ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

夢よりももっと大切なもの

私は幼い頃からいろんな夢があった。

保育園の頃は八百屋さんだったかな? 小学校の頃は山下画伯のように、日本中を旅しながら絵を描く画家。ムツゴロウ王国の犬の担当、盲導犬を育成する人、中学になってからは、漫画家、シンガーソングライター、一番現実的な物は保母さんだった。

中学の頃まで日記を書きその日記の中には詩を書いていた。どんな詩を書いていたのかは忘れてしまったけれども多分ネガティブだったような気がする。

高校になって仲良くなった人たちで交換日記を回していた。それで失敗をしてから私は日記を書かなくなってしまい酷く落ち込んだり、悩んだ時は寝る事で思考を停止させていた。

進路を決める時期になり本当は関西の美術短大に行こうと思い、両親にも承諾を得ていた。ただ、修学旅行へ東京にいった時、都会で生活することは自分にできないように思った。

山手線の満員電車、立ち並ぶ高層ビル、ディズニーランドでは普段咳きこんだりしないのに突然咳がとまらなくなってしまった。とにかく、私には怖かったのだ。都会のなにもかもが。行きたい美術短大は決まっていたのに何故か行く気持ちが失せ、他にも事情があって県内へ就職することにした。

今思うと本当に怖がりなんだなーと思う、これこそタラればになるがもし、大阪に住んでいたら恐らく阪神淡路大震災を体験していただろうけど、あの時は県内に就職していたことで被災せずに済んだけど、結局あれから20年後私は熊本地震で被災することになるのだが…(苦笑)

怖くても親から遠く離れて暮らしてみれば、また違った人生になっていたかもしれないし、もっと違った形で何かに気がつけたり違った形で「夢」は叶ったかもしれない。

それでも、私は運がよかったのか最終的には、専門学校などへ進学せずとも地元ローカル紙の紙面デザインを任されたり、絵のコンクールで賞をいただいたりもした。

画家にはなれていないが私のいくつかあった『夢』の一つは、間接的に実は叶ったといってもいいことになる。ただ、それは一時的なものにすぎず、今はただの主婦でありお母さんのやり直し中だ。

私はいつのころからか『夢』よりも“自分が何者であるのか”や“自分にはどんな使命があるのか”といった自分探しのほうが気になっていった。

様々な体験や人との出会いを通して自分という人間を思い出していく中、いつの間にか私は40歳を越えていた。何がきっかけだったのかは忘れてしまったが、私の『夢』ってなんだったのだろうとそれらを改めて掘り下げてみた時に、中学2年生の頃に受けた音楽の授業のことを思い出した。

ショパンの革命が弾ける夏目雅子さん似で美人な先生の音楽の授業では、作詞作曲の時間があった。

あれは本当に楽しかった。自宅でも帰ってオルガンでメロディを考えた。それにあわせて詩を考え、五線紙に音符を綴っていった。決して私は上手かったとはいえなかったと思う。ただ、好きなだけだった。考えるだけでも心がワクワクしたし、自分でも出来たことが本当に嬉しかった。中一の頃の音楽の先生は英語と音楽の担当の先生だった。その先生は授業の一環で「サウンドオブミュージック」をみせてくださった時は心が震えた。中3の頃の先生は若くて新人の先生だったので、私も含め先生をなめていたし、からかっていた(ごめんなさいね。先生)その先生には「Yさんの声がとても素敵だと思う。」と褒めてくださった。内心すごくうれしかった。

カラオケにいくことが好きだったけれど実は順番を待ったりしたくないし、ずっと一人で歌っていたいという気持ちがあったので、お一人様を極めるために1人カラオケをしていたことがあったが入院を期に一時中断していた。その後、久しぶりに視ていただいたスピリチュアルカウンセラーの方に守護霊が『歌唄いの宇宙人』だといわれたことから、単純な私は、それじゃあ、私の魂が喜ぶならと思い、週一回カラオケに行くことをはじめた。

