ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

発達援助と自助努力のマリアージュ⑤

あっという間に3月上旬が終わろうとしていますが、このシリーズなんだか本当に長くなりそうです(汗)なんでかというと、発達援助と自助努力の方向性や意識を変える前と変えた後どんなことが私の身の上に起きたのか…etcの話のになるので、現在から過去に遡った事の中から、私にとってはごく普通のありきたりなことにはなりますが、覚書程度に大きい括りでまとめた話をここに残しておこうと思ったからです。イヤハヤ、他にもネタはたくさんありますが、現在の私からすると、場所や人を変え同じことを繰り返してきた失敗体験ばかりになりますので、それらを大きい括りでまとめた話にしております。細かく残そうとすると、フラッシュバックがおきすぎて大変なことになってしまったり、時間が経ってしまったのでもしかしたら脳みそが自分の都合の良いように書き換えてしまっているかもしれないので、とりあえず大きくまとめています。ご了承ください。それと、私と同じく発達障害を持つ当事者の方やその周辺の関係者の方たちは当事者の失敗体験や特性の話などは、もうお腹いっぱいかもしれません。が、私の特性を知ってもらうことが、このブログに綴ってきた私の “これまで、イマココ、これから”を読んでもらうことの伏線になってくれるように思います。何をいいたいのか簡単に申し上げますと『どんな人も自分が変わろうと思えば変わることができる、それは自分次第』なんだということです。そして、人生のターニングポイントで出会った人との関わりなどから巻き起こるスペクタクル巨編になりうることもなきにしもあらず。といったことになるのですが、、、あっなんか、終わった感満載。まっいいや。ということで、前置きが長くなりました。ではでは続きをどうぞ…。

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①から④までは日々の暮らしの中で自助努力に関する内容でしたので、本日は苦手な生活習慣とは違い『仕事』にまつわるエトセトラな自助努力といいますか、私にとって仕事でやってきた努力は、ただただ楽しかっただけでもあったので、人と比べてしまう人や努力しても報われなかった人はあまり参考にならないかもしれません。ですので読みながら、イラっとしたり、もやっとした時点で、読まずにこのブログを閉じてください。そして、思い出した時に改めて読んでいただけましたら、その時はイラっともモヤっともしなくなっているかもしれませんので…またの機会にでもと思います。

さて、仕事といえば、子どもの頃はお手伝いをすることが当たり前でした。母から教えてもらったことになりますが、母は兄弟姉妹が多く長女だったことから、祖母(母にとっての母親)にめい一杯家事をやらされていたのだそうです。なので、私や弟には全部自分が身支度から何から全てやってあげるつもりでいたんだそうです。(それはそれでどうかと思うよお母さん…。(^_^;))ですが、ある日、雨か何かで洋服がびしょ濡れになった私に服を着替えなさいといったのに、びしょ濡れの服は脱いでいても、洋服を着替えないまま私はパンツ一枚のままその場にたっていたのだそうです。なので「なんで服を着ないの?」と母が私に尋ねると「何を着たら良かかわからん(何をきたらいいのかわからない)」といった出来事があったことから、母は“これはいけない”と思い、それからは男女関係なく、私たち姉弟は、自分の身支度は自分ですることや、家のお手伝いをさせるようになったと教えてくれました。そういった母の勘のようなものが、その当時にはなかった発達障害の早期発見や早期療育を受けることはなくても家庭の躾の範囲で、私が社会に出るまでに身につけることができた『働く』ということの土台になったとも思います。ただ、それも良し悪しで、現在では他にもっと良いやり方があるので、私はそれを障害の程度が重度といわれる息子に行っています。考え方は母の考え方を採用していますが、やり方や在り方は母とは違って常識を度外視したやり方を行っています。あっまたずれた。

