ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

呪いからの解放②

少し話しが遡りますが…。息子が知的の遅れを伴った自閉症スペクトラムという診断をうける前の疑っていた時期は、毎日ネットなどで自閉症のことを調べていました。どんな障害でどのような関わり方をしていけばいいのか。その当時は三組みが叫ばれていた時代で、コミュニケーション、社会性、イマジネーションの障害となっていた時代だったので、元々カタカナ英語に弱い私には、イマイチ理解に苦しみました。今はわかるようになりましたが、多分、その当時の私自身言葉を理解する力が弱かったこともあったからだと思います。まだその当時は様々なことを真に受ける体質でもありましたし…。

来る日も来る日もネットで調べる中、なんていうか希望を見出せるサイトはあまりなかったように思います。保護者の方のブログや支援者の方、療育機関のブログなどいろいろ読みました。息子が自閉症だと確定診断がおりた時は、正直ホッともしましたが不安でもありました。自分のことさえ上手くコントロールできない私に育てていけるのだろうか?、コミュニケーションが上手くできないのは私もだけど、そんな私が知的な遅れも伴っている息子に対して、これからどう関わっていけばいいのだろうか? そんな不安がなかったわけではありませんでした。

あの当時、ネット社会になりはじめていたからこそ、私は地方にいても、サイト上の掲示板やSNSなどから、最新の情報を得ることができました。人の中でうまく立ち回る事ができないからこそ、ネットでの情報検索は自分で情報を選びキャッチもできます。必要ないと思えば見なければいいですし。著書もその当時は療育関係の本のほうが多く、当事者の方の成育歴などが読める著書が少なかったように思います。あの当時私が知りたかった情報が著書になく、ちょっと古いような気がしていました。そして、暗かったんですよね。本当に、なんていうか希望がないなーって。治らなくても、その人が少しずつでも発達しながら自分の力で生きていけるような療育ってないのかなぁって。そんな風に思って、療育について学べる講座や支援機関がないかを調べて辿り着いたのが、佐賀のNPO法人それいゆでした。それからTEACCHのことを知り、その当時のTEACCHの理念を知ったことで自閉症スペクトラムでも希望を持ちました。その当時からいわれていたのは『自閉症が知的な遅れを援ける』ともいわれてもいましたし、息子に表出してることをその当時の私は全く問題だと思っていませんでした。本当に面白い子だなーとしか思えなかったのです。まさかそれが、自閉症特性だったなんて知って、これを面白がらずに悲しまなきゃいけないの? と思っていたりもしました。今思うと、私はそのままの考え方でよかったなぁーと思うことが沢山あります。

リアルな先輩ママから聞いたことはありませんでしたが、ネットで参考にさせていただいていた一部の先輩母さん方が囁いていらっしゃったのが『丁寧な子育て』という言葉でした。それは、ありのままを受け入れましょうといったことではありませんでした。彼彼女等の将来を見据え、普通の子育てを丁寧に行うことが自閉症スペクトラムの子たちには大切なのだといったことでした。そして、その『丁寧な子育て』は障害の有無にとらわれることのない、誰にでもできることなのだとおっしゃられている方がいっらしゃいました。そーいえば。←今更思い出していますが…。

ネット上になりますが、そんな先輩母さんがいらっしゃるなか、そうだなーと思いながらも、支援方法の固定概念にガッツリ捕まってしまった私だったので、それがドツボにはまる原因にもなったのはいうまでもありませんが…。療育にずっぽりつかりすぎて、治らないっていう呪いの言葉も真に受けすぎていたことのある私は紆余曲折ありながらも結局のところ、この当時には知っていたけれどできていなかった『丁寧な子育て』を今現在行っているというわけです。しかも、この『丁寧な子育て』は療育施設につながることがなくても、著書もいろいろでていますし、ネットでもよりどりみどりです。どんなことが、ご家庭やお子さんの状態にあうのかは保護者の方でなければわからないことです。自助努力ができるタイプのお子さんの場合には、もしかしたら自分自身で検索しこっそり参考にしているお子さんもいるのかもしれません。もし、私があのもがき苦しんだ思春期時代にネット社会だったとするなら、恐らくネットをググりまくっていたでしょう。それでも、自己コントロールもできず、ネット社会の闇も知らず、ただやみくもにぐぐった情報をとりいれたり、相談したりすることで犯罪にまきこまれていたのかもしれません。それこそ、危険予知だったり、考えて選ぶ力の有無が問われることになるだろうと思います。ただ、親が制止しようとしても、思春期の頃は親の目をかいくぐってでも、実行しようとする時期にもなりますから、それまでの間に善悪の区別や自分で責任を負うことの意味なども知っておいたらいいのだろうとは思います。

思春期時代だからこその問題行動とその時代までに発達のヌケからくる問題行動とはちょっと違ってくると私は体験をふまえた上で感じていることなので、幼い頃の問題行動はどういったことが起因となっているのかは、今現在たくさんのことがわかってきているのだからこそ、家庭での取り組みも大切なのだよということなのだろうと思う今日この頃ですが、先輩母さんにも様々な先輩母さんがいらっしゃり、私はいつの頃からか、そんな先輩母さんたちや同じ立場の保護者を避けまくってきました。支援者や医療従事者の『治らない』というお札だけでなく、まだ息子が診断間もなく手探りの状態の頃は、もっと強烈な『呪いの言葉』の数々にさいなまれていたように思います。

 

③に続く