ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

〝破壊〟と〝再生〟

 タイトルが『〝破壊〟と〝再生〟』なので、スピ話とか占星術な話だと思って、このブログに辿り着かれてしまった方には申し訳ありませんが、そんな話ではありませんので、ご了承ください。それでも、読み進めていただけるなら、幸いです。

 

 占星術とかスピな話ではないのですが、なんというか私はそっち方面の意味を三次元の日々に置き換え考えることが趣味みたいなものなので、今回このタイトルにしたまでです。ツィッタランドの鍵っ子の中でつぶやきながら、ふと閃いたことと、本日の『今日の空』の記事を読んでいただけましたらと思いますが、2年前の今日発達支援コーチ初級の講座を受け、原始反射の土台になる〝恐怖麻痺反射〟と〝モロー反射〟を学んだことと、その講座を開発された灰谷孝氏著書の『人間脳を育てる』に纏わるようなことを残しておこうと思います。辛口な部分もあるかと思いますし、誰かを否定しているように受け取られるかもしれませんが、一つの意見として読んでもらえたらと幸いです。


 ツィッターランドでつぶやくきっかけになったのは、思春期の頃の自分を思い出したことからでした。思春期って、蝶の一生にすればサナギの時期のようなものだと、占い師の知人に教えてもらったことがありました。思春期って自分と他者の価値観の違いで揺れ動く時期でもあるし、今まで狭かった世界が少しずつ広くなっていく時期でもあると思うのです。このことは過去記事にもあることなので割愛しますが、選択肢が増えることにより、意識が混沌としてしまうと思うのです。ようは今まで白と黒しかこの世界にはないと思ってたのに、他にも色があったことを知ってしまったみたいな…。そういった状況になった時に、根底を覆されるくらいの価値観を書き換えられる衝撃を良い意味でも悪い意味でも感じてしまうとように思うのです。(私がそうだっただけなのかしら…???)そういったことが『〝破壊〟と〝再生〟』でもあるように私は思ったのです。で、思春期といえば第2次成長期。で、この1つ前の第1次成長期がイヤイヤ期といわれる2歳前後になりますよね。ということは、第一次成長期は1度目の反抗期のようなものです。自我が芽生え外側の世界を知り冒険を始める時期で、親に見守られながら自立していく時期でもありますよね。どんな自分でも許されることを確かめる時期でもあると思うのです。自分自身の身体いっぱい使い、五感もフル活用し、私は僕は許されていることを知る時期だと思うのです。〝許されている=愛されている〟ことにもなるように思うのですが、この時期に不発に終わっている人たちが多いと思うのです。その時期は原始反射でいうところの土台となる〝恐怖麻痺反射とモロー反射〟の統合期でもあるよなぁと私は思っています。

 発達支援コーチの講座や『人間脳を育てる』の中で、灰谷氏は『無駄な動き』をやり切るということを提唱されています。で、多くの人がなんか勘違いしてるなぁーと思って眺めてたのです。ここ数か月。で、あのーーーー皆さま、すみませんが、『子どもたちはまず問題がない』って灰谷氏言ってらっしゃるじゃないですか。なのに、皆さま、実のところ大事なことに気がついてませんよね??? 子どもたちには問題がないのです。じゃあ、問題がないのであれば、その『無駄な動き』をやり切らせようとすることも子どもを操作してしまうことになるじゃないの?って、数か月前に気がついたのです。それこそ、身体アプローチといいながら、子どもを変えようとしてることになるじゃんって…。

大人の私たちからみた、子どもたちの『無駄な動き』は無駄ではないと灰谷氏から学びました。ということは、子どもたちだからこそ、無意識層から湧き上がってくる動きが発達を促すための動きになっているのだろう…。そう思うのは私だけでしょうか? 新しい遊びや道具の提案はしても、本人が興味がなかったり、本人が意識をし変えたいと望んでいないのであれば、それらは今必要がないのではないともいえるんではないでしょうか? なので、大人がよかれと思ってセッションすることもなんか違うんじゃないかって思うにいたっています。ようは、命の危険がないように本人がやりたいことをやらせるだけでも、いいと思うのです。

