今日の空
みんなと同じ景色をみたり
同じごはんを食べたり…
そのときに自分の中に湧き上がる思いを
ただ「綺麗」とか「美味しい」とかの
シンプルな誰もが一瞬で
通じ合える言葉の奥底に
1人ひとりそれぞれの心の情景が
あるんじゃないかと私は思っている
その心の情景にはおそらく一瞬で
走馬灯のように
過去の出来事が蘇っている
心が壊れるくらいの苦み
部屋の中がびしょ濡れになるくらいの悲しみ
見ず知らずの人とでも
ハグしたいくらいの喜び
お母さんが褒めてくれた時の嬉しさ
我を忘れるくらいの怒り…
その時のその人にとって
湧き上がるものが何かによって
景色の見え方は変わってくる
味覚も違う
でも、表面に出てくる言葉は
みんな同じ言葉になる
きっと、そういうときに
自分が思い出した事を
湧き上がった気持ちや
過去の思い出を
その時同じ景色を見ている人に話すと
心が軽くなるのかもしれないなぁーと思う
まぁ ただ空っぽで景色が美しいと
いう人もいるとは思うけど(笑)
やっぱ、私は考えすぎだなぁ(笑)
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この記事をなんで書いたのかは
実はハッキリと覚えています。
良くしていただいていた
年上のお友だちの人が
『綺麗な景色を友だちと一緒に楽しみたい』
だったかな?
そんなことを話した時に
私は複雑な感情が湧き上がってきたことがあって
たとえその景色が綺麗だとしても
その時の立場によっては
みんなと同じ景色をみても
同じように感じられないことがある
“綺麗”とか“美しい”とか
そんな言葉では語りつくされないくらいの
1人1人物語があるだろうから…。
と思ったことからこの記事を書きました。
息をのむくらいの景色を見る時
その地点まできた道程を
何も考えず歩いてきた人と
その道程の中で些細な感動をしてきた人
又は何かを気がつけた人とでは
その短く発せられた言葉に含まれる
感情というものは1人1人違うのだよなぁ
だってそれだけ小さなことを
大切に大切にしてきたのだし
その地点の景色だけをみるためだけに
それまでのことを振り返っても
忘れてしまうくらい夢中だった人は
また、その景色をみた後に
無我夢中だった自分に気がつくことで
空白のように感じる時間を
勿体ない事したなぁと思う人も
いるのかもしれません。
私はどちらも経験しました。
そして、今まで“あたりまえ”だったことが
“あたりまえ”ではなくなった日々も
経験することになりました。
他者からみれば苦労続きにみえますが
私からすれば“あたりまえ”でした。
だからそんな“あたりまえ”で
“ありきたり”な日常が幸せなことだと
気がつくことができたけれど
そんな生き方が許されないのは
何故なんだろう…。
そんなことを思ったりします。