ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

発達援助と自助努力のマリアージュ⑧

『私、実は頑張ってました!』自己満アピールはいかがでしたでしょうか? えっ?長い??? そうですよね。長いですよね(笑)これでもかなり端折っているのですけれどもね…(苦笑)いいんです。すべての方に読んでもらうためにブログに残しているわけではないので。読みたい人に読んでいただけるだけで満足でございます。さて、この回でひとまず完結させたいと思います。

私は10代の頃から鬱や人格障害のようなことが身の上に起きていた自覚はありますが、生活がたちゆかないほど支障があったわけではありませんでしたので、自分自身がオカシイと思っては思いながらも、精神科や心療内科を受診するということは考えることもありませんでしたし、周囲も気がついた人はいませんでいたので、そういった状態を抱えたままずっと暮らしていました。治療をしながらでも働くことはできるだろうと思っていたので働きながら治療を行っていましたが、様々な事情が重なり1年前に状態が悪くなったことで、半ば強制的に働けない状況になってしまったことから、二次障害を治すためには、家事のできるひきこもりの状態でないと、治せなかったのだと思うにいたっている今日この頃です。

ただ、どうせ治ってないと思われているのだったら、もっと早い段階で主治医なり家族なり、私の身の上に起きている状況をウソ偽りなく伝えて欲しかったなぁと思います。その時はショックをうけてしばらく浮上できないかもしれないけれど、私は幼い頃から大人の話だとしても、母は私にもちゃんと事情を話してくれていました。理由や意味を話して、私の腑におちれば、一般的にはショックをうけると思われることも、私は酷いショックをうけることもなく、それなりに理解を示せるタイプでしたので、私の性格を知っているなら、私を信じてたちあがるのを待っていて欲しかったなぁと思います。まぁ、強制入院した当時の私を知っていたからこそ真綿に包むようにしか関われなかったのかもしれませんが…。そんなことはさておきまして…。

早期発見早期療育を受けた息子とは違い、発達障害だと診断を受けたのは30代でしたので、息子のように家庭だけでなくきめ細やかな療育を受けてきた訳ではないし、学校や施設のサポートを受けてきたわけでもありません。母の子育てと自分なりに自助努力とサバイバルスキルで得てきた期間の方が長く、一時期は成人支援を受けていた時期もありましたが、あの当時のやり方を続けることはできませんでした。それに、成人支援を受けていたといっても、私の場合には自分自身だけの支援だけでしたので、自助努力に対するアドバイスが主だったと思います。それでも、障害の特性を理解している支援者のアドバイスは、発達障害の特性を知らない人たちのアドバイスとはかなり差はありましたし、あの当時は、まともな成人支援を行っていた機関は、今より更に少なかったので、支援者からの的確な回答を得られていたのはありがたかったです。

ただ、あの当時は、自分自身が本当に困っていたことを支援者へ相談できていませんでした。自分の困り感よりも家族や他者へ迷惑をかけていたことを優先的にしていたことが、自分自身を更に追いつめる事にもなりましたし、そんな自分を支援者に褒めてもらいたくて、一番苦手な生活スキルを高めようとすることだけにフォーカスしてしまうことにも繋がっていたのだろうと思います。それだけ、両親や周囲の大人にダメ出しされて育ってきた状況でしたので、自分で考えたスキルを褒めてもらえたり、向上心のある自分を認めてもらえたようで、ただ嬉しくて余計頑張りすぎたのだと思います。なので、それらの自助努力が実を結ばない時は、更に自分にバツをしたり、自分で自分にダメダシするだけとなっていたことが、更に私の病を膨らませることにもなってしまったのだろうとも思います(苦笑)様々な努力が勇み足に終ったり、それらが負担になっていたのだと認めるまでに少し時間はかかったものの、私は自分で気がつき認めた後は、人一倍切替えが早かったことで、自助努力の方向性を臨機応変に変えていけたのだろうと思うし、一度人生のどん底を経験したことで、失敗することに対しての免疫が薄れたことも良かったのかもしれません(苦笑)

7年前の東日本大震災津波の映像をみた時、自分の身に置き換え様々な想像をしました。自宅や学校の構造化が津波で流され波にさらわれてしまったら、物資が手にはいらなかったら構造化することさえままならないし、あらためて構造化したところで、また大きな地震がこないとも限りません。ライフラインが途絶える中、小さな絵カードをまた作りなおす余力や気力が私にあるのだろうか? そんなことも想像しました。だからこそ、今までのやり方ではきっと立ち行かなくなってしまうこともあるかもしれない。困るのは私よりも、きめ細やかな構造化された支援を受けている息子に一番しわ寄せがきてしまうと思ったことが、自助努力や発達援助に関する方向性を変える覚悟をすることとなりました。ですので、どんな状況におちいっても、自分自身を保ちながら障害のある息子と暮らしていくには、構造化された支援をガッツリ用いるのではなく、必要最小限の道具で、どんな人でも簡単にできる支援の方法を模索していこうと思い、気持ちを大きく方向転換することにしたその5年後の春『熊本地震』が起きました。今だに不思議で仕方がないのは、地震の起きる約1か月前に、主治医には事後報告になりましたが、勝手に断薬し、そのかわり神田橋先生へ受診をし、漢方薬に切り替えたばかりでした(苦笑)以前通院していた病院は被災してしまったそうで、お薬をいただくだけでも苦労したようでした。私はたまたま、その病院から市内の病院へ転院して間もなかった頃でしたので、もし仮に断薬をしていなかったら、病院受診もままならなかっただろうとは思います。それと、数年前から自主企画で行っていた身体アプローチのイベント等で、日々の体調の整え方や弛緩に関することを学んでいたことがとても役にたちました。そういったことから、自分自身の『運のよさ』を自覚することとなりました。

最後になりますが、私の体験はあくまで、一個人の体験談です。なので、私とは違うタイプの方が私のようになりたいと思って、私のマネをしたところで上手くいくかどうかはわかりません。もし仮に真似をして、上手くいかなかった場合には、私のやり方が悪いのではなく、じゃあどうすれば自分にはできるのかを考えることが大切なことだと思います。誰かをお手本にすることはあっても、その時々で自分なりにカスタマイズしていくことが大切なのではないかと思いますし、そういったことが自分に必要なことはどんなことかを考えることにもなると思います。『やり方』や『あり方』のひな型はこの世にたくさん落ちています。でもそれらをそのまんまやり続けても負担になっているのであれば、それは自分にあっていないということに気がついていない人も少なからずいるように思います。続けることだけではなく、たとえどんなにより良い方法でも自分次第では、そのより良い方法が毒になるということもあります。何がどう自分に必要なのかは他者にはわからないと思います。『主体性』が問われはじめている時代に移行しました。時代の流れはとどまることはありません。もし、今立ち止まっていたり、くすぶっているなら、自分なりの方法でこの時代を自分なりに生きていけるように、今日からでもできることを何か1つ考えてみてはいかがでしょうか?

※最後まで読んでくださりありがとうございます。