ワタシの暮らしの忘備録

空と海の間で暮らした、私のこれまでイマココこれから

今日の空

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台風直撃という予想でしたので

前準備をそれなりにしましたが、

こちらは何事もなく

台風は通り過ぎていきました。

どうか大きな被害がありませんように。

 

最近はフラッシュバックをしても

感情が揺さぶられることはありますが

大分眺めていられるようになっています。

急ぎ足で駆け抜けて

自分自身をとりもどすことができましたが

自分が醜く嫌いな部分を治すために

スピリチュアルや自己啓発、占いなどで

他者を理解したり、他者を責めず

自己改革をすることを昔からやっていました。

自分の悪い癖に気がつきながらも

それらを変えていくのはとても苦労もしました。

相方とは長い付き合いになりますが

私たちもいろいろありながら

別れる別れないといったことが何度もありました。

ただ、その当時は相方を疑ったり、試したり

見捨てられる日が来るのだと思って

不安で不安で仕方がなかったことや

単なる人に盗られたくないといった思いは

今日アップした記事の中にもあるように

元旦那と恋愛期を経て結婚後と同じようなことを

繰り返しているだけだと気がつき

その繰り返しの恋愛パターンを崩さないと

例え、相方と別れて次の人と知り合えたとしても

又同じパターンで好きになり

同じパターンで喧嘩をくりかえしたりするのなら

私のことを何もかも知り理解してくれる人だからこそ

繰り返しのパターンから抜け出ることが

できるかもしれないと思って

いろんなことを試行錯誤してきました。

心屋仁之助さんのブログを読んだり

人に手伝ってもらって

自分自身のブロックを取り除いたり

セラピーを受けたり、それらを学ぶことで

自分自身に気がつき自己改革は進みました。

私が苦しんだりモヤモヤしていたことが

何故だったのかを気がつくために

それまでは、嫌われたくなくて

なかなか本心を言葉で伝えたことはありませんでした。

少しずつ少しずつ本心を伝えられるようになっていきました。

自分自身を大切にするために

イライラしている時は

「今イライラしてるから話しかけないで」

ということから伝えていきました。

口喧嘩になったりした時は

うまく言葉にできずだんまりになったり

相方の言い分も聞かず一方的に怒りをぶつけることになり

逆に相方を怒らせてしまうことにもなりました。

そんなことを1年程繰り返した時だったでしょうか

友だちと相方と3人で食事をした時に

相方が酔っぱらった勢いで

「好きすぎると苦しくなったりするし

愛しすぎたら相手も苦しめることになるから

二番目ぐらいに好きなほうがちょうどいい。」

みたいなことを笑いながらいいやがったのです(笑)

その時は、頭では彼がいわんとすることは

わかったのですが、その後から

私の中で沸々と様々な感情に呑み込まれそうになり

いつもなら、私はただただ自分が醜いからだとか

歴代彼女と比べて自分を卑下し拗ねるだけでした。

ですが、この時はもう、思いっきり拗ねてみよう

そう思い、その拗ねを鏡の法則を利用して

相方を酷く責めることで自分自身も

責めるような言葉をなげかけることにしました。

そういったことを行いながら

冷静になった時に自分を見つめなおした時に

ふと気がつく瞬間がやってきたのが

相方だけの一番になるだけでなく

元彼や友だち又は知人の中でも

私は一番の存在でありたかったことに

気がついた時には

顔から火が出るほど恥ずかしくなったし

そして、それは一つ下の弟と

比べていた自分自身にも気がつくことと

なったのです。

それは、私の場合『母に認めてもらいたい』といった

承認欲求の正体でした。

それからは、相方との喧嘩しつつ

少しずつ相方に対する不信感を

言語化できるようになり

誤魔化さず伝え続けたことで

やっと人並みの喧嘩ができるようになりました。

酷い喧嘩の中で相方が腑におちることもあり

相方の癖は喧嘩の途中ではぐらかして

どうしても逃げてしまう人でした。

それは、相方が自分は悪くないといった思いや

私をたしなめて事をおさめることしか

術を持たないこともあったからだと思います。

そして、私には

未消化の感情となって溜まってしまい

後に爆発してしまう原因になるのだと説明し

喧嘩の度に逃げてしまう相方を止めずに

私はただ電話で責めるだけで終っていました。

この時、本当は用事があって

実家に帰えるはずだったのですが

それが更に私の怒りに火を注ぐことになりました。

ですから、

「実家に帰らんで、ちゃんと私と向き合ってよ!

