ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

行動障害と向き合う⑦

 〝不快〟や〝不満〟や〝不安〟といった、とにかく『不』をとりのぞくためには、それらにまず本人が気がつくことが大切になると思うわけですが、これらもまた人其々で受け取る人の感覚の違いがあることを、同じ視点から説かれてもその本人に届かないのは当たり前だと思うにいたっている。もしかしたら、その人にとっては『不』ではなく〝快ちよいこと〟だったり〝気持ちよいこと〟だと感じているのかもしれないからだ。それでも、大抵の人がそれらが『不』であること気がつかせたがってしまっているように思う。逆もしかりで『快』に気がついて欲しいために大げさに『快ちよさ』や『気持ちよさ』をアピールする人もいる。本人がそういったやり方を求めてはいないのに、よかれと思って誘導することは、ただのコントロールにすぎないのではないのだろうか?とある時から私は疑問を感じるようになった。確かに、本人が気がつくことが大切なことだと思う。ただ、その〝気づき〟という体験を、頭の中にあるだけのやっつけ仕事を行ってしまっていないだろうか? そういった場合には〝鈍感〟というより、実は〝不感〟な状態ともいえないだろうか? 体験を通し体感することを頭ではわかっていても、それらの情報と身体を通し感じた情報が統合し、体感したことから溢れ出てきた感情や感覚を言語化できた時、初めて、その人が本来持つ感覚を表現できたことになるように思うのだ。大抵の人が『気持ちいいだろう』と思って体験していることが、実は自分にとっては恐怖でしかなかったという人だっていて当然なのではないのだろうか?

 息子は一度排泄が自立していたが、高等部入学をすることを期に、大きく日々の暮らしが変わってしまった。初めは変化が大きかったことによって、排泄が困難になってしまったのだろうとそう思っていた。ただ、息子自身が日々の生活の中で自らオムツを求めるようになったことを正直言ってどんな風に受け止めようかとかなり迷ったが、私は彼自身の気持ちを尊重することにし、現在もまだ紙おむつの生活が続いている。そんな生活の中で、少しずついろいろなことに気がつくこととなった。初めは、生活の変化だけが原因で家庭生活や学校生活などに適応できていないだけだと思っていた。でも、彼が不登校になったり、他害や破壊行動を起こしてしまうことはそれだけではないことをマザマザと知らしめられた。それは一体どういったことかというと、私が息子へ対する対応の仕方が私の自己満で終わっていたり、まだ私たち母子は二者関係を卒業できていないのに、息子以外のお子さんに気をかけてしまう私に対するヤキモチをやいていたことも後々わかった。そして、家族や家族以外の施設や学校生活での他者との関わりの中で、彼自身の受け取り方がまだ上手く受け取れていないことや他者への要求が上手く伝えられないこと、息子は要求を伝えているつもりなのに、それらが他者にわかってもらえていなかったり、自他の区別がついてないことからくる被害妄想を感じてしまったり、同調圧力といった空気感も感じていたようだった。

 自閉症なので〝社会性〟がないとおもわれがちだが、うちの息子は小学校低学年の頃から数年間、団体生活をしていたからか、私よりも社会性が育まれていた。そして、発達したからこそ、他者が怒られていることも我がことのように受け取ってしまうこともあるようで、それが彼自身の負担になっていたことも後にわかった。なので、そう彼が誤解をしていそうな時は、それは、息子が怒られていたり、注意をされているわけではなく、他の人が怒られていたり、注意をされているのだということをイチイチ伝えてもらうように学校の先生にはお願いしている。そして、そういった状況が少しでも楽になればということで、学校ではパーテーションを使うなどして周囲の人たちの様子が刺激にならないような工夫をしていただいている。人の目が気になっている節もあったのでそういった工夫をしてもらうことで、苦手な集団生活も少しずつ慣れてきているように思う。こういったことが複雑に絡み合って…。というより複雑化させているのは保護者である私自身だったり、息子を取り囲む大人の頭でっかちな支援が〝不快〟や〝不満〟や〝不安〟にさせてしまっていることも多々あり、それらが行動障害の原因でもあるのではないかと思うにいたっている。

 息子が発達障害(知的障害を伴う自閉症)の診断を受け13年が経った。私が当時、療育施設や支援者などの講座を受ける中で学んだ発達障害の特性は、多分一方向からみた特性にすぎないのではないか? と現在は思っている。何故なら、その特性を判断している人たちがスペクトラムという言葉を使いながらも、発達障害という障害を固定化させてしまっている矛盾が起きているようにしか思えてならない。特に自閉症スペクトラムの『社会性・イマジネーション・コミュニケーションの障害』という三つ組は、本人だけの問題では決してなく、良い意味でも悪い意味でも環境に左右され育まれてしまうことを息子を通しシミジミ感じている。どんなことも多様で多彩でそこに境界はなく、一部でもあり部分でもあるというだけだ。そんな人の生カタチを一括りの同じ健常者という規格にあてはめてしまうことが完璧な人間に育つことが良きことだといった風潮が、本来のその人の人のカタチではなくなってしまうのではないのだろうか? そう思ったりもする。そしてその本来の〝ワタシ〟をとり戻しより良い自分に統合するための行動障害であるとするなら、私は最後の日まで受け入れようそう思うのだ。

 

 

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