ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

発し啓く前に内側をみつめる週間に…

今日から自閉症啓発週間が始まりましたが、うちはいつも通りの春休みを過ごしています。西洋星占術などで木星逆行からの水星逆行中らしいということで、最近は自分や息子のことを含め、発達障害の支援を振り返り考えをめぐらせていました。

発達障害者支援法が施工され今年で14年になりますね。某支援者が当時の講座中、話された事の中で一番印象深かったことは

『カナータイプなどの重度の人たちより予後が悪いのは軽度の人たち』

ということでした。皮肉にもそれは見事に当たってしまい、予言となってしまったように思います(苦笑)だからこそ、軽度の人たちの予後をより良いものにし、1人でも社会の中で働く大人になることを前提とした制度なのだと思いその当時は胸を躍らせながら講座を聞いていました。それに当時の私は、障害は治らないものだからこそ〝ゆりかごから墓場まで切れ目のない支援を受けられる〟ということが素晴らしいことだと勘違いをしていましたし、それが〝当たり前なこと〟だと思っていました。私は保護者でもあり、自分自身も発達障害を持っていたことでサバイバルスキルを積みすぎ、二次障害も抱えることとなっていたとも思っていましたので、軽度の人たちの場合、墓場までとはいわなくても、社会生活をしながら、悩みや迷いがある時には、病院受診とは別のカタチで相談やケアを受けることができる場所があるなら嬉しいなぁとそう思っていました。早期発見・早期療育についても、当初はおそらく上手くいっていたように思います。でもいつの間にか何かがズレはじめているなぁといった感覚は感じていました。それは、私自身が成長したこともありますが、それだけではなく、社会全体の問題となってしまったとしか思えません。先日、支援の現場で働く人から少しだけ現状を聞き、なんとなく想定していたことが起きていたので、悲しくなってしまいました。
あの当時でさえ、地方は最先端の地域からすれば制度だけでなく発達障害に関する内容が20年から30年は遅れているといわれていました。同じ日本に住んでいるのに、自治体毎でより良い支援が受けられないのは何故なのだろうと思っていたし、それは〝社会の理解が足らない〟そう思い込んでいました。首都圏に比べると地方はどうしても遅れてしまうと思っていたのですが、それらは地域性だけともいえないと思い始めたのが数年たった時でした。うちの場合には、年々その当時におこなっていた療育から遠ざかるを得ないようなことが続き、東日本大震災を期に考え方を切替えたことで同じ状況の保護者や当事者との療育や支援の考え方にズレが生じていきました。そして、昨年から久しぶりに息子を手元に引き取り、生活をしながら改めて感じることとなりました。それらはどういったことかといいますと、発達障害者支援法ができたり、個別支援や合理的配慮なども制定されても、その制度が支援する側の都合よく扱われてしまうこととなっていたり、保護者や支援者の都合の悪いことだけを取り除くための支援となっているんじゃないか? そんなことを思うことが度々ありました。というより、教育現場の先生や支援者又は保護者さえもその子の持つ特性をどこか誤解していたり、実は何もわかってないんじゃないか。あの当時から、発達障害の人たちの身体感覚の不具合や特性に関して情報として知ってはいるけれど、それらの身体的な不具合や特性がどういった時にどういった状況で本人の困難となってしまうのか? 身体的な不具合や特性があることから起こる問題がどのようなことなのか? そういったことに気がついてもらえてないというか、こちらからどういったことかを話さないと理解し、様子を見続けるだけで現場でどういった支援をすればいいのかに繋げてもらえてないのだなぁと思いました。その時思ったのです。何のために個別支援計画書があり、何のために学校入学時に個人の成育歴を記入したものを渡し、引き継ぎをするのだろう…。そして、保護者に対しても、同じ療育を受けているはずなのに、それらがどいった意味を持ち、子どもへの配慮や支援となるのかさえ、学校や施設へ伝えることができてないという現状に正直ビックリしました。そして、
『ああ、学校や社会のせいだけじゃない。保護者である親が子どものニーズに対して勘違いをしている。そして、親はそのズレたニーズを元に学校や社会を問題視し、問いかけていたんだ。そして、一部の業界支援者や医療関係者は、そのズレたニーズを肯定し、失敗はなかったことにし失敗を肯定するための窘め方を考えるだけで、次に活かす糧にしてこなかったんじゃないか?』
そんなふうに思うようになりました。
啓発も同じように、当事者の人たちのニーズよりも、保護者や支援者又は当事者にとって理想のニーズをうったえ続けていただけで、社会が何故理解してくれないのかを内省することもなく、その失敗を嗜めつづけ何十年も変わることなく啓発を続けていただけだとするなら、社会の人たちに届くはずがないんじゃないのでしょうか? 何故って、知ってもらうだけは〝祈り〟と同じように思うのです。知ってもらうだけなら、ブログやSNSでもできます。何十年と啓発の種を蒔き続けたのに、本当に何も芽がでなかったのでしょうか? 実は芽はでたのに支援者や保護者が刈り取っていないでしょうか?芽が出てないとするなら、じゃあ、その蒔いただろう種は土壌が硬すぎて芽が出なかったのかもしれない。大切にしすぎたあまりお水や肥料を与えすぎて折角蒔いた種が腐ってしまったのかもしれない。せっかく出た芽も根腐れしたのかもしれない。その種はある程度の土壌なら、自分でスクスク育つ種だったのかもしれない。その種の成長を促すこともできるし奪うこともできます。その成長を促すのではなく、奪っていた存在は一体誰なのでしょうか? 地球レベルで変化をしている今だからこそ、社会に訴える前に当事者、保護者、支援者が三位一体となり、改めて内側をみつめなおす期間にできたらいいのになぁとそんなことを思いました。

今日はこのへんで…