いつもあなたはそうやって大事な局面で逃げるもん

ずるいよね!」

そんなことをいったように思います。

そういったことがちゃんと言えるようになったので

相方は迷惑かもしれませんが

それでも、別れる別れないという話になっても

冷静に話えるまでにはなってきました。

こんな関係になるのに3年くらいかかりました(苦笑)

結局、私自身も相方も伝えるべきことを

きちんと相手に伝えず、相手の言い分も理解できておらず

喧嘩をしても解決しないまま互いに

未消化の感情を貯めていく喧嘩しか

できていなかったことに気がついたのが

ここ最近のことです。

後は私自身がイヤイヤ期だったことも重なったので

複雑化してしまっていました。

伏線を張っていたのはやはり私自身だったことは

いうまでもありません(恥)

 

ヌケてるのは頭だけじゃなく“愛着”もヌケてた件 【愛着のヌケ編①】

偶然で脳下垂体に穴が空いていたことがわかりまして、とりあえず脳みそに穴が空いていたけれども大丈夫だったことが判明した後は、私の愛着のヌケがあったけれど、もうそれは解決したと思っていたはずなのに、何か事が起こる度に、私の中から湧き上がってくる『大切にされてるようで、全然大切にされてないじゃん!』という言葉と共に、怒りというか悲しみでいっぱいになることが何度かあり、前日のブログにもあるように、実は私の愛着のヌケは片付いていなかったことを思い知ることとなりました。自分自身を大切にすることを更に深め、どんなことがあっても、私が私自身の味方になってあげることを行いながら、過去の自分を見つめ返すことを今尚行っています。まだ始めたばかりの頃は、中々自分自身をコントロールできず、相方や母に辛くあたり散らかしました(苦笑)

私の中で痼りになっていた思いを相方や母に吐き出せたことで、やっと自分の気持ちを誤魔化すことなく、感情的にならずに、相手に伝えられるようになってきました。それでも腹のなかは煮え滾っていることもありますが、そういう時は「はーっ」と息を吐いて呼吸を整えることだけで解消できるようにもなっています。ただ、口は悪いですが…(´・ω・`)

それはさておき、私が幼い頃から感じていたなんだかよくわからない感情が

『満たされない思い=不足感』

だとわかったのが昨年末になりますが、そこに辿りつくまでのことを記事にしたいと思います。黒歴史に関してはまだ此処には書けない私がいるので、ご勘弁ください。それを書くことで巻き込んでしまうことにもなるからです。すみません。それでは、毎度ながら乱文長文になりますが、読んでいただき何か気がついていただけることになりましたら、幸いです。

 

_________________

 

『誤魔化し偽っていた頃のこと』

 

弟が幼い頃から賢い子だったからというのもあり、弟とよく比較されて育ちました。周囲の人に『お前はバカ』だといわれて育ちました。幼い頃は、そういうふうにいわれてもただ間に受けてしまう体質だったので、悔しかったとは思いますが、笑ってすませていたように思います。この当時、周囲の人がいっていた『お前はバカ』だといい笑われていたことは、ただ単にバカにされていたわけでもなくて、かわいさ余っての『バカ』という人もいたのだという大きな意味での愛がわかったのは、恥ずかしながら40を越えてからでした(苦笑)

自分はバカなんだと間に受けていたその当時、テレビ放送されていたドラえもんをみて、のび太くんに共感していました。近所に住んでいた親戚の姉曰く、私が幼稚園の頃はとにかく何かしら勉強をしていたんだそうです。だから、そんな私をみて姉は

「今そんなに勉強していたらそのうち勉強したくなくなるよ」

と言っていたそうです。私としては、バカっていわれるから勉強すれば頭が良くなると単純に思って勉強していました。でも小学校にあがってテストの点数は満点をとるくらいだったので、自分はそんなにバカじゃないと思ったこともありました。ただ、私は授業を受けるだけでテストの点数がとれる弟と違って、予習や復習をするなど努力をしないといけないと自分で思い込んでいたので、小5の時校長先生が自宅学習に力をいれていたこともあり、その当時から一日2時間は勉強をしていました。

私がずっと満たされなかったことは、自分が頭が悪いからだということと、人と価値観が違うことが原因だとずっと思っていました。それとは別にずっと中高から悩んでいたことがありました。それは、仲良くなった友だちが他の友だちと仲良くしていると、すごくモヤモヤしちゃって、拗ねたりもして友だちを困らせたこともありました。“なんで私、こんなに焼きもちをやいてしまうのだろう。” “なんで拗ねちゃうんだろう。” “なんで、独り占めしたいんだろう。” そんな自分が嫌でたまらなかったけれど、どうすることもできませんでした。それは、大人になっても続き自分自身で病的だけど、これくらいのことを病院へ行くのはなんだか恥ずかしいと思ったり、病気などとは思いもしませんでした。だから、私はそんな自分を誤魔化すようなことで、その場しのぎのようなことを行い、自暴自棄になる度に自分を責め自分の内側に様々な罪悪感として溜め込んでいったのだと思います。

