ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

LD体質な私の身体感覚について⑭-原始反射と愛着障害-

藤家さんの体験談から確信を得たことで、私は自分の身の上に起きている解離性の人格障害を治すべく、約2年間取り組んで今現在、治ったといえる域になっていると思われます。なぜなら、数年かかって取組んできた依存・共依存の問題までも解決されることになったからです。そして、私は人に嫌わられることがずっと嫌でしたし、人に嫌われないような生き方をしていました。要は主体性のない生き方をしていたことまでも確実に治っています。自分でもビックリしているくらいです。
解離を治したくて取り組んでいたものの、何かのトラブルがあると心身の状態が入院しなきゃいけないレベルまで著しく酷くなったこともありました。私にとってはみえないところからの認知行動療法を行われているようにしか感じないことに対しての〝怒り〟のようなものもありました。ただ体調不良にみまわれたことで、折に触れて神田橋先生の治療を受けることができたので、なんとか立ち直れたようなものです。本当に、危なかった時もあって、いつ死んでもいいと思っていました。(それは今も思っていますが、自暴自棄にはもうなることはないと思います。死ねない理由ができてしまったので。)その時、毒だしをしたことで、思わぬことがわかったこともありました。私は丸一日生まれず出産時に仮死状態で生まれました。それとは別に、私の母が生まれる時も難産で、赤ちゃんか母体をとるかといった出産だったのだそうです。それでも、なんとか母子ともに無事だったという話を母から聞きました。(過去ブログをご覧ください)それで初めて、解離の現象が治らない原因の根っこにも繋がってるのだろうことが判明したわけです。ということは、私自身〝胎児性の愛着障害〟でもあったと仮定はできるのではないか?とも思いましたし、母もおそらく〝胎児性の愛着障害〟はあり、それは代々受け継がれてきたのではないのだろうか?ということに辿り着きました。胎児性の場合には、言葉だけアプローチでは治らないということを学びましたが、私に場合には、胎児期から40年弱の間ずっと発達のヌケも愛着のヌケも満たされることがなく大人になった訳ですから、身体だけをケアするだけでは根治するのに長くかかってしまうだろう。と思ったので、早く治すために荒治療を行うことにしたのです。言葉以前の身体アプローチと同時に、幼いころから溜めていた両親に対する不満や疑問をぶちまけ1つ1つ誤解を解くしかなかったのです。私の場合には。

で、相当ぶちまけましたし、幼い頃からずっと疑問に感じていたことを母に尋ねたことも想定が当たってたし、母のブロックには数年前に気がついていたので、そのことも母に尋ねたらビンゴでした(苦笑)それと、別れることになりましたが元相方が介抱をしてくれたことで、それなりに解決していくことができました。だから元相方に対しては感謝することのほうが大きかったのですが、残念ながら別れることとなりました。
その頃には知人友人全員縁を切って、元相方や母に支えてもらっていました。なぜ、知人や友人との縁を切ったのかといいますと、信じられなくなったことも大きな理由にはなりますが、大きなトラブルにならないようにするためでもありました。被害妄想が大きいからこそ、裏で手を回すようなことをしてほしくなかったのです。拗ねていた時期だったから、自分が嫌われることも嫌だったけれど、相手を嫌いになってしまう自分に罪悪感を感じてしまうことも嫌だったからです。そして、毒だしを知人や友人でやろうとすることは、遠回りのように思えたのです。だから、家族だけでなんとかすることが私の望んでいたことでもあったのです。二人のお陰で、かなり毒だしはできたと思っていましたが、あと少しというところで、どうしても自分自身でブレーキをかけていることに気がつきました。気がついていたのに、どうしてもそのブレーキをかけてしまう自分がいたのですが、何故そんなことになっていたのかというと、要は死にそうになるからなのだと思うのです。未知の領域に到達することになるからか、生き残るための自己防衛でもあるのかなぁと思い、だとすれば恐怖麻痺反射の仕業なのかなぁなんて思ったことがありました。だって、せっかくいい感じで治りかけているのに、無理をすることで逆にまた解離を起こしてしまうことになるのを自分でわかっていたんじゃないかとしか思えないのです。
最終的には、元相方と理不尽なお別れすることになったことから、夜中に遠方住む両親が実家から駆けつけてくれ、母に泣きながら抱きつきました。その後、泣きながら布団にくるまり痙攣と獣が唸るような声を出す度に、母は私の背中や頭をぐるぐると円を描くようになでてくれました。母が介抱してくれましたことで、その時やっと統合できたのだと思います。母の介抱に勝るものはなかったことを思い知ることとなりました。そのことがあってから、私はようやく〝主体性〟を確実に取り戻す事ができましたし、その日を境に誰に嫌われようが何ともなくなりました(笑)ようは私は一番両親に知られたくなかった醜い自分や弱い自分を知ってもらい、そしてそれをみせることができ、それを母に介抱してもらったことが私の中に存在していたラスボス(もう一人の私)を解放してくれることになったのだと思います。あの時母に背中をさすられながら観えていた映像は、灰色の山のような壺が次々に爆発し、その壺から石の塊のようなものがたくさん出ていくといった映像がみえましたが私の中に格納されていたごみごみが全部でていったんじゃなかろうかと。そんなことを思ったのでした。(苦笑)

元相方とは腐れ縁だから別れることはないだろうと思っていましたし、きっとあきらめられないだろうし忘れるのも時間がかかるだろうなぁとそんなことを思っていたのですが、その後様々なことがあったおかげもあり、そんなに引きづることもなく、なんだか折り合いがついてしまいました。強がりに思われるかもしれませんが、強がっていません。だって、私は私がみてみたい景色があって、その景色を一緒にみれたらいいなぁと思ったけれど、そうするには元相方にとって苦しくなるだけだろうと思ったからです。だから、悲しいけど、これでよかったのだと思える私にもなれたということが、私の現時点での治ったといえる着地点になります。いやー長かった。本当に。ただ、私は良かったけれど、息子にとってはすごくしなくてもいい経験をさせてしまったのかもしれないなぁとは思っていますが…。我が息子だから、信じるほかありません。将来『あの時●●で悲しかった―』と息子にいわれる日が来た時は精一杯受け止めるつもりです。
荒治療にはなりますが、私の身の上に起きていた解離の現象は治ったといえるようには思うのですが、私の自身感じている感覚ですので、傍からみている人たちからすればまだまだ治っていないと思われるかもしれません。ただ、自分が思春期の頃から治したいと思っていた悪癖があって、独占欲が強かったことでヤキモチをやいてしまい自分でもうまくコントロールできないことを治したいと思っていました。そういった感情や感覚は確かに薄くなっているとしか説明のしようがありません。それは、意識して我慢しているわけでもなく、自分を窘めることで誤魔化すわけでもなく、悲しくなったり悔しい思いをすることもあるけれど、それなりに自分の中だけで解消できるようになっているし、折り合うことが上手くなっているように思います。それは、制限された生活をしていることで心に余裕があるのかもしれませんがそれでも、以前の私はそういったことも難しかったわけですから、この感覚が私自身の本来持っていたニュートラルな状態だということを忘れないようにしたいなぁと思っています。

 

LD体質な私の身体感覚について⑮-原始反射と愛着障害-へつづく