ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

先着1名様問題④ーさいごにー

さて、このシリーズもいよいよこの記事で最終回になります。私の伝えたいことが1人でも多くの人へ伝わっているといいなぁと思っています。

 『先着1名様』という言葉は知ってはいたものの、イマイチ私の中で腑におちていなかったのは、息子のエコラリアの件で腑に落ちたことで気がつきました。わかってたつもりだった自分が恥ずかしいです。

 息子のエピソードの場合には〝聴覚〟に関してのことになりますが、この『先着1名様問題』が五感のそれぞれで起こっていることだと捉えると、自閉圏であるがゆえに、ものすごい膨大な情報量が脳内にほどよく残る間もないままインプットされていき、情報の整理統合に不具合があることから、認知はしてるけれども(見えている聞こえている状態)それらが一体どのようなことを意味しているのかはわからなくなってしまう、いわゆる常に混沌としてしまうのだろうと思うのです。だとするならば、そりゃー混乱して当然ですし、知的な遅れとなってしまうのは仕方がないことなのだろうと思うのです。ただ、自閉症が伴う知的障害の場合と純粋な知的障害の場合では、恐らく発達の〝のびしろ〟は良くも悪くも自閉圏が伴っているほうが広くなるんじゃなかろうか?と私は思っています。

 見えていて聞こえていても、それらの情報がより良く脳に留まらない状態であるとするならば、わかっていてもできなくて当たり前だとも思うのです。しかも〝視覚〟と〝聴覚〟は大脳新皮質にとって知識の栄養だと私は考えています。その栄養が複雑に絡み合いその人自身の知的な発達へ促される源になるのだとするならば、〝視覚〟と〝聴覚〟からの情報は、とても重要案件になると思うのです。だからこそ、その二つの情報処理が凸凹つまり不具合が起きているのであるなら知的に伸びるはずがないと思いませんか? 

 視覚的な認知についても、その人の幼い頃からの見え方の過程次第では、LD的な情報処理なのか、自閉圏的な情報処理なのかでは、アプローチの仕方や支援のスタイルは違うものになるのが当然だろうと私は思うし、自閉症とLDが合併しているといわれている人の場合には、自閉圏であるがゆえの見え方の特性もあることから、検査の方法も工夫しないとおそらく誤診されてしまうことになると思うのです。

 見え方に関しては、息子の場合には幼児期の頃、鏡文字を書いていたことがありました。幼児期には模倣している場面は少なかったのですが、小学生高学年になり、鏡合わせの模倣が上手くなったと同じ時期には、いつの間にか鏡文字は書かなくなっていました。それと、うちの子以外のお子さんのエピソードになりますが、そのお子さんは自閉っ子で知的な遅れを伴ってはいたと思われますが、それなりに読み書きできるお子さんでした。そのお子さんと一緒にお絵かきをしている時、ひらがな50音を縦書きで書いたものを渡すと、そのお子さんもひらがな50音を書きはじめました。でも、その書いた文字列が私が書いた文字列とは左右逆転していたのです。私が書いたのは盾に『あいうえお~~ん』までの文字を右側から縦書きで書いたものでした。で、そのお子さんは左側から縦書きで50音を書いていました。ただ、鏡文字ではありませんでした。でも、そのお子さんの幼い頃からの見え方の育ちの過程は私にはわからないので一概にはいえませんが、自閉圏の特性でそのお子さんの趣味趣向やこだわりといった特性が織りなすアウトプットの方法かもしれないなぁと思いましたし、他にも何通りかは考えられるなぁと思いました。

 そのお子さんの場合、もしかしたら全ての文字が鏡文字でみえているけれど、自分で意識して見えてる文字を整えて書いているなら、LDも併存しているのかもしれません。仮にLDが併存していない純粋な自閉圏だとするならば、ある時期まではずっと見えてるまま文字をアウトプットするんじゃないかと思うのですね(超個人的見解です)もし、純粋なLDの人の場合には、見えていてもインプットする時に正しい情報でも、短期記憶の時点で不具合が起きてしまうのではないのかなぁ?と思うので、何度でも書いたところで憶えられないんじゃないのかなぁと思います。ただ、純粋なLDであるならば自閉圏があることから起こる聴覚の不具合はないと思われるので、話し言葉での知識の獲得はできるだろうと思うので、聴覚からの情報から汲み取る力で学習面はなんとかなってしまうんじゃないのだろうか?と思います。そして、LDもイロイロなタイプの方がいらっしゃるみたいですが、私が10年以上前に講座で習ったのは、LD又は学習障害は『読み書き』にだけ不具合があるといった説明でした。でも、私が知る限りではこの当時のLDまたは学習障害といわれた当事者の人の中には。コミュニケーションの不具合もあるという方が多かったのですよねぇ。実のところ…。なので、私はその当時からLDに関しての見立てには、いささか疑問を感じていました。なんていうか、『不注意と忘れ物=AD/HD』となるように『読み書きに不具合がある=LD(学習障害)』といわれてるだけのように感じていました。

