ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

自主企画を卒業したワケ②

3度目の講座ともなると3年前から参加してくれていたお子さんたちの成長を感じることができ、我が子の成長と同様にとても嬉しく思いました。あるお子さんは、個人指導とグループ指導どちらも参加していたお子さんで、3年前はお部屋に入ることもままならず、言葉も乱暴だったけれど、年々、言葉遣いもよくなっているように思いました。グループ指導の時、私は指導を聞きながらお子さんたちを観察しながら遊ぶことに努めたので、そのお子さんと遊ぶ中で右側だけを使って遊ぶ様子がみられたので、「なんで右側だけ使っているの?」と尋ねてみると、「栗本さんにアドバイスしていただいたんだ」と私に教えてくれました。あまのじゃくなお子さんだったので、自分に興味のないことは絶対行ってくれなさそうなお子さんでした。でも、たった3年の年1回の講座で、こうも成長するのかと嬉しさの反面、私は身の引き締まる思いにもなりました。それに、講座に参加してくださる方たちはどの人も子どもたちのことを考え一生懸命です。ただ、それがうまく噛みあっていないご家庭もみうけられて、昔の療育に一生懸命はまっていた頃の自分を思い出すことになったし、発達支援コーチの講座で学んだことや、個人的に知っていた『子どもには何も問題はない』ということが腑に落ちることになりました。この時、子どもたちだけでなく、人を変えようとする行為がその人の問題を大きくしてしまうということにも気がつくこととなりました。目の前の子どもたちが何をいわんとするのかを勘違いして受け取っているのは、私たち大人なのだということ、そして、大人もまた自分自身が何を求めているのかさえ勘違いしているのだということにも気がつくこととなり、私自身も自身の至らなさをマザマザと知ることとなりました。