社会人になり、自分を誤魔化しながら、友だちや彼氏という存在ができそれなりに生活ができていました。それでも私の中ではわけのわからない正体不明の感情を抱いたままの時でした。元旦那と知り合う前に付き合っていた彼氏がいましたが、その人とうまくいかなくなっていた20代前半の時に、元旦那と出会いました。私は嫌いになってしまうと、その人がまるでこの世に存在していなかったかのごとく、自分自身の中から消去するような人でなしでした(苦笑)元旦那が歳が離れた人だったこともあり、包容力があると勘違いし、その時付き合っていた彼を捨てるかのごとく別れ、元旦那と付き合うことになりました。元旦那を好きだという気持ちは、今思えば、1度手に入れたお人形を手に入れるような感覚と同じだったのだと思います。そして、いつの間にか情が湧き、それを愛だと勘違いしていたのだと思います。ですから、彼を好きになるのと同時に、見捨てられてしまいそうな不安を抱えていたのだと思いますし、こんなダメな私と付き合ってくれる人はいないという思いこみもありました。今思うと、元旦那との恋愛の期間は、デートDVともいえるようなこともありました。酷く怒られた次の日に、しょんぼりしている私に甘えてきたりするようなこともあって、典型的なDVの構図だと気がついたのは彼と結婚をし子どもが生まれた後でした。

20代前半だったし、自分軸もまだできていない頃の出会いでしたので、多趣味な元旦那の趣味につきあったり、つきあわされたりして、彼色に染まるような教育をされました。それはその当時、私の自己成長できているようにも感じたし、彼の知ってる世界は私がまだ見たことのない世界をみせてくれたり教えてくれたことが好奇心旺盛な私を刺激し、彼に魅かれたのだと思いますが、その当時の私自身がただ主体性がなかったことで、支配されて生きている方が楽だったからだとも思います。スカートなんて履かなくなっていた私に女性らしい恰好や振る舞いをしなさいと言われたり、三つ指たててお出迎えしなさい、体重は50キロ以上になったらダメ、いつも笑顔で…など、いろんなお約束がありました。今はそんなこといわれたら、「はぁー?」と逆切れできるくらいになりましたが(笑)その当時はなんの疑問も持たずに彼のいうことを聞いていたのです。実際には彼色に染まっているだけで、内面だけでなく、外見も自分に付け足すような生き方になっているとは気がつけませんでした。その当時は彼色に染まることが『なりたい自分になる』ということになっていたのだと思います。元旦那は元旦那なりに、優しくしてくれることもあったし、彼なりの愛情をたくさんかけてくれていました。それでも、私はどこか満たされないものを抱え、大人になってできた友だちがいて、仲良くしてもらっても、拭いきれない孤独感に押しつぶされそうな自分をただ誤魔化すことしかできませんでした。元旦那と付き合いはじめて6年後に結婚することになりますが、本当は心のどこかで別れたい気持ちもあったのです。でも、私にはこの人しかいないとか、私のいろんな黒歴史も知っている人だからこの人以上の人は現れない、そんな思いのほうが強くて、自分から別れることができませんでした。今となってはそれも単なる私の思い込みや怖れがもたらしていたことだと思います。

結婚後、子どもに障害がわかり、その後の療育先で唯一信頼できるママ友ができました。その友だちも発達障害の当事者でしたので、子どもの療育のことや、互いの身の上をいろいろ話すことで、私は少しずつ自分自身を取り戻すきっかけとなっていきました。その友だちに、私と元旦那の関係を話したことで、私たちの関係性が一般的な恋愛や結婚生活とは違うということを気がつかせてもらうことになりました。もしかしたら、他の人たちも感じていたのかもしれませんが、元旦那の悪口になるようなことはあまり話したことがなかったこともあったので、それを指摘してくれたのは彼女がはじめてでした。精神的なDVのようだといわれ、そして、別件でもDVの話を聞いて、シンクロしたことで、ネットで調べその内容を読んだ時に、ぞっとしたのです。暴力は振るわれたことはありませんでしたが、暴言をはいて叱責されたり、理不尽なことで、怒号をあびせられることもありました。その後はそんな自分をカバーするかのように私に優しくふるまってくれることもあったし、私がドジで人に騙されたりしやすいから、守ってくれているんだと思っていました。彼自身が私を虐げたり、意地悪するようなことは許されても、彼以外の人が私を虐げたり、意地悪したりするのは許さないということもありました。そういった彼の行為はまるで、昔のガキ大将が自分が意地悪する子を他の人が意地悪することを許さないといったことと同じことだったのだと思います。ただ、あの当時はそれは私のことを大切にしてもらえていると勘違いしていました。けれど、DVを知った時に、私の中で初めて、拭いきれない寂しさや計り知れない恐怖感や訳のわからないみえない鳥籠にはいっているように感じたのは、このことだったのかとその時初めて気がつくことになり、その時愕然としたのを覚えています。

