしちゃったけどなんかハートっぽかったからパチリ

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昨日、仕事をしてる中で

身体が思うように動かせない

認知症の人たちをみたことから

即身仏』のことを思い出しました。

即身仏』に関して

私は詳しいことはわからないので

説明は割愛させていただきますが

なんていうか、認知症の方って

即身仏』みたいだなぁって

そんなことを思いました。

もしかしたら、失礼極まりないことを

申し上げてるのかもしれませんが…。

 

私が高校生の頃

遠い親戚にあたる叔父が

風邪のウィルスが原因で意識不明になり

数か月ほど生死を

さまよっていたことがありました。

私も一度お見舞いに行きました。

でもその頃の私はとっても怖がりで

病室にはいるのに少し躊躇しながら

なんとか入れたことが思い出されます。

ああ、そういえば…

今息子がお世話になっている病院だったなぁ…

 

その叔父は子どもが好きだったので

身内や親戚は子ども連れで

お見舞いに行ってたのです。

その中の、1人のお子さんが

病室にはいることができないままで

帰り際に

「おっちゃん!!!」

と叫んだことがきっかけとなって

その後、しばらくして意識が回復し

命をとりとめたことがありました。

それでも、高次脳機能障害となって

元々が切れやすく難しい人だったこともあり

家族にとっては、心配でもあっただろうし

大変だったろうと思います。

それでも10年以上は生きました。

〝奇跡〟ってやつが起きたのです

 

仕事柄、認知症の方にお会いすることが多く

中には、ただ目を閉じ息をして

眠っているだけのような人もいらっしゃいますし

身体も十分に動かすことができず

おしゃべりもままならない方もいらっしゃいます。

叔父のことがあるので

骨になるまではその人は生きているのだから

たとえ返答がなくても

挨拶をしたり声をかけたりすることは

できるだけしようと心がけています。

どんな身体になろうとも

その人には感情もあるだろう

そう思うのです。

それは、言葉をたくさん知ってても

普段の生活の中でそれをうまく使えない

息子をみていて気づかされることです。

認知が落ちている又は認知の力が弱い

それでも、その人の裡から

溢れているだろうことを

『ない』ものにしていいのか。

というか、ないがしろにしていたなって

日々感じています。

障害の有無に限らず、

自身一人では生活していくことが難しい人は

誰かがかわりに

その人の願いを叶えるほかありません。

その〝願い〟は大なり小なり

日々の生活の中で溢れこぼれ落ちているけれど

みんな、そういったことを

後回しにしてるなって思うのです。

小さくてどうでもいいことだから

次の日でもいい。後少し我慢。

でも、私は思うのです。

タイミングって相対的じゃなく

今この瞬間にその人にとって

願いが叶うことが本当の最高レベルなんだと。

それを素直に表せるのが

子ども時代なんじゃないかなって。

そんなことを考えさせられています。

 

〝待つ〟ということや

〝すべてはタイミング〟という定義が

いつの頃からはき違えられてしまったなぁと思うのです

何かのゴールに向けて〝待つ〟という作業は

待たなければならないことに

理由が必要な場合もあります。

自分1人の願いを他者と分かち合う時

その当事者よりどうしても周囲の人の

〝最高〟とか〝感動〟を盛りがちです。

私はもういい大人だからそれらは理解できます。

でも、息子のようなタイプの人には

相対的なタイミングや理由を教えることは

正直無理があります。

だから、幼い頃から周囲の人に

協力をしてもらう必要がある。

だから、療育や教育の中で互いに

その人を支える隙間がないように

あるいは隙間がすくなるように

その子の特性を理解してもらうことが

大切なことだと思うのです。

ある一面、ある一場面だけで

その人の状態象を決めつけた支え方だから

うまくいくはずのことも

うまく循環していないだけかもしれません。

私は思うのです。

継ぎ目のない支援って

隙間を埋めるというより

つぎはぎでもいいから、

重なる部分があることなんじゃないかと

そういったことが

その人を360℃の視点から

みれることにもなるのではないかと思うのです。

一人の人間では完璧にできないから

他の人たちと知恵をだしあって

その場を切り抜けるしかない時もあります。

でも、そこにコントロールは必要ない。

その場を盛る必要もない。

だって、私たちはドラマや映画の中の

役者ではないからです。

自分という人間を生きている。

ただそれだけなのに

なぜ、そこに誰かの理想や思惑を

盛る必要があるのでしょうか?

そんな憤りを息子と一緒に感じながら

日々を暮しています。

 

あー、なんか『即身仏』からずれてる。。。

すみません。

 

何がいいたいかって

魂という概念がこの世には存在しているなら

身体から離れた場所で

その人の魂は彷徨っていることになりますよね。

でもですね、科学的な根拠はないっていわれています。

あっ。亡くなった後には

体重が3g減ってるらしく

その3gが魂の重さだっていう

話しをどこかで目にしましたが

それを科学的な根拠みたいになってますけど

体液漏れたりするから

魂の重さじゃないかもよって

思ってしまう私。。。

そんなことと同時に

魂は存在していてなくならない

引き継がれるってことも

なんていうか素敵な窘め方だなぁと思うのですが

私は結構現実的なタイプなので

魂が生き続けるっていうことは

その人記憶の欠片が

他者の中で生き続けることや

語り継がれていくことが『魂』という言葉に

集約されているんじゃないかって

そんなことを考えると

私という個体を丸ごと覚えていてもらうことより

その一瞬のワンシーンが記憶に残ってるほうが

私は嬉しいなぁって思ったのです。

 

ワタシの魂が生き続けるって

ワタシという記憶の欠片が

誰かの中で生き続けたり

語りづがれていくこと。

 

仕事中の10分程度で

そんなことを私は考えています。

 

きょうはこのへんで