ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

頑張れる動機がどこからくるのか?

本を読んだ知識を詰め込んで、他者に気がついてもらおうとしている人の文章というのは、本で学んだ言葉をただインストールし、綴り直し、押し寿司のようにしたものだなーと思う時がある。私がかけている色眼鏡のせいなのかもしれないが…。

他者の感じ方や考え方を知ったとしても、体感して得た雰囲気を感じる人の文章は難しい言葉を使わなくても、なんとなく伝わってくるものがある。

伝えようとしているのはわかるけれども、連想を遮断される。すでにそれが答えなのだといわんばかりの文章だと、私はただの空っぽの言葉にしか感じない。そういうのは教科書をそのまま教えている先生みたいなもので、淡々とした学びや教えになるから、私にはちっとも面白みを感じない。自分の感情を押し殺していて個性もへったくれもないからだ。そういう人たちに私は正しさを押しつけられたことがあった。そして、私自身も自分の正しさを押し付けていた。

正しいことが好きな人の前だと、私はお利口さんにしかなれない。そういうスキルを幼い頃にインプットしていたので、なかなか抜けきれずにいた。いい子や正しいことが好きな人たちの前ではどんな自分でいればいいのか、手に取るようにわかったからだ。そんな子どもが好きな大人は多い。従順で言われたことはきちんとぬかりなくできる。頑張る人が好きな人を見つけたら頑張る自分をみてもらうことが生きるバネになる。そういう時期は、本来大人になる前に自分の中で折り合いをつけて卒業するものだと思う。

継続することや頑張ることだけで賞賛されることを己のエネルギーにするなら、ある一定の条件を越えた時に見事に崩れ落ちてしまう。

気がつかない人は誰かからの応援をバネにして生きていけば良い。ただ、私はもうそれさえ、信じられない。要するに、操り人形の様に指示はなくても暗示にかかる人が選ばれた人なんだ。最近そう思うようになった。

頑張らなくても自分が本当に望んでいることなら続けられるのだ。そこを大抵の大人が忘れている。気がついていないのは、自分じゃない誰かで生きている過半数の大人なのだと気がついてない人が多いが支配下の中で生きていくほうが安心安全なのが日本人特有の資質なのではないだろうか?