それに、実は、息子のお産をした次の日、緊急帝王切開での出産になったことでベットの上で病室の穴の空いた白い天井をみながら術後の痛みを堪えながら、ふと、魔法がとけたように我に返って

「ああ、〇さん(元旦那)のこといらない」

と頭の中によぎったのです。私って酷い人間だなと思いました(苦笑)この時はおそらく産後鬱だったからだとも思うのですが、本当に夢から目が覚めたような感覚だったので、自分でもビックリしたくらいです。それから、無意識に私は彼に対する不信感を感じはじめてはいたのだろうと思います。それからは、元旦那のことが嫌で嫌で仕方がないけれども、別れられない自分や嫌になってしまった自分と向き合う日々が続きました。息子がいたし、倦怠期なのだと思ったので、時が解決してくれて、昔のように嫌いではなくなるかもしれないと思い、自分をたしなめていました。それからは、喧嘩をするたびに別れたいけれど別れられない自分がいて、離婚することを躊躇していました。それを誰にも相談できずにいたし、生活に困ることはなかったので、贅沢な悩みだとも思っていました。

自分に嘘がつけない性分なので、元旦那の前で好きなふりをするのがとても苦しくてしかたがなく、すると元旦那は元旦那で更に厳しく私を縛りつけることになっていたように思います。というか、縛られていることが不自由でたまらなかったのだとも思います。それを愛だと勘違いもしていましたし…。私の気持ちが離れたことで、私たちの関係はどんどん悪くなっていきました。そんな状態の時に、息子に障害があるとわかり、息子に障害があったことは、元旦那とは別れず、二人の関係を元に戻すためという意味づけをしました。ですから、彼への不信感や離れた気持ちを取り戻そうと思って、自分自身から元旦那に歩みよることも行いました。ただ、やればやるほど、事態は悪化する一方で、彼は彼なりに取り戻そうと思っていたのは汲み取れましたが、私は表面的に受け取っても、内心はすごく辛く苦痛で仕方がない毎日が続いていた時に、療育先で友だちになったママとの出会いで、私は元旦那に対する不信感がなんだったのか確信を得て、彼の支配下の元で生きていた自分は、まるで鳥籠の中に飼われた一羽の鳥のようだと自分を比喩するようになりました。

それと同じ時期に、私自身にも発達障害がわかり、成人支援を受け、個別の相談をうけました。その方はとても有名な方だったので、ネームバリューもあったことで、とても信頼をしていました。セッション前に人になかなか話したことのない黒歴史をメールで送ったこともありました。発達障害の子どもたちに私と同じような黒歴史をつくって欲しくないというエゴもあって、メールをしました。タラレバになりますが、私はただ、この人なら、自分では訳のわからない不足感を説明してくださったり、その不足感の正体を解決してくださると思ったから藁にをもすがる気持ちで相談しました。自分の一番醜いと感じている性格を治してくれる人はこの人しかいないと思ったからです。ですから、一度目の相談の時「社会性が小学生」といったことを言われたことだけが記憶に残っているので、その当時はなんだか嬉しかったことを覚えています。いわゆる支援者萌えをしていたから嬉しかったと思うのです。まるで神からのご神託を受け取るようなラベル貼りだったのに、その時はただただ嬉しかったのを覚えています。ですが、最終的には、本当の私の問題を解決してくださることには繋がりませんでした。

数回、直接その支援者の方とお話させていただく機会に恵まれましたが、普段お話される時は優しいお顔や物腰で接してくださるのです。でも、私と二人きりになるセッションの時だけ無表情になられるので、それに違和感を感じてしまったことから、本心をいわなくなりました。『この人でも無理なのか…』そう思ってガッカリしたことを覚えています。今思うと私がただ自分の中にあることを包み隠さず相談すればよかっただけですが、どうしてもお利口さんキャラになってしまったし、支援者に気に入られたいという思いも少なからずあったからだと思います。そして、

「あなたの不足感は発達障害によるものなのよ」

と、ただ、その支援者の方にラべリングしてほしかっただけだったとも思います(恥)。それからは、心理面の相談よりも、生活支援で一か月のスケジュールや一日のスケジュールなどで自助努力していることを報告し、うまくいかないところはどうしたらいいのかアドバイスをいただいたりしました。でも、実は、その生活支援でスケジュールをたててもそのスケジュール通りに一日を過ごすことができない自分に苦しんでいました。なぜかというと、その当時の友だちも成人支援をうけていて、その子はスケジュール管理が徹底していたり、ルールがあるほうが生活しやすいようで、生活支援のアドバイスで上手くいっていたことを彼女を通して聞いていたからです。だから、そんな出来ている彼女と出来ない私を比べてしまうことで、自己否定をしていました。彼女は選ばれた人なんだと勝手に感じ、できない自分を責め更に私は自己否定しかしなくなりました。自分のスケジュール管理もできないばかりか、息子へのスケジュール管理も難しい私。ですから、ただただ出来ない自分を認めるしかなく、構造化された支援をしても、なかなか息子に響かないのは息子が重度だからなのだ、私のアセスメントが下手だからなんだ、息子の担当の先生がド素人だからだ。という負の感情を自分の中に溜め込んでいくだけになっていきました。その当時の支援がなぜ息子に響いていなかったのかは、身体を壊したことでわかることになりましたが、あの頃の自分に声をかけるとするなら『頑張ってるけど、もうやめていいよ。もう十分だよ。お疲れ様』そんな風に声をかけてギュッとハグをしてあげたいです。

