ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-09-18

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-09-18 12:17:02 | ひとりごと

 

「治る」ことは完璧な人間になることではない

病気は治るもの、障害は治らないもの…。

私もずっとずっとそう思っていました。

でも、病気でも治らない病気もあるし

障害と言われた人でも治った人もいます。

そして、「障害」という言葉を使わず

「病気」だとわざわざ言い換える人もいます。

今の私からすればもうどっちでもいいって思っています。

それはなぜかというと、みんなそれぞれにその言葉に含まれた意味を

自分の経験や学びの中だけで知っているだけで

理解をできていない人も多いなと思ったからです。

だから、「治る」とか「治らない」とか

「病気」とか「障害」とかという言葉に

あまり敏感に反応をしなくなりました。


私の周囲の病気や障害を「治る」と思っている人達は

「治る」という言葉に捉われていはいない人が多いです。

病気や障害のある人達に起きてる様々な状態を

漢字と平仮名を使って表現するなら「治った」ということなだけです。

そして、その「治った」という「治った」のゴールは

まだ途中な人もいます。

それが発達するということにもなるのだと思います。

私が思う「治る」ということは

健常者になることが「治る」ことではありません。

障害を持って生まれてきた人が

社会のシステムの中で生きていることが

「治った人」とは思っていません。

怪我や病気で身体が不自由になったりしたことを

「元通りに戻す」ことを

「治った」というゴールとは思っていません。

「治る」ということにゴールなんてないと思っています。

何故なら、人はどんな人も向上したいという気持ちは

少なからずあると思うし、

今の現状を少しでも良くしたい、良くなりたい!

そんなささやかな改善されたことも

「治った」になると私は思っているからです。

生まれ持った自分という器で、豊かに毎日を過ごせたり

自分の人生を自分で選択肢し

責任をもって行動できるようになったり

今まで不快だった身心の状態がなくなること…だったりします。

それは、病気や障害があってもなくても、

どんな人にもできることです。

健常者という人間のカテゴリーにはいることが

「治る」ということではないと思っている私からすると

そこが「治る」というゴールだと思っている人たちは

きっと生きづらいだろうなぁと思いますし、

卑屈になって当然だなと思います。

なぜなら、それは誰かや何かと比べているからです。

私という人間を単体でみた時に、誰かと比べていたら、

自分自身が生きる価値を見失ってしまうことになるように思います。

人間という枠でみると、おそらく健常者といわれる人の中には

落第生がたくさんいると思います。

まだ人間という生物に成熟していない人が多いのに、

健常者という枠にはいってることが

成熟した人間だと勘違いしている人が多いのではないでしょうか?

私たちは知らなすぎます。自分たちが未熟なこと。

だから、障害のある人を未熟と思ってしまうのかもしれません。

動かしにくかった身体や自分ではできなかったことが増えることが

「治った」ということにならないのであるなら

どれだけ人間を完璧であると勘違いしてんのかなと今日思いました。

「治らない」という人たちほど、人間というものを誤解していて

どんだけ完璧な人間を求めているのだろうか?と思いました。

それは、立派な差別だと私は思います。