幼稚園の頃には、私も弟も自分のシューズは自分で洗ったりしていました。成長と同時にお風呂の準備は父を含めて交代で行ったり、じゃんけんで決めていた時もあったように思います(笑)朝ごはんはセルフサービスでしたし、私が高校生の頃までは兼業農家で、母が食堂を経営していたので、土曜日の昼食は自分で適当に作って食べていました。幼い頃から家事手伝いだけではなく、母の食堂が忙しい時はバイト感覚で手伝うこともありました。食堂の手伝いは手伝っていましたが、思春期のはじまりの頃はすごく嫌でした。その理由は、なんかよくわからないけれども“恥ずかしい”という気持ちが芽生えたからです。でも、嫌だという理由を母にはいったことはなかったと思います。今は接客も全然平気になったのですが、同じ地元だけれども、あまり知らない先輩や高校生のお兄さんたちがお店にくるのがとても恥ずかしかったことだけは覚えています。その時に接客するのがものすごく恥ずかしくて本当は接客したくありませんでした。慣れている人たちだと全く平気だったのですが、自分でもそれが不思議でなりませんでした。振り返ってみると、これって、異性として気にしてて照れてるってことにもなりますよね?(違うの?)その当時はなんで恥ずかしくなるのか全く意味がわかりませんでした。今思うと“好きだけど嫌い”ってことと同じことなようにも思います。

自営だったことで、家事手伝いとはまた別に、思春期の頃から職場体験のようなことを私も弟も普通に行っていました。そして、母は家事も仕事もとにかく早いし上手く頭の回転が速い人だったので、どんくさくて気が効かない私に対して、母は『次に何をすればいいのか自分で考えられるようになりなさい』といったことを、食堂の手伝いにはとどまらず口酸っぱくいわれて育ちました。そのおかげもありまして私は、全体をみて現場を取り仕切る人がいる場合といない場合の私の『動き』に違いがでることになりました。はい。全体をみて取り締まれる人がいない場合には、私がそれらを担うこともできることについ最近気がつきました。ただ、これは、1人親方だとすごく上手くいったのですが、チームになるとなかなか大変ではありました。指示を待つのか、気を利かせて先回りして仕事をこなすのか。割と自分1人で仕事をすることになっていた時期が長かったこともあったので、リーダーが放任主義だと私は人の分まで仕事をこなしたりしてしまう時期もありました。逆にリーダーが母のように頭の回転が速い人の場合には、とたんに私の戦闘能力のようなものは萎えてしまうことにもなりました。なんていうか、指示待ち人間になってしまうし、良い子になってしまうのです。不思議なんですけど。で、仕事が人よりも早く終えてしまったりすると『他にお手伝いすることありませんか?』といったお仕事おかわり状態になって、リーダーを困らせてしまうことにもなっていたと思います。真面目ではなくただ単に律儀だっただけなんですけれども。それは、自分が役にたってる感を感じていたことが大きかったのだと思うのです。それがいわゆる“承認欲求”ということになりますよね。。。ああ、子どもだったわー私(恥)そして、テキトーが出来なかった。一生懸命すぎたなぁーと思います。ただ、それくらい面白かったからでもあったのですけれども…。それと、不思議なのことに私の人生は必ず対局を学ぶことになってきました。一般社会でも一度ドロップアウトした後の社会復帰後の福祉就労でも…。

おおまかにいいますと、少数の個人事務所から大人数の個人事務所に転職したことで、小さなチームでの自分自身の立ち位置や役割の違いを知ることになりました。少人数の個人事務所の時は、全ての工程を自分1人で行う作業が多かったのですが、大人数の事務所の場合には役割で仕事をするということを知りました。大人数の個人事務所に所属していた時に、私は大きな勘違いをしていたことに気がつき“ショック”を受けたことで、“自分自身と他者は同じように考えることができない”ことを気がつく出来事がありました(苦笑)こういうことは、思春期ぐらいまでには大抵の人が知っていることもその時に気がついたというより、職場の上司に教えていただきました。いい大人なのに知らなかった自分がとても恥ずかしかったし、その日まで誰も教えてくれなかったことに腹が立ったと同時に、自分にも腹が立ち恥ずかしすぎるわ、悲しすぎるわで涙が止まりませんでした。しかも仕事場で泣いちゃうくらいです(恥)まったくいい大人だったのに…。他者の仕事に対する考え方に対してウエメセで腹をたてていた自分が恥ずかしくて仕方はありませんでした。自意識過剰な自分を認めざるを得なかった出来事でした。でも、私自身の考え方が間違っていたことに気がつけたことはよかったなぁと思うことにはなりました。そこでやっと他者が仕事できなくても、仕事をしなくても、そんなに腹立たしく感じることがなくなりました。腹はたつことはあっても『自分は自分人は人』と割り切ることはできるようにはなるきっかけにはなりました。その時28歳。私にとって子どもを産み育てる前に知った大きな気づきとなり大人の階段を一段位昇ったぞ!という思い出になりますが。。。(^_^;) イヤー恥ずかしいったらありゃしない。。。

⑥につづく…