ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

右巻きと左巻き

自分の過去を遡って思い出したことを今日は記事に残しておこうと思います。

f:id:sorahitoumi:20171104152112j:image

タイトルが『右巻きと左巻き』にしたのは、ちょっとした理由があって、私は僻地(へきちという言葉は差別用語だそうですが、ここでは使用します。)で生まれ育ち、地元の小中高9年間教育を受けました。他の学校の先生がどのようなタイプの先生がいらっしゃるのかは知りませんが、その9年の中で巡り会った担任や副担任がちょっと変わった先生だったけれども、当時の私は『先生』という存在を人格者だと思って勘違いしていたこともあったりして、大人のいうことは絶対とか大人がいうことが正しいと思い込んでいたことで、当時から個性的な自分とうまくつきあえなかった思春期の頃の私にとって、思春期で一番もがきトラウマとなった3年間の担任は、私にとっては最悪な担任でした。ただ、その後に出会った担任や副担任の先生で、私は救われたことも多々あったりもしました。その当時までは、かなり鈍感で不思議に思ったことを徹底的に追求するようなことはしなかったことが、中学時代の担任・副担任へ偏見をもたずに大人になれたことと、母が防波堤になってくれて、母はその先生たちが世間一般でいわれる『右翼だか左翼』だかいわれる思想を持った人たちであったことを私には一切話さなかったので、その先生たちが実は『右翼だか左翼』な思想を持った人たちだったということを話しをしてくれたのは、実は最近です。

うちは昔食堂をしていたので、単身赴任や独身の先生たちが月の契約していて、食事を賄っていました。その当時、その二人のうちの一人の先生が契約をしていました。ある日、先生一人だった時、母に

「僕の思想の話を生徒たちへ話すことはどう思いますか?」

といったことを聞かれたことがあったそうです。で、私の母は

「絶対やめてください。」

ということに加えて何故やめてほしいのか思っていることを伝えたのだそうです。だからでしょうか、学校生活の行事の時に国歌斉唱しない姿をみてはいましたが、当時の私は本当に鈍感だったのか、ただ気にならなかったのか不思議に感じても、先生に聞いたこともなければ、母には聞いたかもしれないけど、まーあんまり深追いしないほうがよさそうだなーということもあったのか、ただ記憶にないだけなのか。私にとってそういうことはどーでもいい記憶で終っていたようです。その後大人になってから先生が『右翼だか左翼』だかの思想をお持ちだったのだと気がついたくらいでしたので。だからといって、先生を軽蔑したり嫌だなーと思うことはありませんでした。

その当時の2人の先生がそういった思想を持っていたおかげなのか、先生方お2人の元々の資質なのかそれは定かではありませんが、その当時の私は、その先生方に救われたことが沢山あったのです。小5から中1にかけての担任によかれと思った対応をされたことが、私の主体性の芽をつぶされそうになってて苦しかったし、中1の時に乖離した出来事がなんだったのかは今だに自分でも不明で思い出せずにいますが、その当時には副担任の先生がその2人の先生のうちの1人だったことで、私は保たれていたような気もするのですね。

その先生は保健・体育の先生だったので、今から30年くらい前にあの当時は画期的だっただろう性教育をしてくださったことや、体育がただ運動をするだけではなく、分析してレポートをまとめるといった体育だったので、ノートにまとめることが大好きだったから先生の授業が好きでした。私は運動に関しては凸凹があって、器械体操や鉄棒に関してだけは人並み以下の身体能力でした。マット運動や跳び箱も苦手で跳び箱3段が飛べなくて悔しいのと、何度でもチャレンジさせる先生にホトホト参って、自分でも何故飛べないのかわからなくて、泣いていたくらいでした。

私の両親は2人とも身体能力が人並み以上だったらしく、父は短距離で国体の選手に選ばれるくらいで、母は全日本のバスケットの監督にスカウトされたけれど、身長が1cmたりなくて全日本にはいれなかった人たちだったりして、なんだか周囲の人はそんな両親だから、私は身体能力高いと思ってる人もいたりして

「父ちゃんは足が速かったとにねー。なんで似らんやったとかねー」

なんてことも言われて育ちました。子ども心にそれは悲しかったことを今でも覚えています。容姿のことでもいろいろいわれたから結構自己肯定感低くかったこともあって、とあることがきっかけになって自分勝手に自分で大きな悩みにしちゃったこともありました。あっまた話がずれてる…。

話しを戻します。発達障害の身体のことを著書や講座で学んだことで、今の私は、自分がLD体質なのだと気がつくことになって腑におちていますが、その当時はそういった知識は全くありませんでしたし、逆に先生たちも、私が他の運動は人並みにできるのに、器械体操や鉄棒、跳び箱などは人並みにもいたらないのが、不思議でしかたなかっただろうなぁーと思います。だから、私にできるようになってもらいたくって、小学校時代の担任は余計に指導してくださってたのだと思います。イヤハヤメッチャ迷惑でしたけど。。。そんな私にとって、中学時代の副担任の授業のスタイルはとてもあっていたし(他の学校の体育の授業がどんなだったか知らないので、先生のスタイルが特別かどうかは定かではないです)マラソンなどの長距離走などは、ラップタイムを計ったりして、セカンドウインドを感じることを実体験したりしたこともありました。身体レベルで感じることができたことが、今になってみればすごくいい体験だったなぁーと思いました。それはなぜなら、ある一定のリズムで走っていると必ず酷く辛くなる時がきます。辛くなったからといってそこでスピードを遅くしたり止まったりするのではなく、一定のリズムのまま走り臨界点を超えると、風が気持ちよく感じて身体が軽くなる時があるんです。それが『セカンドウィンド』だったと記憶しているのですが、間違っていたらすみません。それらを体験したからでしょうか。他のブログの記事にもある『気持ちいい』という感覚を思い出すことができたのはその経験は大きいのかもしれません。少々辛くてもちょっとだけ我慢した先に楽になる地点があるということに気がつけることにもなりましたし…。ただ、私の場合には真面目というか律儀だったり、真に受ける体質が加算され、我慢や抑制を重ねすぎて自分を殺す生き方を選ぶことになってしまいました。ただ、これらは良くも悪くも今の私にとって『頑張る』ことに対しての何かしら土台になっているように思います。長距離走の他にも、大っ嫌いだったマット運動も跳び箱も鉄棒も先生のおかげで、大嫌いではなく苦手だけど、苦手な私でも楽しめるのだという喜びを感じられたのは、先生のおかげだったなぁと思っています。

今思うと、先生は一般的には少数派だったけれども、その一味違う価値観のおかげなのかどうかはわからないのですが、私は間違いなく救われていたのかもしれないよなぁということがあるので、どんな思想を持っていようが自分の思想を私へ押し付けられなかったことが、実は母が防波堤になってくれたということもありますが、先生は先生なりに教育の在り方を考えていらっしゃっていたのかもしれないなーと思ったりします。

私が神社参拝に興味を持ったのはここ10年くらいですが、実は中学3年間は体育祭で女子は神楽を舞っていました。センスと鈴みたいな物を持って。そのことでもいろいろありましたが、あの当時から変わっていないことは、私の中で起きていることと、周囲が私のためにとか、私のことを勘違いして様々なことで周りが騒いでいるってことは何ら変わってないじゃないかーってことに最後になって気がつきました(汗)他にも変わった先生がいましたが、それはまた別の時にでも…。

それにしても私って…トホホ、あとは天におまかせしよう。。。