その当時の私はただ漠然とする大きな何かに動かされていたように感じていた時期でした。ただ、そういう落ちている時は『魔がさす』という言葉があるように、無意味なズレた意味づけをし衝動的に行動してしまうことで、底なし沼のようにどんどんどんどん落ちていく自分に気がつかないまま、白夜の中を彷徨うような生き方を選んでいたように思います。それでも、本人は一生懸命だからこそ、自分の本当に行きたい世界への扉を開くことだけに捉われてしまっていたのかもしれません。そして、自分の人生の中で迷子になっていたのだと思います。導かれるように開く扉を他人軸で決めたり、自分の心の声よりも他者からのアドバイスを神の声だと勘違いしていたことで、私はさらに深い深い底なし沼をゆっくり沈んでいきました。昔テレビでみた“パンを踏んだ娘”のように…

 

あっ。長くなっちゃったので、【愛着のヌケ編②】に続きます。

ヌケてるのは頭だけじゃなく“愛着”もヌケてた件 【頭のヌケ編】

息子にカランんだことを最近記事にしていましたが、それはまた大切にしていることが浮かんで来たら記事にしようと思います。

実は私、AD/HDや鬱だけじゃなくて、それとは別に20代の頃から、酷い痙攣をすることがあったりして、それはずっと霊障だと思って何度かお祓いまで受けたこともありました。

発達障害の検査の時には脳波もとりましたが、その時は脳波に異常があるとはいわれなかったように記憶しています。ただ、自分では検査の時に赤色の点滅の時は痙攣が起きたんだけど、なんだったんだろうと思っていました。

産後授乳が終っても絞ればおっぱいがでてしまっていたけど、絞れば出るくらいだったのであまり気にしていなかったのですが、授乳後3年以上たっているのにおっぱい出るのはおかしいらしく、知人曰く、なんか魔乳とかいう人もいたから、すごく恥ずかしいことなんだと思ってて躊躇していたけど思い切って主治医に相談しました。(先生その時、ふいたんですよね。今思えば失礼な態度ですね(-_-))

主治医に相談したことで、産婦人科で検査することになって、高プロラクチン結晶だとわかったのが6年くらい前になると思います。高プロラクチン結晶の場合、脳腫瘍が疑われるといわれて、その時びっくりして不安で泣いたことを覚えています。その後、血液検査や造影剤をいれてのMRIの検査などの結果で脳下垂体腫瘍の疑いが出ました。その当時飲んでいた薬がリスパダールとバブロプサンナトリウム、パキシルトレドミン、セデコパンといったものを飲んでいたのですが、リスパダールが時折副作用で悪戯して下垂体が腫れてしまったり、ホルモンの値をあげてしまうこともあるということで、リスパダールがエビィリファイに変わり、半年後に再検査となりました。プロラクチンの値は通常値より少し高いということで心配することはないということになり、腫瘍らしきものも大きくはなってないが、まだ影があるようでしたので、ハッキリしないまま一年後再検査となりましたが、メンドクくさかったし、大丈夫だと思っていきませんでした。一年後検査にいかずにほっておいていたら、本当にシンクロなのかわかりませんが、数年前からやたら、テレビ番組などで脳腫瘍関係のドキュメントやドラマがあったりしました。その当時はシンクロだと思って、神様に検査に行くようにといわれているように感じていましたが、特に問題もないと思ったし、数年たつうちに自宅は盗聴されたり盗撮されてて見張られていると思ってたので、正直いうと『テレビとかつかったりまでして、遠回りな支援するんだな。心配だったら直接いえばいいし、家族にでもいって、検査させればいいじゃん。』それくらいにしか思ってなかったので、再検査に行きませんでした(苦笑)

ただ、昨年、自分をちゃんと治そうと覚悟を決めた後、断薬して漢方に切替えはじめ、自分の溜まっている感情をきちんと吐き出すようなことを行ったり、日常生活の中でストレスを抱えたり疲れてしまうと、全身の痙攣が起きたり、頭痛が酷くなったりしたので、改めて脳波や血液検査、MRIの検査をうけることになりました。自分自身の心身にでてる症状を一つ一つ帳面消ししていく事が大切だとも思ったからです。