 で、なんでこんなこというのかと申しますと、現代の家庭は忙しすぎて、お子さん1人1人に扶養している親がかまっていられないことで、親がかまってくれたり、そうすることで喜ぶから本当はしたくもないことをしてるお子さんもいると思うです。本当は、お家でだらだらとただ過ごすだけでもよかったりするし、ようはカマってちゃん時代にちゃんとかまってあげられてないご家庭多くないですか? 我家の自閉っ子は孤立型なはずですが、現在かまってチャン時代の到来となっています。無駄に『お母さん』を多用し、無駄に『お母さん』にお世話をしてほしかったり…。自分にかまって欲しいアピールをするので、余裕のある時は空いてしてますが、余裕のない時は、ちゃんと正直に『お母さんしんどいけん、今はゴメン』みたいなことで、折り合いをつけてもらっている状況です。それがパブリックな場面の練習にもなると思っていもいますので、私がかまってあげられる時と無理な時は線引きしています。。ああ、なんか話がずれるなぁあああ。

 話しを戻します。講座を受けたり著書を読んだりして、学んでもお子さんが思ったように変わってくれないと思う親御さんがおそらく多いと私はふんでいますし、親の自己満になってないかなぁ?って思う人たち増えてないか?と思っているのですが、現場の方からの実感はいかがなものでしょうか??? これは、自分への戒めで書いてもいるのですが、私たちは、1人の人を育てているんです。お人形さんじゃないの。自分の思い通りにならないのは当たり前なんです。自分の思い通りに育たない我が子や理想の子どもはあり得ないのです。それが当たり前なんです。みんな違うってことが当たり前なんです。人の成長に規格なんてありません。似てる人は存在しても。丸ごと同じではありません。たとえ血が繋がっていたとしても。で、この世に生を受けて一人の大人になっていく時に、その人の生の在り方のストーリーさえ、その人の物であって、そこの物語の主役はその人のものなのです。あなたの物語じゃないの。だからですね、『無駄な動き』をやり切るタイミングも時間もその人次第になると思うんですよ。ようは自分がより良く生き延びるには、自分が意識して変わりたいという意識が働くようにならないと負荷がかかるのだと思うのです。その積み重ねが強制終了といわれる、鬱病となってしまうのでもあると思います。でも、その鬱という身体の状態は、新しい自分へ生まれ変わるための変容のプロセスでもあって、それが『〝破壊〟と〝再生〟』でもあると思うんです。

 で、この世に生を受けて初めての第一段階の『〝破壊〟と〝再生〟』がイヤイヤ期であると思うのです。その時期に体中の神経全てをフル活ようして、何をしても許されている自分や愛されている自分と折り合う時期だと思うし、そこをやり切ることが愛情の土台を育てることにもなるのだと思うのです。でも、それが不発に終わってしまっているのが現代の子育てになってるよなぁと思っています。良い子じゃないのが、幼少期。悪魔の2歳児。その時期にどのような関わり方をするのかはとても大切なんです。しかもそれに、障害の有無は関係ありません。ただ、障害があることで自分自身の力だけでは発達できない人たちがいるという違いはあります。でも、そんな障害がある人たちの支援さえ、固定化され決めつけられてしまっています。私も息子の障害を決めつけていました。自閉症という障害を決めつけて固定化していました。でも、実際息子と暮らしみて、私が間違っていたことに気がつくことになりました。息子は息子なりに成長したがっています。その歩みが遅いだけです。そして、それを遅らせてしまったのは、私が息子を変えようとしてきたからだと証明してくれました。灰谷氏がいったことは本当でした。無駄な動きを止めていた犯人は大人である私だったと…。

 子どもたちは何も悪くない。大人がむしろやり切っていたほうが良い時期にやり切れておらず不発で終わってしまっている。『〝破壊〟と〝再生〟』のプロセスを頭の中だけで終わらせてしまうから、刺激を求めてしまうのではないのでしょうか?と新たな視点も生まれました。 そして、その要因となっている根っこに辿り着くプロセスも物語も違うはず。大きな括りは同じでも、自分だからこそ乗り越えられるし、自分が変わりたいと思うからこそ、自分は越えられるのだととそんなことを思ったりもします。そして、みんな気がついてもなかなか変われないのは、その自分が都合がいいから。いわゆる生き延びるための戦略です。本当に今の現状を突破したいのであれば、どんな自分も認めること。そして、それでも大丈夫なことを思い知ることなのだろうと思います。

ああ、なんだかまたとりとめない記事になってしまいました。とりあえず、覚書程度ってことでご了承ください。それでは。