 原始反射のことを知ってから、私が長年感じていた視覚的な不具合は、LDと自閉圏の見え方ではやっぱり違うんじゃないかといった考えに至りました。それに、発達障害の人の中には〝共感覚〟が併存しているケースも多少なりにはあるので、色弱色盲又は弱視とはまた違った見え方になってしまうこともあるし、逆に共感覚だと思われてて、色弱色盲だったりするケースもあるように思います。

 これまた、知人のお子さんで、中間色が全てグレーの濃淡にみえていたお子さんがいました。そのお子さんがその色の違いをどうやってみわけていたのかというと、グレーの濃淡で憶えていたのだそうです。ただ、その中でも何色だったか覚えていませんが、濃淡では区別ができない中間色があったようでした。そのお子さんは記憶力に長けていたお子さんだったこともあって、知的な遅れとはならなかったようでした。そのお子さんの場合には、当時いろいろな微妙な診断がついていましたが全て軽度でした。だからこそ、幼児期の段階から家庭でも頑張って療育を行っていらっしゃってました。それは、そのお子さんだけじゃなくて、ご家族皆さんで取り組んでいらっしゃったこそ発達をとげたのだと思います。

 私がリアルに知っているケースは我が子を含めて数名のエピソードになりますが、シンプルに考えてもLDじゃない人がLDとなっていたり、自閉圏なのにLDと診断をされてしまったり…。本人がどのように診断の場で伝えるかでも変わってしまうと思うのです。これが話し言葉を持たないお子さんの場合には、相対的な評価になるわけですから、本人の身の上に起きていることからズレてしまうのは当然だと思うので、初見やたまに診察するだけでは、その人本来持つ特性の不具合を見極めるのは、結構大変だしズレテしまうんじゃないかって私は思っています。それこそ、障害の特性が顕著に現れやすいのは日々の生活の中だと私は思うので、たまの診察で逆にわかるほうが恐ろしいことだなぁと思ったりもします。そういったことから、ドクターによって診断名が変わってしまう人がいるのは仕方のないことなのかもしれないとも思います。それに精神障害も併発しているなら、更に見立ては困難になるだろうと思いますし…。

 ああ、なんかずれている…。

 このように、見え方の特性が異質なことに加え、それらを認知する時に『先着1名様問題』も併存しているとするなら、知的に遅れることになるのが必然だと思うわけですが、この記事の初めの方に記述しているように、大脳新皮質の養分になるだろう〝視覚〟と〝聴覚〟へのアプローチというのは、身体からだけのアプローチではうまくいかないようにも思うのです。それは、前述にあげた特性があるからだけじゃなくて、原始反射など他の不具合があることから、意識的に変えるということを行う必要もあると思うからです。だからこその視覚支援だったり、他力が必要になるのだと思います。それが認知行動療法やSST、ABA、PECS、TEACCH(構造化された支援)などになると思われますが、それらの使用を謝ると支援ではなく、ただ単に〝情報操作〟になると思うのです。その〝情報操作〟はある一定の時期又は限定された場面では有効かもしれませんが、本人の主体性の芽が出始めた時にはその人そのものの生の在り方を変えてしまうことになり、闇の世界へ誘う入口になってしまうように思うのです。ですので、認知行動療法などは本人が〝意識的に変わりたい〟と思った時だからこそチャンスでもあるし有効になると思います。それに大脳新皮質は〝意識〟が得意分野になるわけですから、意識的に自分自身へ変化することを問いかける意味では認知行動療法もあながち悪いものではないと私は思います。ただ、認知行動療法に限らずどのような療法もその人の主体的な活動を萎えさせたり、望ましい行動へ変えようとするようなことを、回りくどい方法で気がつかせるような行動療法は、人によっては、それが毒になってしまうように私は思っています。その人本人の中で起こっている出来事は、たとえ他者からは妄想や嘘のように感じても、その人にとっては事実です。なので、その本人の身の上で感じて起こっている出来事がたとえ現実から乖離していたとしても、それが事実なのか妄想なのかを認めるのは本人が気がつくほかありません。なので、その人の身の上で感じて起こっていることは認めつつ、現実に起こっていることは伝えるべきだと私は思っています。ですが、私の場合には、嘘をつかれてもみぬいてしまう体質でもあったりするので、私のようなタイプの場合には、嘘も方便という言葉は通用しないってことを覚えておいてもらえたらいいんだけど…。といつも思っています。(これでも、かなりスル―してるのですが…)

と、短めに終わるつもりでしたが、結局だらだらととりとめのない〝さいごに…〟になってしまいました。すみません。覚書程度で記事にしていますのでご了承ください。

最後まで読んでくださった方。ありがとうございます。この記事を読み何か1つでも皆さんが気がつくきっかけになると嬉しいです。