ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

感覚過敏とお薬⑤-過敏と鈍磨が併存することでの失敗談-

幼少期から過敏があったことで不具合を感じてはいたが、成長と共に多少は緩和され、大人になってからは我慢することがあたりまえになっていた。ただ、体調次第では感覚過敏は顕著に現れ、体調が戻るとそれらはまた我慢できる程度に治まるという感覚は未だに続いている。昔から当たり前のように感じていたこれらの感覚が、ASDを含む発達障害の人たちが持つ『感覚過敏』という特性があると知った時は、ただただ嬉しかった。そして、私以外にもそういった感覚がある人たちが存在するということがわかったことも嬉しくて、その当時は、成人当事者の方たちの過敏や身体の不具合の話を著書や講座などで知ることも楽しみの1つだった。

幼い頃は味覚や臭覚の過敏があったことで、幼い頃から時々母の代わりに味見をすることがあった。私が椎茸が大好きだったのに対し、母は椎茸嫌いで、椎茸がはいっていると味がわからなくなるということで、椎茸をいれる料理の時は私が味見を担当していた(笑)それに、少しでも味が違うと文句をいうような子どもだったこともあったことから、母は私に味見をさせるようになったのだとも思う。大人になった現在でも、稲荷寿司の皮が冷凍されていたのか、その日に炊いたものなのかどうかがわかってしまう。母はそれなりにこだわりのある人なので、昔からなるだけ同じ材料や調味料を使う人だということもあり、私はどうしても気がついてしまう。最近の母の稲荷寿司の味が変わってしまったような気がしていた。母に尋ねてみると、いつも買っていた稲荷ずし用の揚げの製造所は同じだが造っている人が変わったらしいことがわかった。それくらい敏感だったりする(苦笑)

そういえば中学の頃、給食ででる温い牛乳が苦手で飲むのことが苦痛だった。でも牛乳が嫌いだったわけではない。温い牛乳を飲むことがすごく苦痛だった。そんなある日、その牛乳の味が温いから不味いだけではなく、いつもと違う味で更に不味く感じた。私のほかにも数名いつもと牛乳の味が違うと思った子たちがいたことで、その日は途中で牛乳を飲みやめることとなり、翌日から調査することになりしばらく牛乳を飲まなくて済んだことがある。調査の結果、当時、チェルノブイリ電子力発電所の爆発の後の影響を受けたことから牧草を食べた牛が内部被ばくをし、微量だが牛乳にもでてしまったのだろうということだった。この時、世界は広いけれども空は繋がっているのだなぁと思う事となった。他にも面白いエピソードはあるのだが今回は割愛することにする。

私の場合はどちらかといえば、過敏である。ただそれらはある一定の限界を越えると、今度は鈍麻が働き感覚がわからなくなることもある。そうなると本人が気がつかないうちに危険な状態まで気がつけないこともあったりすることが厄介だったりする。例えば、私は息子を帝王切開で出産したのだが、手術前には、約12時間ほど陣痛を経験した。陣痛が酷く痛かったこともあったことや、帝王切開後の痛み止めを3日間身体にぶらさげていたこともあったからか、毎日うけていた点滴が漏れているのを気がつけず、看護師さんに怒られてしまったことがあった。確かに痛みはあったのだが、あの陣痛の痛みに比べると痛いのは痛かったのだが、我慢できたからいわなかったのだ。気がついた時には点滴が漏れてしまい青痣となってしまった。そういったことを経験してから、点滴をする時は痛みよりも点滴の液の落ち方の速度と減り方をみて、痛みがある時には看護師さんへ伝えるようにしている。

後、私はよくつまづくことで、昔痛めてたことのある古傷が痛むことから、パテルテープやモーラステープなど貼り薬を使うことがあった。それらの使い方や注意を良く読んでおらず、テープをむき出しのままお日様の下で作業をしてしまった。その後、それらがやけどのように爛れてしまい、身体の状態が著しく悪くなったことで皮膚科にいったところ、それが原発となり日光アレルギーを起こしてしまうこととなった。その時にわかったことは、向精神薬の副作用で日光アレルギーを起こしてしまうこともあるということで、私の場合にはパキシルを止めることと、お日様の下ですごすことは基本タブーであること。どうしても過ごす場合には、全身日焼け止めを塗った上で完全防備することが望ましいといわれた。その後、そのことは頭の片隅にはあったものの、出掛けた先で無防備に釣りをし夢中になってしまい日焼けをしてしまったことから、翌日体調不良になり、アナフェラキシーショックを起こしかけてしまったこともあった。元々アレルギー体質だったのだが、まさか、そんな些細なことを気がついておらず、日光アレルギーとなったことは正直悲しく思っている。時に知らないことは幸せでもあるのだが、生身の人間だからこそ、お人形のようには取り換えがきかないといったことも思い知ることとなった。

体温調整が苦手だということに気がついたのは実は数年前だ。室内で暖かかったり、寒い状態だと、その時に感じていた体温の状態が続くことで、外気や室内の温度を体感するまでに時差があることがわかった。そういったことで体調不良を起こす事態にもなってしまうこともあり、洋服の脱ぎ着で調整しやすいよう工夫をするようにもなった。

感覚過敏との付き合いは生まれた頃からになるので付き合いが長い。今現在はそれらの付き合い方がわかってきたし、感覚過敏の出方が不調のバロメーターとして役にたっているので、私にとっては不便でもある機能ではあるが、我が身を援けてくれる便利な機能でもある。過敏だったことで他者との感覚の違いに悩んだこともあったし、治したいと思った時期もあったのだが、私の場合には、この資質が息子への発達援助やアセスメントにかなり役立つことになっている。そして、最近、感覚過敏が治ったという人たちが増えているようで、なんとなく私には腑に落ちていなかった。どうしても『治った』といっていらっしゃる人たちの感覚と私の感覚にはズレがあるように感じていたのだ。1昨年から現在までの2年間の経験を踏まえ、私の治ったという感覚とズレがあることをハッキリと感じることがあり、私自身の『治ったという感覚』は肯定も否定もしなくていいのだと思うにいたっている。それは何故かというと、私はどうやら他者と言葉の捉え方や汲み取り方がかなり違うようなのだ。そして、その感覚の違いから生まれる喪失感を感じていたことが私の孤独感にも繋がっていたのだろうと気がつけた。そして、私からすれば『感覚過敏も使いよう』だと思えるようになれたので、これからは、それらの資質が活かせるように日々精進したいと思っている。

 

感覚過敏とお薬⑥-共感覚とかエンパスとか-につづく…