脳波はある周波数の時に痙攣が起きました。どうやら脳波は深刻とはいえないけれども、波がでているということでした。更に詳しい検査をとのことでしたけど、それはなんだかたちきえました。

その後のMRIの造影検査で、腫瘍らしき影があるのは間違いないけれども、数年に撮影した時の影の大きさが変わっていないということで、生まれつき脳下垂体に穴があいているという結果がでました。稀に臓器に穴が空いている人はいるらしく、何も問題はありませんと脳外科の先生にいわれ腫瘍の疑いはなくなりました。

ただ、脳下垂体って10ミリ程度の大きさで私の穴は4ミリ空いているのです(=_=) 心配になっちゃうのわかっていただけますでしょうか? 大丈夫っていいきるお医者様たちは、世間一般でいわれるエビデンスに基づいたことだからそうおっしゃるのでしょうか?(ブ)その時、一緒に相方もついていってくれていて、その先生の説明に私は納得いかなくて、相方にぷんすかして文句いうので、相方はそれをたしなめてくれました。その後、神田橋先生へ結果を報告した時に、先生が私に納得するようにわかりやすく簡単に説明してくださったのを相方も一緒に聞いていたので、診察後の帰りの車の中で、相方は

「神田橋先生の説明は聞いてる俺も安心したし、わかりやすかった。お前がこの間怒ってたのはなんかわかったよ」

といってくれました。そして、

「先生の診察は俺が小さい頃お世話になっていた病院の院長先生の診察と似てる。そういう診察してくれる先生ってそんなにいないよね」

ともいっていたように思います。

身体は繋がっているのに、一つの部位だけをみて、何も問題ないといいきる医師に私は疑問を持ったし、腹がたちました。それでも不具合があっているのだから、全く関係ないわけはないよなぁと思ったのです。

その後更年期のお薬のことなどで漢方外来のある病院に行き相談しました。私の飲んでいる薬がイライラには一番適していて、それ以上の漢方はないということで、飲んでいる回数を増やしたりしてみてとアドバイスをいただきました。中医学的にみると更年期という症状に対して処方はしないのだそうです。その人の身体に現れている症状を全体的に診て処方するということでした。だから同じ病名でも、人それぞれで処方が変わるのですともおっしゃられました。その時も相方は一緒に聞いていて、私がいわんとすることを理解してくれたのは、少し嬉しく思いました。

約6年くらいにかけて、私の脳下垂体の影は腫瘍ではなく穴が空いていたということがわかりましたが、最近思うのは穴あいてたら、脳内の液体とか漏れてないのかなーと思うこともあります。そして、ことある度に起きていた痙攣は、最近おさまっています。一時期は本当に酷くて、自分の怒りを抑えるために興奮した後は、丸一日痙攣してしまうこともあったりしましたが、今は興奮しても痙攣が起こることはありません。抑制することが下手くそなので、とにかく深い深呼吸をしたり、息を細く長くはききったりして気持ちを整理できたりするようになりました。イライラしたりするときやPMS時はどうやら、イライラも落ち込みも酷くなりがちなので、漢方薬を飲み調整をしたりしており、ひと月に2~3回漢方を飲むくらいで心のバランスはとれています。

というか、今まで私どれだけ押し殺してたんだと思うくらい、リアルな生活で言いたい事いえるようになりました。罪悪感なんて全く感じなくなりました。

2次障害を治そうと思って、取り組んできた数か月後に、様々な感情が飛び出て家族を傷つけるしかなくて、それでも出さなきゃ自分が保たてないから、吐き出せるだけ吐き出すけれども、本当にぶつけたい相手が違うこともあったりして、自分を責めるしかない時期があった時は、数年前から身体のあちこち痛みが移動したり、緩和したりしていたことはありますが、関節全体が痛くて右手が使えなくなった時期もあり、両手の握力も弱くなったりして不便な生活になったこともありました。整形外科にいったりして、血液検査をうけたけれども異常はないといわれるだけで、深い検査ということにはならなくて、そこでも不信感を感じることになりました。そういう身体症状が出た後に鹿児島へ受診をした時に、線維筋痛症だとわかりました。それからはその治療もあわせて行っていましたが、食生活や生活習慣、冷え、そして自分自身を責めることをやめたり気功をするなどして、気の停滞をしないようにしていると、私の場合には、完治とはいえませんが、全身症状がでた時に比べると普通に生活できるようになっているので、痛みが出る時は自分に優しくするように心がけています。息子がお手伝いしてくれることもあるので、手が使えない時は彼をたよることにしました。それからは不思議と包丁が持てないということにはいたっていません。

