ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-10-15

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-10-15 13:03:39 | 日記

 

あれからもう半年

 

4月14日午後9時26分。(だったかな?)

お風呂上りにノースリーブで

窓を開け涼みながら友だちとメッセンジャーで雑談していた時でした。

突然、床下から突き上げるような縦揺れがあり、いつもより長く強い揺れ。

その場に立ち上がり逃げようとしたものの外に逃げる間もなく、

ただただ驚くばかりで、茫然と立ち尽くしているだけでした。

部屋の壁は左右に揺れ、冷蔵庫や戸棚が開き、

物がガシャガシャと雪崩のように落ち

食器棚は耐震用の支えをしていたことで倒れなかったものの

戸棚の中ではお茶碗がぐしゃぐしゃになって

割れていく音と近所の人たちの叫び声。。。

部屋のあらゆるものが倒れ

床に落ちぐちゃぐちゃになっていく光景は忘れられません。

揺れが収まったと同時に、ガスの元栓をしめ

財布の入ったバックを持ち玄関から出ようとしたら

玄関に置いていた棚が全ておち、玄関から出られない始末。

アパートの一階だったことや台風で壊れていた庭の塀が

修理がされていなかったから幸い庭の壁を超えて

外へ出ることができました。

慌てて外に出たので、毛布も非難用具も何も持ってでず

自分がノースリーブでパジャマだったことも忘れており

たまたま、車の中に春用のコートを乗せていたので

それをはおって車中を見渡してみると、

ハーフケットを乗せていたり、折り畳みの椅子

なぜか大事な書類なども車にのせていたり…。

私のズボラな所は案外役にたつこともあるかもと思ったりしました(苦笑)

とりあえず、その日はなんとかなりそうだったので

一旦アパートの外に出て車に乗ろうとしたら

隣の方に話しかけられたので軽く雑談してるところに

その時、住人の方が

大きな声で「ブレーカーを落としてください」と言ってくださったので

家の外から玄関を開け、ほうきでブレーカーを落とし、

私は1人、相方の会社近くのコンビニ前の駐車場に避難をしました。

飲み物も食べ物も何も持っていなかったので

コンビニに飲み物等を買いに行くと

すでにお水が数本になっており

とりあえず二人分の一日のお水やお茶などは買うことができました。

メッセンジャーで雑談していた友だちも無事で非難するとのこと。

家族や友だちと連絡をとり、みんな怪我もなく無事だということ。

明け方、自宅に帰ってくるといっていた相方は

北熊ICで寝ていたら地震で目が覚め

高速を降りられなくなったら困るということで

慌てて高速を飛ばして帰ってくる途中

一番酷かった地震後の益城の道路を走り

どこにこんな人がいたんだろうと思うくらい

外に人がいっぱいで、暗闇の道路を歩いて避難する人で

溢れかえっていたといいました。

家が倒壊していたり、地面ごと家が盛り上がり倒れ、道路は歪んでおり

地震後の益城町をみて、大変なことが起きたと相方が連絡をくれました。

相方と直接連絡がとれたので、非難している場所を告げ、帰りを待ちました。

夜の12時頃だったでしょうか。

相方と合流し、避難所にはいかず車中泊することにしました。

しばらくは車中泊になるので、

毛布や数日分の着替えを取りに行くのにアパートへ戻ることに。

二人で暗闇の中、必要そうなものを大きな紙袋に入れ、毛布を数枚とった時

2度目の大きな地震に合いました。その時は本当に生きた心地がしませんでした。

とりあえず数日分の下着の着替えと毛布だけ取り

また近所のコンビニの駐車場へ戻りその日はそこで夜を明かしました。

運転席で大きないびきをかいて寝ている相方をよこに

私はいつも通り4時ごろに目が覚めました。

フロントガラスを新聞で覆い目かくしにしていた隙間から

赤いランプが見えたので外に目をやると

何十台?何百台?もの消防車や救急車がサイレンは鳴らさず

赤いランプを点灯しながら列をなし道路を走っていました。

テレビドラマや映画などでしか見たことがない光景を目のあたりにした時

自分の住んでいる土地で大きな震災が起きたことを思い知り、涙がでました。

その日から数か月は自衛隊の車や災害支援の車両とすれ違うのが日常となりました。

次の日の朝、相方がたまたま休みだったので実家へ帰ることにしました。

今まで利用していた道路はどこも通行止めで

迂回をたくさんし、立野地区に住む相方の甥っ子も拾って、実家に戻りました。

まだ、その日の立野地区は揺れたものの被害は少なく

阿蘇大橋はまだ落ちていませんでした。

その日は相方の実家に泊まることにし

その日の夜中また震度7地震

今度は本当に揺れが大きくとても長かったのですが

実家のほうは震度5で、震度3程度の揺れにしか感じなかったので

実家に帰っていて幸いだったと思います。

まさか3度目があるなんて思いませんでしたが

翌朝のテレビをみて、愕然となりました。

夜中の震源地が阿蘇震度7。昨日通った道が通れなくなっていて

あの阿蘇大橋が土砂とともに無くなっており

行方不明の方や死者も増えていました。

自分たちが生かされているのだということの

意味を考えることになりました。

本震が起きる前日の実家に移動する途中

農道などの山道には大きな石がゴロゴロと転げ落ちたりしており

まるで迷路の中を走っているようで、現実感がなくなってしまい

「これは夢じゃなくて、現実だよね」

と私は自分のほっぺをつねり相方にいいました。

「夢じゃなくて、現実だよ」

と相方は答えました。

何気ない日常が非日常で一つ一つの出来事が

まるでドキュメンタリーのドラマのような日々に変わりました。

そして、私たちは不便なことはありますが

日常にもどることができました。

そんな日から半年がたちました。

まだ避難所で生活している人もいっらしゃっるし

やっと家の修理や解体などがはじまり

通行止めだった道路も少しずつ通れるようになっています。

余震は4000回を超えたそうです。

被害の大きかった人たちは支援がありますが

被害が少なかった人たちは全て自力です。

被害は大きくお金がかかるけれども支援がある。

被害が少なく住むところはあるけれども支援がなく全て自力。

まるで、発達障害界隈と似たようだなと思ったりもしています。

被害が大きくても、自力で頑張ってる人もいらっしゃいます。

被害が少なくても、無料の支援を受けていらっしゃる人もいます。

暮らし方や生き方をどのようにするのか選ぶのは人それぞれですが、

本当に困っている人たちへ

きちんと支援が行き届いているのかどうかを祈るばかりです。

そして、熊本だけでなく、まだまだ他の地域でも

震災や天災に見舞われている人たちもいらっしゃいます。

そのことを忘れずに「自分のできるしこ」で

地域や日本へ貢献できたらいいなと思います。