ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-09-18

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-09-18 12:15:29 | イマココ

 

奪われるという怖れと不安

毒だしウィーク中はこれまでになかなか自分でも

感情の整理といいますか、気がついてはいたけど腑に落ちてなかったことが

やっと腑に落ちた事がありました。

自分の中だけで自己解決すればいいことだったけれど

久しぶりに思考がグルグルっていうより目が回るくらいに回転が倍増して

変な勘繰りをしてしまいました。

でも、その変な勘繰りがあって、相方といろいろ話をしていると

相方に滅茶滅茶怒られる中、ずっと私がなぜその物事に反応してしまうのかが

やっと解明されました。

私が今思考のことで人体実験していることというのは

自分にとってネガティブな出来事だと思った時に

その感情を一旦認めて受け入れて、

その感情がどこからきているのか、

連想ゲームのように解き明かしていく作業をしています。


例えば…

誰かに何かを言われてモヤモヤしている時は

その言われたことのどのワードに自分がモヤっとしてるのか探します。

そのワードがわかったら、そのワードに付随する自分の感情を一旦感じます。

ネガティブな感情だったら、ぜーんぶ出して感じてみます。

そして、そのネガティブな感情を味わいながら、

その感情を感じた時が他になかったかということを思い出していきます。

それと、なぜその感情を不快に感じたのかを連想していきます。


私の場合

「◎◎◎◎」⇒相方⇒奪われたくない⇒自分の居場所⇒お母さんの膝の上


このような感じで思い出しました。

そうすると、自然に涙があふれて仕方がありませんでした。

私は年子の長女なので、

母へ甘えることを自然にあきらめたのかもしれないなと思いました。

自分の居場所を人に譲ることが逆に自分を認めてもらえるという

なんだか変な勘違いもしていたのかもしれません。

奪われた時のショックを和らげるために

自らその居場所を誰かに譲ることのほうが

奪われたときよりも傷は浅いと思っての自己防衛をしていたのかもしれません。

幼い頃だからこそ、お母さんやお父さんじゃなきゃダメな時期があります。

そういう時期はとっても大切だったのかもしれないなと思いました。

絶対譲りたくないという想いがあってもいいこと

でも、譲りたくなくても譲らなければいけないこともあること

自分の感情とは別に相手の想いと私の想いが一致した時に

私の望みは叶うということ

たとえ奪われても私は大丈夫なこと。

そういうことを我慢せずにちゃんと思いっきりだしていくことが

大人になる階段を上るということだったのかもしれません。

あきらめるということは手放すということとは違うんだなと思いました。

手放すということは自分のどっちの感情も手放すということ

あきらめるということはどちらかの感情を握りしめているということ。

握りしめてることに気がついたなら

その握りしめてることをきちんと見つめなおすこと。

向き合う自分になれたら、自然にその物事を手放せるのだなと思いました。