ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

思い出は心を彩るお御馳走

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部活動が始まる前の夏は毎年ではなかったが、母方の祖父母と水俣にある湯の鶴温泉へ何度か湯治に連れて行ってもらったことがある。私は幼児期から母から離れても大丈夫な子どもだったので、3歳代で指宿旅行にも連れて行ってもらったこともある。指宿の旅行では、生憎旅先で交通事故にあってしまい、残念ながら旅の途中で退散することになった。その事はまた別の機会にでも記事にしようと思っている。
水俣の湯の鶴温泉への湯治は、祖父母たちは2週間ないし1ヵ月くらいだっただろうか?長期間の滞在だったと思う。その期間の初めの1週間から10日くらい、私たち姉弟と従妹と連れられ湯治を満喫したことがある。滞在先での食事は全部自炊だった。毎朝祖母が炊いたであろうご飯は(もしかしたらご飯だけは旅館の方だったかもしれない)母の炊くご飯と違った。少し柔らかいご飯の方が私は好きだったのでおいしくて仕方がなかった。すごいご馳走を毎日食べさせてくれたわけではなく、贅沢ではなかったけれども忘れられないのは朝炊き立ての白いご飯だったりする。
湯の鶴温泉の滞在先には、内風呂や露天風呂など数種類のお風呂があった。お湯加減や広さもいろいろあったので、私も弟も一日に何回も入った。今日は○回はいったと弟と競いあう日もあった。滞在先の温泉だけでなく、近隣の温泉にも連れて行ってもらったり、温泉街なのでお土産屋さんをみてまわったり、夏は「鈴虫祭り」もあり、どの番号の鈴虫が一番鳴くのかを当てる大会のようなものもあったので、竹の虫かごにはいった鈴虫の鳴き声を聞きにいったこともある。
朝早くに目が覚めた時は、庭へ出て風景を眺めた。庭の下には川が流れており、薄暗い中に立ち並ぶ温泉宿から立ち上る湯気がみえる。自分の家もド田舎だが海辺の町なので、いつもとは違う静かな景色の中に川の流れる音や夏虫の鳴き声の合唱だけしか聞こえてこない、いつもと違う夏の音がした。潮風の匂いではなく硫黄の匂いはもう一つの故郷のようにさえ錯覚してしまいそうになる。それくらい思い出すととても懐かしくて少し切なくなる。
それは、祖父母との思い出の中でとっておきのかけがえのない思い出だからだ。怒りんぼで依怙贔屓な祖母と物静かだけれどお酒がはいると陽気になる祖父は孫もひ孫も全員平等にしてくれていた。私が病気で入院した後にしばらくぶりで祖父に会った時、祖父は私には何もいわずいつも通り接してくれた。私の知らないところで母に「顔色の色つやがよくなってよかった」というようなことを言ったそうだ。その話を聞いて正直嬉しかった。『ああ、じいちゃん、心配してくれてたんだな。早く元気にならなきゃ。もっとちゃんと元気になりたい』そう思ったことがあった。
祖母は22年前の阪神淡路大震災が起きた数か月前に末期の癌だとわかった。決してうちの家は裕福ではなかったが、母は自宅で祖母を看取るために仕事を辞め、約2ヶ月近く寝たきりの祖母の看病をした。母はヘルパーの資格を通信で学び取得していたことがその時とても役にたったといっていたのを覚えている。そして、大震災のあった二日後祖母はこの世から旅立った、享年69歳だった。
私は祖父母にとって初孫だったけれど、祖母は意地悪ではなかったが依怙贔屓がすごかった。それだけは空気の読めない私でも幼心に気がついていた。それでも優しくしてくれることもあり、祖父母の家に泊まった時、夜中に目が覚めてしまい『お腹が空いた』と伝えると祖母は塩おにぎりを握ってくれ、となりには祖母手作りの奈良漬が2切れほど添えてあった。漬物はあまり好きではなかったけれども、祖母ちゃんの奈良漬は好きだったような気がする。ちょっぴりお酒の匂いがしてしょっぱかった。私にとっての懐かしい想い出の味。その話を母や叔母たちに話したら「そんなこと私たちはしてもらったことがない」と口をそろえていった。どうやら孫は違うらしいことを知ることになった。ほかにも思い出はあるが、それはまた、幼い頃の私を色濃く思い出した時にとっておこうと思う。