心と身体は繋がっているということをよくいわれます。この数か月自分自身の心身と向き合ってきて、罪悪感という感情は、時に癌より人を蝕んでしまう得体のしれないものだよなとー思うことになりました。体験したことにしかわからない痛みや苦しみは優しい言葉かけだけでは不安はなくなりません。背中を押してもらう作業は、時にその人に勇気を与えることはありますし、助けになることもあるとは思います。ただ、人によってはその人に更なる足枷をかける単なるエゴにしかならないこともあります。一番苦しみ、悩んでいるのは本人なのだから、周囲にいる人ができることは、やさしい声掛けよりも、本人が助けて欲しいことを助けてといえる環境をつくってあげることなのではないのだろうか? 休み方や頑張らなくてもいい方法も考えたりすることも一つの方法だと思います。そして、本人がその病に呑み込まれないことなのだということも大切なことだなーと思います。

 

<頭のヌケ編終わり>

今日の空

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台風18号が北上していますね。

台風の目がどこを通るかで

大きく状況が変わるので

台風情報を何度も確認しています。

川の水も結構増えているようなので

河川が氾濫しないことを

祈るばかりです。

 

2?年前のこれくらいの時期に

就職試験で熊本市内へ来ていました。

二日目の試験中に台風が上陸するということで

その日に自宅に戻るはずでしたが

私の実家は大きな島になるので

橋が通れなくなり、船もストップしたので

台風が通過した翌日に自宅に戻ることになりました。

その時の台風はとても勢力が強く

被害も大きかったように思います。

JRと船で帰るつもりでしたが

その時は波が高くて船がストップしていたので

バスで帰えることになりました。

その当時は交通センターの隣は

岩田屋伊勢丹がありました。

その前あたりでタクシーを降りると

信号機が折れ曲がって道路に落ちていて

信号機って近くでみると

かなり大きいんだなと思いました。

通沿いにある銀杏の実がたくさん落ちていたり

帰りのバスの中で、通る場所通る場所

電柱が斜めに倒れていたり

田畑は水浸しになっていたりしていて

ある地区では電柱20本くらいでしょうか

その電柱が全部斜めになっていたりして

各地区の被害状況をみながらの帰路になりました。

フラッシュバックでいくつかの画像を

ひっぱりだして思い出せますが

私の場合は、動画は少なくて一枚の写真が

スライドのように思い出される仕組みなようで

どうやら印象深いところだけ覚えているみたいです。

(みなさんどんな感じなんでしょうか???)

 

そういえば最近、なんだかしらないうちに

思い出を辿ることになっていますが

フラッシュバックしてもお薬も飲んでませんし

気功もしていません。

ただ、落ちているようなので

その時のための漢方は服用しているくらいです。

それにしても、まだ稲刈りの時期ではないので

どうか被害がありませんようにと

祈るほかありません。

後は、自宅の窓ガラスが割れないように

雨戸を閉めたり、庭に置いている物が

飛んでいかないように準備して

飲み水とトイレ用のお水などを貯めておいたり

電気の復旧が長くなりそうなときは

冷蔵庫の物をなんとかするために

ペットボトルを凍らせたり保冷剤などを

準備したりしています。

震災の時に、おにぎりを握っておくと

便利だと教えていただいたこともあるので

おにぎりを握っておいたり

洗濯物を早めに洗っておいたり

なんだかいろいろ苦手な前準備で

頭がいっぱいになりそうです…(+_+)

こんな非常事態の時なので

私一人で息子と二人ぼっちなのは

やはり緊張するのですが

こういう非常事態の時には

何故かうちの相方はお仕事がお休みで

なんだか大きな力に守られているなーと

感じる事になっています。

こんな時だから…

天の声 地の声

風のゆらぎ 川のせせらぎ

鳥の群れ 花の色

潮の満ち引き

月の満ち欠け

雨音がこだましながら

秋の前触れを

教えてくれるそんな日だから

私は自分を責めたくなるのだろう

この地上で

どんなにもがき苦しんでいても

自然は移ろぎながら

ただ、其処にあって

時折、神様の気まぐれに

私たち人間は翻弄され

信じることを忘れてしまう

そんな時は

ただ己の感情のまま

生きても良いのだと思う

例えそれが人を

傷つけることになっても

私を守ってあげられるのは

私自身ほかならないのだから

 

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今日の空

昨日の爽やかな空模様から一転し

台風が接近しているからか

朝からどんより曇り空です。

時折雲の切れ間から

日差しがふりそそぐこともありますが

すぐにどんより曇り空になります。

雨が降ってきそうですが

降ってこないので

泣きたいのに泣けない時の気持ちに

似ているなぁと昨日の自分に

心をよせました。

 

昨日はプールに行こうと思ったら

残念ながら閉館日でした(苦笑)

(調べればいいのに調べなかったもので…トホホ)

それから、久しぶりに

昔住んでいたアパートの近所にある飲食店へ

『昔風ちゃんぽん』を食べに行きました。

あの当時からお店は変わったようですが

ちゃんぽんはそのまま引き継がれていました。

 