後々、それは私の養生の一つにもなっているので今だにいける時は歌っている。それだけでも私には十分幸せなことだったりする。ある日、以前勤めていた会社の社員旅行の宴会の席で歌を歌うことになった。とても緊張はしたが、なんだか皆さんが盛り上がってくださって歌っていて気持ちがいいと思った。悪い気がしなかった。

その時

「ああ、私は歌手とかにならなくても、たくさんの人の前で歌えるだけで嬉しいんだな」と思った。それからは機会があればカラオケ大会などへ参加している。

去年の震災が起きる5日前の4月9日。音楽のイベントを開催した。そのイベントをすることになったのは、前日の記事にあるドリカム新幹線のことがきっかけで、私がFacebookで自分の夢を記事にしたことからだった。その記事を読み数名の方が賛同してくれたことからイベントを開催することになった。

プロの生演奏で素人が歌うドリカムソングオンリーライブのイベントに私を含む8名の方が参加してくださった。準備期間の半年間は本当に楽しかった。ことのほか順調にいっていたのだが最後の最後に問題が起きた。今思うと本当にバカらしいくてアホだなと思う事で。それでも、観にきてくださったお客様から、次はいつするの?次回は主演したい!という声もあがった。

ただ、正直いうと私はもうその時は前日までに起きていた問題でぐちゃぐちゃになっていたし、疲れや緊張や達成感などで頭が真っ白になっていた。それに、上手く歌えなかったし間違ったけれども、なんというか、すごく満たされた気持ちでいっぱいになっていた。だから、私自身はその1回で十分満足だった。その5日後、熊本地震が起きたことで最後に苦い思いをしたイベントだったが、やって良かったとそう強く思った。もし、地震の5日後が開催日だったら間違いなくイベントは中止又は延期になっていただろうから…。

大人になると、やってみたいと思っても、どうしても自分で勝手にあきらめる癖がついている。

“私になんて無理、できない。”

“上手にできないから、完璧じゃないから”

“容姿が整ってないから、恥ずかしいから…”

いろんなことで自己否定が始まる。そして、自分の中に負の感情を貯めていく。

そんなのは単なるできない自分を肯定しているだけで言い訳にすぎないと思う。

そのイベントを開催するまでに出会った人たちや、ネットで自分を生きている人たちの在り方を知っていたから私はその人たちに教えてもらったことをやってみただけだ。

自分のわからないところは調べたり、詳しい方へ教えていただいたり、自分のできる事はさせてもらったり、任せてもらった。私の苦手な部分やできないことは他の人にお願いしたりした。

そのイベントで自分を輝かせるために、お金を使うということも実際にすることになった。ようは自分で自分をプロデュースすることを結果的に行い、他者へどうみせればいいのかまで必然的にやることになった。自分ができることは時間をかけて下準備を行った。本番までのその準備期間は私にとって一番大切な時間だったなと思う。精一杯自分なりに準備して協力もしていただいて一度で終っても全く悔いは残らないと思った。

次はどんなことをするかは、次から次にアイデアはでてくる。でも、私はもう目標達成をしたという気持ちもあったし、5日後に起きた熊本地震が起きたことで『夢』よりももっと私自身大切にしたいことが、別のことだと気がつくことになった。

それは結局自分を取り戻す前の序章にすぎなかったのだと知ったのは去年の今頃だったように思う。(その話はそのうちにでも。)

私のその時の『夢』は叶わなくても実は良かったりしている。それよりもっと大切なことに気がつき、私はもうすでに、それらを手にいれられているからだ。

私の望んだ未来は見渡せばいくらでも自分の手で手に入れられる物事だったということに気がつけたことだけでもう十分なくらいだったりしているし、私の『夢』は多分、プライスレスな“おまけ”なんだと思ったりもしている。

 

 

※写真はイベントの時私がつくった手作りのエンブレムです。

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