ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

ルーツを辿る

私の父方の祖父は、満州事変で朝鮮半島に渡りましたが、戦争中寒さで手の指が凍傷になり指を切断することになったので、戦死を免れたと聞いています。

その後、水俣チッソ工場で褌一枚で働いていて、父が生まれる前かその後に、水俣から現在の天草の実家へ家族で引越したのだそうです。それからは農家で生計を立てていたそうです。祖父は養子で曽祖父になる人も養子だったのだそうです。曽祖父の時代には高利貸しを営んでいたそうで、私の母が嫁入りし家を改築する時には屋根裏にその当時の証文がたくさん出てきたと聞きました。
祖父は水俣から今の実家に帰ってきて、体調が優れない時期があったようで、水俣病の症状が出ていたそうです。医師に水俣病だといわれたようですが、国に申請をすることを快く思っていない漁師をしている親戚に、地元から水俣病患者がでれば、風評被害になり地元で漁れた魚が売れなくなるから国の申請はやめて欲しいといわれ、水俣病の申請はしなかったのだそうです。
私の父の兄弟姉妹の1番上になる伯母は、聴覚障害で振動は感じますが、耳が聞こえず話すこともできませんでした。知的な遅れがあったかどうかはわかりませんが、私の拙い記憶を辿るとおそらくあったのではないか?と私は思っています。その伯母が小学校へ上がる時、自宅を離れ寄宿舎のある聾学校に通学する話が持ち上がったようですが、親戚になる人たちがまだ幼いのに、寄宿舎に入れるのは可哀想だということをいわれ、祖父母も思い留まったのだそうです。
うちの息子が自閉症とわかり、まだ先の話だと思っていた施設入所でしたが私が身体を壊したことで施設入所を利用することになりました。
タラレバになりますが、そういった経験があることで、母とはよく伯母が聾学校に通えていたら、もっと違った人生を歩いていたかもしれないし、自立したり、結婚さえできていたかもしれないよね。手先が器用な人だったしね。といったことを話すことがあります。

田舎だけではないと思いますが、他所の家の状況を外側からみたり、その場しのぎの優しさやエゴで他所の家の事情に口を出し、本来受けられたであろう治療や支援や教育を受けられなかった人たちもいます。
祖父や祖母がもし、伯母の未来を見据えて今は可哀想だけれども、伯母の人生の選択肢を広げたいと思い、手放せていたら伯母にとってまた違った人生になったと思うこともあります。親次第で子どもの人生が変わることは頭のどこかにいれておきつつ、子どもたちが大人になり私たち親なき後を引き継ぎ、より良くどんな立場の人も生きていける社会になるといいなぁと思います。

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