私は思春期の頃からどこか自分自身では抱えきれない問題の根っこに辿り着いた講座にもなり、自分はちゃんと自分を治すことがまず先で、講座を主催している場合ではないといった思いでいっぱいになっていきました。それに、私はただ、最初に始めただけの人で、私は九州代表ではありません。息子が大人になるまでに身体の不調を薬以外の方法で整えられるようになることで、施設や作業所などで自立した活動ができるようになればいいなと思って始めただけです。お家で0円でできる身体アプローチの講座が開催されるのを待っていたら、私の住む熊本で受講できる日が来るのは恐らく何十年も先になるかもしれない。私はせっかちなので、誰かが開催してくれるのを待っていられなかったのです。だから、まず自分がやってみるしかない。たとえ自分が損しても。という思いで始めた講座でした。ただ、話し言葉がない当事者の方や話し言葉を持っていても、言語体力がなくて自分自身の気持ちを上手く表現できない人達は、おそらく自分自身の心身の状態を伝える術ももたないでしょうし、察してくれる人なんて一握りだと思います。素人の私がみた限りになりますが、重度のお子さんたちの場合にはエンパスをより強く持っている子に巡り会う確率が高いなと思っていて、気の停滞が起きていたりしていることから不具合が起きてしまっていたり、私や息子と同じように他者の感覚を感じてしまい、不具合が起きていることもあると思うことが多々あったので、そのことに気がついてもらえたらなぁと思ったのです。でも、それらを伝えるのは、ただの主婦の私よりも私よりも、元々から身体アプローチを行っている人たちから伝えていただいたり、発信してもらえたほうが、より良く伝えられるだろうし、信用していただけるだろうとも思いました。心と身体は繋がっていることを知っているのは私よりもムシロそいった学びをしている人たちでしょう? だったらなんで学んだことを自分の手でそれを広げようとしないのだろうか? なぜ、それに困っている私がそういう場を提供しなきゃいけないのか? そういった思いがこみあげてきて、ムカついたこともありました。それに、そういう場を私が提供することはできても、私が無理して行うことはそれらを稼業にしている方たちのお仕事を奪うことになってるのかもしれないとも思いました。遠慮せずに、さっさと自分たちで呼べばいいのに、良いものだとわかっている人たちが自分の知識の中だけで終らせていることにも腹がたちました。「ブログに感想書いて終わりかよと…」イベントの講師が有名でなきゃ採算取れないとか思ってるのかな? 人任せの啓発ってそういうことなんじゃないかという思いにもなりました。本当に子どもたちのことや発達障害の人たちによりよい豊かな生活を送ってもらいたいと思っているなら、行動に移せないってどういうことなのかな?とそういう思いでいっぱいにもなりました。ただ、そういった方がいらっしゃらなかったおかげで、得たものは大きかったので、私が損することになっていたとしても結果私は全く損していないということに至っています。
それに、息子が成長し、かなり落ち着いてきたので、私自身完璧に治らなくても彼の成長が私の治療にも繋がるのかもしれないそう思いました。自分が崩れた時はどうすればいいのかも、入院した当時からすれば随分上手くなったように感じていたので、もう一回、息子と一緒に暮らして身体のことを整えながら、家庭生活でしかできないことを経験していこうといった思いが強くなったことにもなり3回目の講座で私はイベントを卒業することとなったというわけです。
で、それからいろんなことが多々ありまして、私は身体アプローチの講座には今後参加しないことにしました。野口整体の講座も受けようと思い何度か参加しましたが、私が生活基盤を上手く整えられないから、様々な方たちのご協力で回りくどい行動統制をされたので、行かないことにしました。行きたくても行けない摩訶不思議な体質の私なので、周りくどい行動統制と神がかり的ななんかしらんけど…ということの違いは肌身でわかるのです。そんな私にわからないと思って回りくどい行動統制をするから、反発するだけなのことはわからないのでしょうか(ぶ)人の家のお金の問題を解決するために回りくどい行動統制とかしても、自分自身で気がつき気をつけるようにならなければ、変わることは難しいのです。それは何故かというと、自発的にできることにはならないからです。問題をわざと起こし、重い腰を起こさせるような行動統制は、コントロールしていることと同じです。だから治らないし、問題が大きくなるのです。あきらかに自己コントロールができない人の場合には強制的に行うことは必要だと思います。でも、みえないところから行動統制されることは、潜在的に抑制していくことにわけですから怒りに発展しやすいのです。だからこそ、小さな失敗をした時に自分が気がつき改善していくってことのほうがおそらく、本人に負担が少なく、怒りも溜まりにくいのだと思います。その失敗した時にやり方をアドバイスしてくださったり、違う考え方をサポートしてくださることのほうが、よっぽどその人の癖がより良くなっていくように私は肌身で感じています。ただ、他者がどんどん良くなっていく姿をみることで、まるで自分のサポートが良かったというような認められた感とか報われたような気持ちになったり、その人が変わっていく姿や成長していく姿がみられることはというのは悪いものではないからこそ、その気持ちがすぎれば自分のアドバイスで相手が期待に応えてくれない時のジレンマを抱えたりすることになっているなら、本末転倒なことだと私は思うし、もうそういった気持ちにおちいってるなら、相手を変えようとしていることになるのだということはどこか胸に留めておいて欲しいなぁーと思います。
話しがずれましたが、心身ともに元気になるということがどういうことなのかは、この3年間で得たことがとても大きいです。そして、体感をすることや観察をすることの大切さなど、自分自身の在り方までも問う事になりました。そして、身体だけでも、心理面だけでも整わない状態までになってしまうこともわかりました。私にとって、自分の心身の状態がどういう時にどういった状態になるのかを知ることが私自身を知る事にもなりました。最後は気持ち悪い終り方になってしまいましたが、私にとっての原点にもなると思っています。そして、野口晴哉氏の著書を読むようになり、また違った視点から自分自身を眺めることになっていますが、なんだか封鎖されてしまいました(泣)

野口整体は習いたかったのになぁー。。。。。

本当に残念でたまらないです。。。(泣)

 

【 完 】