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息子がほとんど言葉をださなかった頃

2歳になるかならない時に

私の母(息子からしたらおばあちゃん)に

「ちゃんぽん食べたい」

と2語文で言ったらしく、

単語もまともに話さない子だったので

私は母の空耳だと思ってその時は

母がしきりに空耳じゃないと私に言うのですが

正直半信半疑でした。

ですから、母は手作りのちゃんぽんを

自宅で作ってくれたのですが

息子はほとんど食べませんでした。

なので、多分息子が食べたいちゃんぽんは

近所の飲食店の昔風ちゃんぽんなのだと思って

その後、その飲食店に食べにいったことがある

私と息子にとって懐かしいの味です。

私の母が食堂をしていた時のちゃんぽんは

実はあまり好きではありませんでした。

こちらの飲食店のちゃんぽんは

お醤油味であっさりなスープなので

私の好みの味だったりします。

臭覚過敏だったので鶏がらスープが

臭かったからかもしれません。

(今では食べられるようになりました)

飲食店で食事をすませた後

徒歩圏内に大きな公園があって

昔、息子をよく連れていっていた公園へも

歩いて行ってみました。

昔住んでいたアパートの隣の道路沿いは

桜の並木道でした。

満開の桜の木が風に吹かれて

桜吹雪になるのを息子にみせたくて

近所を散歩したことがあります。

風がふいても花びらが

そんなにひらひらしないから

道路に落ちている桜の花びらを両手にすくって

高い所から落としてヒラヒラさせて

息子と一緒に遊んだことを思いだしました。

息子が大分歩けるようになったら

自転車のカゴに乗せて

その大きな公園へ連れて行ってました

公園デビューをした時

他のお子さんたちの中にははいらず

ひとり砂遊びしていたり

大型遊具で上手に遊べなかったり

一人で歩いて回ることもしなかったこと

滑り台の階段さえ登れなかったこと

やっとみんなの遊ぶ遊具に

興味を持ち始めたけど

滑る方とは違うほうから昇ろうとすること

水遊びは大好きだったこと

たくさんのことを思い出して

なんだか、悲しくなってしまい

溢れてくる涙をぐっとこらえるのが必死でした。

息子の発達が遅れていることを指摘され

私はただぼんやりと何が違うのか

わかっていない時だったと思います。

まだわかっていなかったから

私は彼の好きなことをみつけて

とことん付き合っていました。その当時は。

ある日、同じアパートに息子より数か月違いの

年下のお子さんを持つお母さんに声をかけられて

「Yさんは、よくそんなに長い時間でも

つきあってられますね。」

といったようなことを言われたことがありました。

その時自分がなんと答えたのか忘れましたが

今思うと、私は息子にとって

ちゃんと必要なことをできていたんだと

昨日気がつきました。

私、ちゃんと私の子育てができてたのに…なぁって。

障害がわかったからといって

障害児の育て方をする必要もなかったし

今みたいに仕事をせずに

ゆったりお家のことしながら

息子と一緒に毎日遊んでいたならよかっただけで

そうしていたら、不必要な引っ越しもせず

経済的にも肉体的にも破綻することなく

別なカタチで元旦那ともやり直せたのかもしれない

ただ、多分私自身が主体性を取り戻したら

元旦那とはやり直せても別れただろう

そう確信もしました。

あの当時、別の道を選んでいて

私に主体性があったと過程して

違った未来がみえてしまって

そうしたら、自分がこれまでやってきたこと全てが

無意味なことだったと思えて

自分が情けなくて、悲しくって

その場で泣き崩れてしまいたかったのを

ぐっとこらえて

長い時間がかかったけれど

私は気が付けたのだから

遅くなったけれどそれで良かったんだと

自分をたしなめながら家路につきました。

それでも、病床の時に

思い描いていた遠い未来の中で

息子とそして新しいパートナーと

共に暮らせているのは奇跡だと思って

これからも一日一日を大切にして

暮らしていきたいとそう思いました。

 

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繰り返す情動

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私が自由を手に入れるには

 

どうすればいいのかなんて

 

笑っちゃうぐらい

 

とても簡単すぎるから

 

できないだけなのかもしれない。

 

自分を自由にすることも

 

不自由にすることも

 

自分にしかできないのだし

 

他の誰かに

 

私を自由にしてもらえたとしても

 

また、別の新しい鍵を

 

手に入れたに過ぎない…

 

しばらくは幸せかもしれないし

 

そのままずっと幸せで

 

其処にいられることは

 

あきらかだとしても…

 

ただ、私だから

 

また何かをきっかけに

 

自分が不自由だと

 

気がついてしまうのだろう…

 

もう既に自由であることに

 

気がつけばいいだけなのに

 

それを赦さないのは

 

他ならない

 

私自身であることに

 

気がついてない〝フリ〟をして

 

今を生きている