ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

旧ブログ2016-07-19

☆2016年6月6日から2016年11月28日まで旧ブログ「これまでイマココこれから」より

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2016-07-19 07:10:22 | 私のこと
 

違い

ここ最近のブログは、分裂している時の私の状態を文字に残しておこうと思い

今自分の脳みそで起きてる状態を記事にしていました。

皆さんに理解をしてもらいたいとか、不幸自慢してる訳ではなくて

どの季節にどういう身体の状態で、脳みそがおかしくなってしまうのかも

私にとって自分の二次障害を見つめなおせるだろうと思ったからでした。

「違いすぎてわかりずらい」ということを言ってもらえたことで

自分の場合にはこれまた自分を見直すきっかけにもなりました。

昔の私だったら、きっと拗ねてブログを閉じたでしょう 笑

面倒くささ全開の時は、否定をされたと受け取ってしまっていたと思います(^^;;

でも、今回は違いました。

私は自分の身に起きてることを知ってもらいたかっただけです。

理解なんてしてもらおうと全く思っていませんし、

可哀想だと思って貰いたい訳ではありません

私のブログを読んで何をどう感じ

私のことをどう思って貰おうが全然かまいません。

そんな自分が損するようなことを書かなくていいんじゃ?とか

わざわざ人に距離をとられるようなことを書かなくてもいいのでは?

言わなくてもいいんじゃ?とと言われることもありました。

だから、もしかしたら、こんな自分は「試し行動」をしているのかもしれません。

でも、もういいんです。どんな風に思われようが嫌われようが距離を置かれようが

私は自分の身に起きてる事実を残してるだけだし、本当のことだからです。

なんと言われようが別にかまいません。

試し行動だと思われてもかまいません。

読みたくない人は読まないでしょうし、スルーしてもらってもいいんです。

時々、「読みたくない人はスルーしてください」というのを否定する人がいます

スルーしてくださいというなら、

ブログに公開しないでくださいとかいう人もいますけど

イヤイヤだから、みるかみないかは自分で判断してねって

そもそも、嫌な気持ちになるなら、その場から離れればいいだけです。

だから、予告しただけで、

そういう人たちへの配慮のつもりで書いてたんですけど…(^^;;

とりあえず、公的な場でどこまで情報を流すかというのまで

他者にとやかくいわれる筋合いもなく、

別に何を言われても気にしない私であればいいのだと思えるようになったので

ブログの記事としてアップしています。

なので、調子が悪くなると、意味不明な記事がアップされていると思うので

「あああ、はるさん、今調子が悪いのね」ぐらいに思って貰えたらと思いますし

「調子が悪そうだから、ちょっと休んでね」とか

「病院行けば?」

とか言って貰えたら自分で方向転換できるきっかけになるので幸いです。

健全な育ちをした主体性のある人と

大人になるまでの育ちの中で健全に成長できなかった私との

「違い」を知ってもらえればと思ってのことでした。

理解や共感を得るためでも、可哀想と思ってもらおうとも思っていません。

ただ、同じ人類でも、育った環境というより、

「主体性」を保てた状態で大人になったかどうかというのが

健全な人たちとの「違い」だなというのが今の私の中の着地点です。



それと、私はそもそも幼い頃から面倒くさい人だったと思います。

全ての物事には必ず「意味」と「答え」があると思っていたのです。

だから、どんな些細な事にも意味を探し、意味づけし答え探しをしていました。

でも、私のそういう思考そのものが幻想だった事に気がつきました。

全ての物事に意味づけも正解もなくても良いことがやっと腑に落ちたからです。

神田橋先生の新刊に何度も出てくる「折り合い」という言葉で

意味づけをしなくてもよくなりそうです。

なので、意味づけをしない練習中ですが、これまたやめられない止まらないなのです。

なぜなら、マッチングが大好きだから (苦笑)

なので、とりあえず起きてる物事に「意味はなくても全然いい」を練習中です 笑



そして、私は大人になって、自分が「みえない鳥籠」生活をしていることに気がつきました。

「みえない鳥籠」というのは、誰かや何かの価値観の枠という意味です。

本来思春期に親や親以外の大人、周囲との価値観の折り合いをつけながら

(イヤイヤ、大人や周囲の価値観をスルーしてもいいのかも)

自分のアイデンティティやセルフイメージも育っていくと思います。

親や大人の価値観の中から自分が選び身につけていく時にまたはそぎ落とす時期に

大人や自分にまつわる人たちが失敗体験をさせないアドバイスをしてしまうことで

元々主体性の薄い人というか受動型の人というのは受け入れてしまうと思います。

または主体性があっても、親がヒトラータイプで小さな頃からダメだし受けて

犬の調教のような育てられ方をされていた人は主体性が萎えてしまうように思います。

主体性がしっかりある人は「ウゼー」と言って大人の言うことより

自分の気持ちに正直に答えを選んでいたのではないかと思うんですが

いかがでしょう?

他者と感じ方や考え方が違っても「あっそう。だから何か?」ができたと思います。

そういう反抗することを大切にしてきた人たちは主体性がきちんと育っているか

思春期の時期に主体性を取り戻せた人もいるとも思います。

自分で考え、選ぶことに制限がある育ち方をしてきた人は主体性をなくし

又は、主体性をなくすような育てられ方をしてる人が

「 みえない鳥籠」の生活を好みながらも、誰かや何かの支配に怯えもがいてるけど

制限された生活に嫌気がさしていて自由を求めるけど、自由がわからない…

自由になるために選んで鳥籠を出たつもりだったけど古い鳥籠(古い価値観)を出たけど

新しい鳥籠(新しい価値観)に移っただけ…。でもまたなんだ苦しい。

という変なループにはまっていると思います。

そんなこんなで、私はその「みえない鳥籠」の正体に気がつき

その鳥籠を創り出しているのは自分自身であること

そして、「みえない鳥籠」(自分の価値観や誰かの価値観)に入れたがるのは

無意識にジャッジしている主体性のない大人の生き様が

魔のループを生み出しているんじゃないだろうか?と感じています。

後、私はヒトラーは主体性がないただの

怖がりな人なんだなって思うようになりました。