ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

「ある」けど「ない」んだが...は役に立った件

超個人的な経験を残しておこうと思ったので

長文と乱文になりますが記録として残しています。在り方とか自己啓発とかスピリチュアルの系の方にはつまらない内容かもしれません。悪しからず。

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子どもが自閉症スペクトラムと精神発達遅滞という診断を受け、今年で12年目に突入します。うちの子はカナータイプですので、知的な遅れを伴ったバリバリの自閉さんです。
当時は、3歳未満で自閉症スペクトラムの確定診断がおりることは珍しいといわれていたので、役場では信じてもらえず、手帳の申請などで役場ともめたことがあったように記憶をしています。今はどうなんでしょうか?
あの当時は早期診断早期療育が強く叫ばれはじめ、超早期診断もできる時代になっていました。
息子が診断を受けたことから、私は勉強熱心なお母さんになり、いろんな講座を受講しました。
私がやっていた療育の手法はPECSとTEACCH等になりますが、この2つの療育の要求の指導の時の「ある」の教え方がそーいえば面白いななーと思ったので記事にしてみることにします。
※もう随分昔に学んだので指導法は変わっているかも。。。違ってても多めにみてね。

まず、TEACCHですが、TEACCHでの要求は初期の頃は構造化された各エリアごとに要求ボードがあり、そのエリアに「ある」物だけが要求できました。要求できるカードしかボードにはないのが前提です。
PECSの場合は、本人が知ってる言葉や好きなお菓子などのカードは「ある」「ない」関わらず要求ボードに「ある」のです。しかし、今この場所に「ない」場合などは要求しても具体物は「今はない」のでそのカードに✖︎をつけることで、「今はない」をおしえることを学びました。
うちの子たちが通園していたセンターはTEACCHを主体としていましたが、お子さんのタイプによっては、PECSブックも使っていました。ただ、自閉症の特性を踏まえ、ブック内には要求できないカードは貼らないことが前提でした。ですから昨日は要求ボードにあったカードも要求できる物が「ない」場合は今日は要求ボードに「ない」という経験をします。なので、そこで、
『昨日あのカードあったのに今日はないってどういうことだよ!要求できないじゃないか!プンスカ』

※基本「ない」環境はつくらないのが前提だから失敗する確率は低いんですけどね。
といった心の声はでていても、自閉圏の空気読めない支援者と空気読める支援者がいたりするので、支援者の質は問われます。ですが、空気読めないのは自閉っ子となる訳です。残念です。で、自閉圏の空気読める支援者だと、自閉っ子のプンスカを発達と捉え要求する形や支援の内容を工夫してくださいます。なので支援者がどのように子どもたち1人1人を見極められるのかは結構大切なのですが、これまた支援者の力量やモチベーションを一定にするということも大変だなーと思うわけです。何故なら支援者も生身の人間で完璧とはいえませんので。
話がそれました。それはよいとして、お子さんの中にも適当でも全く構わないお子さんもいますが、話言葉を持つ知的な遅れのないお子さんたちは、「店に行けばある」とかそういう葛藤も生まれるわけですから、「そりゃそうだ」と思うわけです。
なので、このようなお子さんの場合には、要求ボードには全てカードは「ある」けどカードに✖︎がついてたら「今はない」というお知らせをしたカードも要求ボードには「ある」状態になります。なので、要求ボードには「ある」もの「今はないもの」が要求ボードにはあるので、「今はないもの」を要求された時は今はないけど、◯頃なら要求に応えられるような、見通しを示してあげたりします。
このように、「ある」と「ない」の教え方もいろんな手法があり、支援者によって子どものタイプによって使いわけたり、アレンジしてお子さん主体で要求の仕方や人とのやりとりを支援していただいていたし、自分も学びやってはいました。
それに合わせ、あの当時は✖︎では教えない。肯定的に教えるというような療育だったので、カードに✖︎をつけるのが良いことなのか悪いことなのか?なんだか、今ならすごくどーでもいい事で論争してたこともあったような気がします。(苦笑 )今思うと、子どもの要求が他者へ伝わればそれで正解なんですけども、指導者が望ましい手法や指導法でなければならないというなんというか、それこそ支援のスタイルや手法に完璧を求められていたように記憶しています。その時はそれが良いと思っていましたが、今思うと、なんかそういうことより、もっと大切なことがあったよ。早く教えてくれよー( ̄∀ ̄)というのが、12年経ち、様々な経験を積んだ今現在の私の率直な想いです。
「ある」けど「ない」をきちんと理解し、説明もできず、自閉圏の空気も読めない支援者が発達障害の人たちへこの世の「ある」と「ない」を要求してもらう手法を押し付けているだけかもしれないことに果たして気がついてる人はいるのでしょうか? 多分気づいている人たちは約一部の人たちだけでしょう。きっと私の尊敬する母さんは子育ての延長で工夫されていただろうなぁと思いをはせました。

そして話は変わりますが、数年前にDMS-5が改訂され、自閉症スペクトラムを含む発達障害が神経発達障害群となったことをとても嬉しく思っています。脳の機能障害ではなく神経の発達の不具合ということですから、アプローチの方法が異なるわけです。治せる時代の幕開けなんです。発達障害なのだから、発達して当たり前という方もこれまでいました。でも、神経発達の不具合へのアプローチ方法は今までにもあったと思いますが、それでも、それらの方法が広がらなかったのは、おそらく身体という方向性は当たっていたけれど、ズレていたり、まだ早すぎたアプローチだったのだと思います。
12年前に診断された時、障害だから治せないんだと一度は落ち込みました。でも治せるなら治してあげたい。そういう気持ちは私にも少なからずありました。子どもに表れてる特性で1番治してあげたいと思ったのは、三つ組より我が子の感覚過敏をできれば治してあげたかったのです。でも、その当時は術を知りませんでした。そして、大抵の支援者はそれらは治せないから慣れさせるとか経験をさせないことだといわれてきました。いわゆる本当は必要だった無駄な動きをやめさせることでした。でも、感覚過敏が治せるかも知れないアプローチの方法があること、そして、感覚過敏が治ると同時に得られる恩恵がもしかしたらより良い発達をとげ治るに近づくかもしれない。もしかしたら
「治りました!」と言える日もくるかもしれない。そういう日が来ることを夢みつつ、75億分の1のエビデンスをこれから模索していきたいと思います。

いつか、親子で
ダンスが踊れる日が来ることを祈って...